◆覚え書き◆ 漢魏晋期の清河崔氏③

 前回につづき、後漢末(~曹魏)に生きた清河崔氏族人のなかで記録が残っている3人のあらましをみてゆきたいと思います。今回は崔林と崔夫人です。




■崔林■

 『三国志』巻24に伝あり。

 崔琰の従弟。若いころは目立たず、清河崔氏宗族の中でも無名であったが、崔琰ひとりからは高く評価される。

 崔琰伝によれば、「いわゆる大器晩成の者だ」と常々激賞されていたという。


 曹操の冀州平定後、并州太原郡鄔県の長(令に同じ)に任じられるが、貧しくて車馬を調達できなかったので単身徒歩で任地へ赴く。

 のちに曹操が并州刺史張陟に州内で善政を布いている者を尋ねたところ、崔林の名が挙げられたので、冀州主簿に抜擢される。

 さらに冀州別駕従事を代任してから、丞相掾属に移る。


 魏が建国されてまもなく御史中丞に遷る(おそらくこの期間中に崔琰が失脚し自害する)。


 漢魏革命を経て、曹魏文帝期に尚書となるが、地方に出されて幽州刺史となる。

 在任期間中は北方異民族の侵攻をよく抑えたが、曹丕が信任する北中郎将呉質ごしつと対立したため河間太守に左遷される。


 次いで大鴻臚に遷り、外国使節に対する接待費用の倹約を実践する。

 明帝の時代になると関内侯の爵位を得、官職は光禄勲・司隸校尉に昇り、管轄下(司州)の各郡では不法行為がなくなる。

 要点を押さえた簡潔な政治により、崔林が転任して去った後の土地の人々はみな彼を思慕したという。


 景初元年に司徒・司空が欠員だった際に後任として推薦され、後に実際に司空となり、安陽亭侯に封ぜられる(のち安陽郷侯)。

 三公にして列侯に封じられた事例の濫觴となる。


 孔子廟をめぐる議論において、曹魏皇室ででもない人々の祀りを厚遇しなくてよいと主張する。


 少帝正始5年(244)に没し、孝侯と諡される。


官職      ―  品秩  ― 就任時期

鄔長(県令)  ― ※第八品 ― 曹操の冀州平定後

冀州主簿    ―      ― 曹操の冀州牧就任後

冀州別駕従事  ―      ― 曹操の冀州牧就任後

丞相掾属    ― ※第七品 ― 曹操の丞相就任後

御史中丞    ― ※第四品 ― 魏国建国後

尚書      ― 第三品  ― 曹魏文帝黄初元年(220)

幽州刺史    ― 第四品  ― 曹魏文帝期

河間太守    ― 第五品  ― 曹魏文帝期

大鴻臚     ― 第三品  ― 曹魏文帝期

光禄勲     ― 第三品  ― 曹魏明帝太和年間(227~233)

司隸校尉    ― 第三品  ― 曹魏明帝太和年間(227~233)

司空      ― 第一品  ― 曹魏明帝景初二年(238)


* * * * *


 崔林が曹操に鄔県の県長として登用された当初、「貧しくて車馬を揃えられなかったので、単身で歩いて着任した(貧無車馬、單步之官)」というのは官僚としての業績というより官歴前史ですが、史書にわざわざ特筆されたということは、戦乱で物資が不足していた当時であってもそういう人はよほど珍しかったのかもしれません。


 岡村秀典『東アジア古代の車社会史』(臨川書店、2021年)は殷周以前から魏晋南北朝までの中国や東アジアにおける車社会の発展を知る上でとても参考になる本ですが、漢代の状況についても興味深い記述が多々あります。


「漢代には官吏任用の条件として車馬・武器・官服などを自弁する必要があり、任用後も定期的に財産のチェックをうけていた。……後漢時代になると……辺郡の少吏たちは主に鞍馬に騎乗するようになったが、前後漢を通じて軺車や鞍馬が富裕な農民たちの間に普及し、それを財産資格として秩百石クラスの官吏に任用されることが少なくなかった。……[『後漢書』]輿服志の注に引く逸礼の『王度記』は「天子は六馬に駕し、諸侯は四、大夫は三、士は二、庶人は一に駕す」という。その成書年代は不明だが、庶人に1頭立て車馬を認めていることからみると、庶民の間にも軺車の普及した漢代の状況をふまえているのだろう」(p265)


 これによると、オフィス用品から制服まで社員に自腹を切らせる漢王朝は限りなくブラック企業のように見えますが、それはともかく、漢代の少なくとも戦乱で荒廃していない時期は庶民でも車馬を所有する資格があり、かつ比較的多くの人が実際に所有できていたらしいことが分かります。


 しかし戦乱時には、官府だけでなく私的な軍閥などによっても馬や車は徴発というか略奪の対象になるので、民間における希少価値はひときわ高まったものと思われます。


 崔林のときは県長でありながら徒歩で赴任しても問題視されなかったのは、後漢末のそのような逼迫した状況においては、車馬を自前で準備できる者だけを任用するのでは能力・資質ではなく財力が基準となり、適切な候補が限られてしまうので、車馬がなくともこの際やむなしと認められたのかもしれません。


 その一方で、


「『晋書』輿服志はいう。むかし貴族は牛車に乗ることがなかったが、後漢の霊帝(168-189在位)・献帝(189-220在位)以来、皇帝から最下位の貴族にいたるまで、朝廷への出仕や弔問などにも常に牛車に乗るようになった、と。」(p277)


「3世紀の魏晋代に車馬が衰退し、騎馬と牛車がそれに取って代わった。騎馬は車馬よりスピードが速く、牛車は鈍足ではあるが牽引力が大きい。その魏晋代に出現したのが大型の乗用牛車である。……[司馬昭が腹心らと同乗するエピソードから]魏末期には高位の貴族が牛車に乗ったということがわかる」(p286-p287)


とあるように、後漢末から魏晋にかけては牛車が上流層のスタンダードな乗り物になってゆくようです。

 しかしこれは比較的短距離の、急を要さない移動に限るとみられ、長官として地方へ赴任するときのような期限が切られた長距離移動の手段は、やはり騎馬や車馬が中心であったと思われます。崔林は超人的な健脚だったのかな……




 最後に、拙作のヒロインのモデル(と言いつつ人物像はほぼ不明ですが)でもある崔夫人です。




■崔夫人■

 『三国志』崔琰伝の本文によれば、崔琰の兄のむすめで曹植の妻。

 同伝の裴松之注に引く郭頒かくはん『魏晋世語』(以下、『世語』)によれば、崔夫人は「刺繍のある服を着ていたところ、高層建築の上にいた曹操がそれを見て、決まりに違反しているという理由で実家に帰して死を命じた(衣繡、太祖登臺見之、以違制命、還家賜死)」とある。


 これ以上の情報は史書にみえない。

 現在残っている曹植の作品の中にも、彼女に直接言及した文章はみえない。

(「金瓠哀辭」の句「去父母之懷抱」の「母」が崔夫人を指す可能性はある)


 『魏書』巻24崔玄伯伝附崔模伝に「崔模、字思範、魏中尉崔琰兄霸後也。父遵、慕容垂少府卿」とあり、『新唐書』「宰相世系表」南祖崔氏の条にも「密二子、霸・琰。霸曾孫遵」とある。


 これらが正しければ崔夫人の父の名は覇といい、崔琰とは二人兄弟で、おそらく官に就かなかった(ただし崔琰のあざなには「季」が使われているので、彼の上には計三人の兄がいるようにも思われる)。

 崔覇に(男系の)後裔がいるということは、崔夫人には兄弟がいたとみられる。


* * * * *


 王書才「曹植洛神賦主旨臆解」(『達県師範高等専科学校学報 (社会科学版)』第15巻第3期(2005年))という論文は、「洛神賦」の洛神のモデルは崔夫人だと主張している珍しい立場なのですが、その是非はともかく、崔夫人のことを「自由を求めて束縛を嫌い、活発で感情の赴くまま生きる少女だっただろうから、曹植の性格とちょうど一致していた(她也是一位讲求自由不愿受约束的活泼任情的少女和曹植的个性恰相一致)」であろうと述べています。

 これは彼女が服装の規定違反という理由で殺されたとする『世語』に基づく推測かと思いますが、中国語のオンライン記事などだと、これに似た論調の文章がたまにあります。


(追記:王学軍・賀威麗「曹植『洛神賦』意旨蠡測」(『貴州文史叢刊』2011年第3期)という論文も、曹植が「洛神賦」において悼んでいるのは崔夫人(と曹操)という立場のようです。

 崔琰は容姿が優れていることで名高いからその姪も美貌だったに違いない、などなど、論旨は王書才論文に通じるところがあります)


 崔夫人についてはとにかく記録がなさすぎるので、その人柄を考えようとしたら『世語』から類推するほかないのは分かるのですが、ただ『世語』は裴松之が「いちばんどうしようもない(最為鄙劣)」と評したほどの文献でもあり、どこまで信じてよいのか……という疑いは常に伴います。


 仮に『世語』の記述を受け入れるとしても、「衣繡、太祖登臺見之、以違制命、還家賜死」というこの短い文章がすでに妙ではあります。

 『三国志』武帝紀の裴松之注に引く『魏書』に「雅性節儉、不好華麗、後宮衣不錦繡」とあるように、曹操は奢侈を好まなかったため自分の妻妾に錦織や刺繡のある服を着せなかった、といわれているので、おそらくその禁令は曹家全体でも共有されており、破った者には罰則があっただろうと推測されます。


 ただ、処罰の内容がどのように規定されていたかは明らかではありません。

 仮に死に値するほどの重い罪だとすれば、ふつうは正式な取り調べをおこない、事実確認ができたら刑吏によって処刑させるはずです。


 たしかに、崔夫人に対し恥辱的な刑死ではなく尊厳のある自死を命じたのは曹操の温情だったかもしれませんが、『世語』の記述に拠る限り、この事件では曹操が「わしが遠くからそれを目にしたから」という理由のみで崔夫人を実家に帰し、自殺させています。

 なので、彼女が刺繍の服を実際に着ていたのかどうか、仮に着ていたとしてそれは死刑相当の罪だったのかどうか、客観的にはそもそも不透明です。


 前掲の王書才先生の論文は、「洛神=崔夫人だよ!」という本筋の論証は説得力に欠けるのですが、ちゃんと根拠のあることも指摘されていて、それは、曹操による各種の禁令の運用はわりと恣意的なものだったということです(例として、禁酒の令を布いていた時期にこっそり飲酒していた徐邈じょばくを結局罰しなかった件が挙げられています)。


 これは重要な点だと思います。つまり、刺繍のある服を着るのは別に死刑相当ではないが or 崔夫人はそもそも刺繍のある服を着ていなかったが、曹操は彼女を排除したかったから・・・・・・・・・罪名をつけて自殺に追い込んだと考えるほうが自然ではないでしょうか。


 罪を言い渡された時点の崔夫人は(平原侯夫人ではなく)臨菑りんし侯夫人だったとみられるので、斉国/斉郡の治所である臨菑県、すなわち刺繍など繊維業の伝統的な名産地を食邑とする列侯の夫人、という連想で、ほかの人の目にも納得しやすい罪状を与えられたのではないかというのが私的な見解です。


 後漢の斉国/斉郡の刺繡に関しては、たとえば王充『論衡ろんこう』程材篇に「斉郡では代々刺繡が盛んで、平凡なむすめでも刺繡ができる。襄邑じょうゆうの習わしでは錦織が盛んで、魯鈍な婦人でさえ上手に作ってみせる(齊郡世剌繡、恒女無不能。襄邑俗織錦、鈍婦無不巧)」といった記述があります。


 また、刺繍のような奢侈品を禁じる本来の目的は、終わらない戦乱のなかで減り続ける生産者人口に対し税負担を過重にしないという意味が大きかったのだと思いますが、そうすると奢侈品の禁を犯した者に対する罰というのは、少しでも社会の生産力向上に貢献せよということで、死刑よりは労役刑あたりが妥当になるのではと思います。


 まあ仮にそうだとしても、さすがに息子のよめであった者を刑徒に貶すのは曹操としても体裁が悪いし、崔夫人本人もそれよりは自決を望むだろうので、あっさりと死に追いやったということかもしれませんが……


 「曹操が崔夫人を排除したかった理由」というのは様々に論じられそうですが、やはり、崔琰の死と切り離しては考えられないと思われます。


 崔琰と崔夫人の死に関する記述は、『三国志』崔琰伝の本文と注においては、


【本文】植、琰之兄女壻也。太祖貴其公亮、喟然歎息。

【注】『世語』曰、植妻衣繡、太祖登臺見之、以違制命、還家賜死。

【本文】遷中尉。……遂賜琰死。


という並びになっているため、一見すると崔夫人の死が崔琰の死に先立つように読めるのですが、仮に崔夫人の死が先だとしたら、崔琰はそれまで丞相府において倹約の気風をみずから推進してきた立場上、身内が奢侈の禁を犯して自死を命じられるほどの重罪人になろうものなら、彼自身も辞職などはっきりした形で責任をとったと考えられます。

 しかし実際はそうではないので、やはり崔琰の死のほうが先だと考えられます。


 崔琰が曹操から憎まれるようになった理由もまた、これまで様々な角度から論じられてきており、拙作では拙作なりの解釈を示したいと思っておりますが、どのような理由によってであれ、曹操としては、もはや崔琰を生かしておくことはできないと腹を決めた時点で、崔琰の肉親を曹家の姻戚として留めておくという選択肢はなくなった、ということかと思われます。


 そんなわけで何が言いたいかというと、崔夫人の死の原因は必ずしも彼女の行動にあるとは限らず、つまり規定違反を平気でやらかす奔放な女性ではなかったのではないか、ということです。


 それに加え、(曹植が自分で崔夫人を見初みそめたのでない限り)曹家と清河崔氏との婚姻は曹操の一存で決定されたはずである以上、崔琰はじめ清河崔氏の人々としては「平原(臨菑)侯の歓心を買えるようなむすめを差し出そう」よりは「うかつに丞相の怒りを買いそうなむすめを曹家に嫁がせてはならない」と切実に考えたはずなので、「やらかしそう」な恐れのあるむすめは最初から候補に入れなかったと思われます。


 いわば清河崔氏一門の盛衰を担うかもしれない存在として曹家に送り出された立場であることを考えれば、崔夫人はおそらく、崔琰と同じく品行方正で礼節を尊ぶ女性だったのではないかな……と筆者は思っています。

 少なくとも、この時期の清河崔氏は明らかに寒門なので、その家から丞相の家に嫁いできた女性が我を通したりするというのは想像しがたいです。


 そしてそれでいながら、ファンキー公子曹植と崔夫人との関係は良好だったのでは?と思える根拠もあり、この点については追々述べてゆきたいと思います。




その④へつづく

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