熠燿宵行(七)

(馬鹿なことを思い出した)


 曹植はかすかに頭を振った。数年前の自分の青さを内心で笑おうとしたが、実際には、笑い飛ばせるほどにいまの自分が成熟できているわけではなかった。


ぎょうでは、銅雀園どうじゃくえんの水辺で蛍をごらんになりますか」


 まるで自分の内側を覗き込まれたような気がして、曹植は思わずびくりとした。

 隣を歩く崔氏はこちらを向いていたが、彼の動揺に気づいたようすはなかった。


「ああ。あるいは、玄武げんぶのあたりで見かけることもあるが」


「玄武池、―――たいそう大きく切り開かれたところだと伺っております」


(鄴に数年住んでいたというのに、あの池を実見したことはないのか)


と曹植は不思議に感じたが、すぐに無理もないことだと思った。

 父曹操が曹家一門のために、また時に家臣らを招くために設けた銅雀園と違い、玄武池はたしかに時期によっては一般人でも近づくことができるが、士人の家の女子が気軽に自宅を出て鄴城下を通り、玄武池の岸辺で行楽できるはずもない。


 家風によるとは思うが、少なくとも崔琰は、仮に男性家人が同伴するとしても妻女や姪が鄴のような大都会で出歩くことをよしとしないであろうし、崔氏本人もそれを望んでいないようにみえる。


「そうだな。人工池だと言われなければ、およそ分からないほど広い。船団をいくつも浮かべられる。

 ―――そなたは、清河にいるうちは」


 ふと気になって、尋ねてみた。


「あの小川の岸で蛍をみるのか」


「はい。夏の一日の農事の終わりに、少し立ち寄って眺めることがあります」


「あれだけ澄んだ渓流だ。蛍火を映せばさぞかし美しかろう」


「はい。平原侯さまにお見せできたらよいのですが」


 その情景を思い出したのか、崔氏の口元は淡く微笑んでいる。


(このむすめは)


 蛍火に照らし出されてもこういう表情をするのだろうか、と曹植は唐突に思った。

 むろん、蛍火がそれほど強い明かりを発することはありえないが、こちらをみて微笑む彼女の姿が、その穏やかな輪郭が、宵闇のなかにほのかに浮かびあがるような気がした。


 数年前のあの宵に、銅雀園どうじゃくえんのあの水辺で感じた、いまにも自分を喪失してしまうほどの激しく荒れ狂う思いはそこでは跡形もなくなり、ただ静かにふたりで水面みなもをみていられるような気がした。


 彼は前方に向き直り、崔氏と顔を合わせないまま言った。


「今夏は難しいが、来年の夏あたり、またこの土地へ来るかもしれない。―――その、封地の平原県へ赴く途中で。

 そのとき、もしよければ、そなたをまた訪ねたい」


 崔氏は少し間を置いてから、来年は、と言った。


「来年は、家を出ているかもしれませんので」


 それは単に、清河の本家を離れて叔父たちのいる許都に移っている、という意味ではなく、そのころには他家に嫁いでいるであろう、という示唆であることは曹植にも分かった。


「そうか。残念だ」


 彼は短く言い、ふたたび黙って歩みを進めた。


(もしもこのむすめが今年の夏、許都へ戻る機会があり、その際に鄴を経由することがあれば)


 曹植にとっては西征軍に従って鄴を発つ時期の直前にはなるが、一日でも空きがあれば、このむすめを銅雀園に招じ入れて、ふたりで蛍火を眺めることができるだろう。

 玄武池は人の往来が多く騒がしいから、やはり銅雀園中の水辺がいいと思った。


 だが我に返ると、その考えの荒唐無稽こうとうむけいさに自分で笑いそうになった。

 他家の未婚の女子を自分のもとに招待するのはもちろんのこと、肉親でも夫婦でもない男女が、ひとけのない宵の薄闇のなかをふたりで過ごすという仮定自体がおよそ無茶であった。


「非常識が人の形をとるとおまえのようになる」


 兄姉たちからは常々苦い顔でそのように評されてきた自分ではあるが、さすがにその程度の常識はわきまえている。


(俺は、どうかしているな)


 今日すでに何度か思ったことを、曹植はまた思った。

 ふと、かたわらの崔氏が足を停めた。


「どうした」


 彼女はすぐにはこちらを向かなかった。唇をひらきかけては閉じているようにみえた。

 これほどゆっくり歩いてきたのに息が荒いはずはないが、少しく取り乱しているようなその唇に、曹植はひどく艶めかしいものを感じた。

 それに気づくと、いよいよ自分を殴ろうかと思った。


 丞相の属僚の家に寄寓する丞相の御曹司、という自分の立場にいながら、“そういう関心”をこのむすめに向けてしまったら、拒めない相手に卑劣な要求をする連中と、ほとんど変わりがないではないか。


 しかも、このむすめは自分に対し、風邪をひかせたことのみならず怪我を負わせたことで拭い難い罪悪感をかかえているのだから、自分が少しでもそういう素振りを見せれば、たとえ心中ではどれほど深く他の男を慕っていても、拒むことがいっそう難しいだろう。


 だからなおさら、いまの感覚は―――あの唇に触れてみたいという思いは、一瞬の錯覚だったと切り捨てなければならない。


 だが、いちど意識にのぼしてしまったものを即座に振り払うことが、いまに限ってできなくなった。

 唇の質感だけでなく、大きな黒い瞳に宿る潤いも、髪の黒々しさを引き立たせる首筋の白さも、荒れていながら繊細な手指も、以前から記憶に留まっていた。

 ずっと知っていながら、できるだけ考えないようにしていたのだった。

 

 やがて崔氏は彼のほうをみた。

 いまは灯火の黄色みがまさっているが、明るいところでみたならば目元に朱を浮かべているかもしれない、どことなく緊張した面持ちをしていた。

 渾身の勇気を振り絞るかのように、とうとう口をひらいた。


「平原侯さま、どうか、―――十分に回復なされるまで、どうかこのまま、我が家でゆっくり養生なさっていってください。

 もちろん、もし道をお急ぎでなければ、ですが」


 主人が客に向けることばとしてはあまりにも常套の句を言われたので、曹植はやや拍子抜けした。

 彼の応答を待たず、崔氏はまた歩き始めた。彼も少し遅れてそれにつづく。

 彼女の横顔はまだどこか張り詰め、自らの奥底に何かを秘め閉ざしているようにみえた。


(このむすめのことで、知らないことはたくさんあるな)


 曹植はそんなふうに思った。

 そして、許されるならばもう少し、この邸に滞在してみようかと思った。


「書庫に行ったあとの帰り、ご宗主そうしゅに目通りを願ってもよいか」


「宗主に、でございますか」


「もし貴家の行事にさしつかえなければ、もうしばらく、この邸で休ませてもらえたらと思う。―――そなたの厚意に甘える形になるが」


「いえ、それは――――――あの」


 崔氏はふたたび足を停め、曹植のほうをみた。

 あの、と彼女は二回くりかえし、次のことばをどうしても言えないかのようであった。だがようやく、吐息のような声で言い継いだ。


「うれしいです」


「そうか。俺もうれしい」


 淡い灯火のもとでも分かるほど、崔氏の顔が真っ赤になった。

 そのとき思いがけず風の音が起こり、ふたりとも脇を見やった。

 回廊からみえる外の景色は、ほぼ闇に染まっていた。


 風に弄ばれるまま白絹の破片のようなものが宙に踊っているかと思えば、ここまで吹き流されてきた杏の花弁であった。

 季夏の蛍火よりも儚げに軽やかに舞うそれは、彼らの耳元を次々にかすめたかと思うと、闇に溶け込むようにまたみえなくなった。






熠燿宵行・了






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 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 「3の倍数の日に更新」のつもりでしたが間に合わず、申し訳ありませんでした。


 このあと「清河篇 余話(二)」に入るつもりだったのですが、「熠燿宵行」の着想元になった曹植作品やその関連典籍について整理したいことがあり、1回だけ「覚え書き」を入れてから、「余話(二)」に入りたいと思います。

 もしよろしければお付き合いいただけましたら幸いです。

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