清河篇 余話(ニ)
関関雎鳩(一)
「清河篇(四十六)」の少し後、曹植が曹丕とともに鄴に帰ってからの話です。
-----------------------------------------------------
「
反対方向へ通り過ぎようとする軽装の馬車に、曹彪は声をかけた。
減速していたので十分聞き取れたのであろう、車上の人は御者に停車を命じ、車体を覆う傘の下でこちらに首をめぐらせた。
果たして子建こと三兄の曹植だった。
曹彪より四つ年上の異母兄である。曹彪は今年で数え十六になるが、すでに
「
「お早いですね」
通常の挨拶を交わしつつ、眠気が冷めやらぬようなくぐもった声だな、と曹彪は思った。この兄にしては早起きかもしれない。
季春とはいえこの時間は、襟元から忍び入るような冷気がまだそこここに感じられる。
「おまえも
「まだ、狩猟から戻っておられぬそうです。先ほど門番に教えてもらいました」
「―――ああ、そうか」
三兄のぎこちない返事に、曹彪はどことなく違和感をおぼえた。
曹植が向かおうとするすぐ先には、子桓こと彼らの長兄曹丕の邸がある。
曹操の数多い諸子のなかでも、既に妻帯している、あるいは官爵を得ている曹丕や
つまり、移動に伴う危険がほとんどないのだから曹植がものものしい護衛の一団を引き連れていないのは当然だが、それにしても今日はずいぶん身軽であるようにみえた。
馬車も列侯の格式に準じたものではなく、相当に簡素である。
御者のほかには、ここまで同行してきた者がいないのではないだろうか。
「とはいえじきに、戻られるかもしれないからな」
言いながら曹植は、視線を弟の肩の向こうに向けていた。
曹彪の違和感がますます大きくなる。
「いえ、本日は遠出だそうですよ。ご出発もずいぶん早かったと」
「そうか。だが、天候によっては引き返されることもあるだろう」
長兄宅への訪問を三兄はどうも諦めないようだ、ということを曹彪は察した。
自分が携えてきた長兄への用件は急でもなかったので、ここで三兄を置いて先に帰ってもよかった。
だが、三兄が長兄不在の邸で主人の帰還を待つというなら、自分もそれに倣おうかという気になった。
何事にも冷ややかそうに見えてじつは珍奇なものを集めるのが好きな長兄の蒐集品を話柄にしながら、待つ間にたわいない話もできるだろう。
つい先日、三兄が長兄とその友人たちとともに旅游から戻ってからというもの、曹彪は一緒に過ごす時間をたびたび設けたが、それでもまだ話足りない気がしていた。
三兄の気持ちも同じではないだろうか。
「では、お供します」
「え、―――あ、いや、そうか。では行こう」
曹植の反応がやや予想外のものだったので、曹彪も若干とまどいを感じた。
ふだんなら喜んで応じてくれるはずの兄である。今回ばかりは、長兄が戻ってきたら二人だけでごく個人的な語らいをしたかったのだろうか。
だが、露骨に断られたわけでもない。曹彪は曹植の車につづけて自分の車を長兄の邸に向かわせた。
先ほどの門番は意外そうな顔をしたが、わけを話すとそのまま通してくれ、邸内をつかさどる
ふたりが導かれた先は、中庭に面した眺めのいい室であった。
朱塗りの
家宰みずからが彼らを案内し、丁重に礼をして退出していった。
兄弟が望まなかったので、ふだん酒肴の世話をする侍女たちも室内からは退いている。
「今日はそもそも、子桓兄上にどのようなご用件でいらしたのですか」
座を定めた曹彪は、詮索というよりも世間話のつもりで切り出した。
珍しいことに姿勢正しく座についていた曹植は、心ここにあらずとも見える表情で弟を見返し、表情と同様に要領を得ない答えを返した。
「ん、いや、おまえは」
「わたしは書物をお返ししに来たのです」
しかしこれは、先ほど門前でことばを交わしながら既に伝えたことだった。
どういうことか、と曹彪は思った。
(婚約のことで浮かれておられるわけでもあるまいに)
ふだんより遥かに言葉少なになっている三兄の横顔を、改めて眺めてみた。
姿勢を崩さないまま案上の香炉を眺めつつ、どこか思いつめているようでもある。
先日、突然の婚約について色々聞き出したときのようすとはずいぶん違っている。
当初は曹植の口から直接聞かされたのではなかった。
数日前に父曹操の子女ら一同が家人のための正堂に集められ、曹彪はその中のひとりとして、父の口から三兄の婚約の成立を淡々と告げられたのであった。
吉凶いずれであれ家庭内に重要な行事が生じたときにこのような告知がなされるのは常のことなので、それ自体は奇妙ではなかった。
曹彪にとって奇妙に思われたのは、彼の見立てでは兄弟のなかで父から最も愛されているはずの―――少なくとも、曹彪から見てすぐ下の弟で、曹家の神童として父の寵愛を専らにしてきた
彼の出自である清河崔氏という氏族自体も、崔琰より上の世代に漢王朝への出仕者がいたかどうか知られていないように、曹彪が知る限りではほぼ無名と言ってよい。
一方、家名によってではなく個人の品行によって
だが、その点のみを考慮するならば、崔琰の実質的な女壻として崔家にあてがうのは曹植でなくてもよいはずだ。
曹彪自身も含め、婚約者の定まっていない兄弟は数多くいる。
(あるいは僕がまだ、丞相府の内情を十分に知らないだけかもしれない)
自分が知らないだけで、父曹操は崔琰の人品にひとかたならず傾倒しているのかもしれない。
しかし、堂々たる声と体躯と美貌ばかりでなく硬骨の人として知られる彼の逸話を思い起こすにつけても、崔琰という人物は、父が心から
(父上が自ら思い立ってお決めになったのでないとしたら、やはり、子建兄上自身が言い出したのか)
長兄が義姉を敵方から奪い娶った
曹彪は少し考えたが、ありうるな、と思った。
婚約が公になる数日前、曹植は曹丕や家臣団とともに旅先から帰ってきた。その旅游の途中で、曹植と彼の属官らは
清河東武城こそ、崔琰とその一族の本貫であった。
曹彪は、曹家の正堂で曹植の婚約が公開されたその日のうちに当人のもとを訪れた。
彼には自分こそが三兄と最も親しい弟だという自負がある。
もし今回の慶事が三兄自身の発意によるのであれば、旅游から戻った直後に直接、あるいは旅先からのたよりを通じて、なぜ速やかに伝えてくれなかったのかという腹立ちもあったことは否めない。
「兄上、このたびはおめでとうございます」
「ああ、聞いたのか」
筆を持って机に向かう曹植はつかつかと入室してきた弟を一瞥しただけで、視線をふたたび机上に落とした。そこには書きかけらしい簡牘があった。
「先ほど同じ堂にいたではありませんか」
「そうだったな」
「率直に伺いますが」
「何だ」
「新婦となるかたは、兄上が見初められたのですよね」
「ああ」
さして面食らったようすもなく曹植はうなずいた。簡牘から目を上げることもしないが、別に心にやましいところがあるというわけでもなさそうだ。
ふつうの士人ならば、父母の許しを得る前に当の女子に近づきをもったのだろう、などと邪推されれば怒り出すところである。
このあたりはやはり子建兄上だな、と曹彪は思った。
しかし、まだ解せないことがある。
もう少し込み入ったことを聞き出すために、思い切った問いをぶつけてみる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます