◆覚え書き◆ 漢魏晋期の清河崔氏④

 ここまで見てきたように、漢朝四百年を通じてめぼしい官僚や学者をひとりも輩出していない、つまり氏族全体としては大した門地ではない後漢末時点の清河崔氏が、丞相曹操の愛児の姻戚として選ばれた理由が本当に謎なのですが、(曹植が自分で見初みそめたよ説を除くと)仮説として以下のふたつが考えられるかと思います。


 ひとつは、曹操は袁家の冀州支配を打ち破ってその幕僚の多くを吸収し、とくに建安9年(204)以降は曹家の本拠地を冀州の核たるぎょうに置くようになった以上、冀州人士の輿望を担う人物と通婚することで冀州における人心収攬しゅうらんを企図した可能性が考えられます。


 この「冀州人士の輿望を担う人物」、いわば冀州人士の代表格であると曹操が見なしたのが崔琰であり、自らの嫡子(卞夫人所生)のひとりである曹植のために崔琰の家の女子を聘することで、単に清河崔氏に対してだけでなく冀州人士全体に対して「わたしは君たちを尊重している」とアピールすることを図った可能性です。


 曹操が冀州牧となった当初、辟召へきしょうしたばかりの崔琰をどれぐらい重んじていたかは、牧/刺史の副官級である別駕従事の地位に崔琰を登用したことにも表れています。つまり、冀州出身者(あるいは袁氏軍閥出身者)のなかでも筆頭クラスとして待遇すべき相手であると、曹操は認識していたことが分かります。


 崔琰が袁紹に仕え始めるまで、清河崔氏という一族は明らかに官界と縁がないのですが、そういった寒門出身でも崔琰は鄭玄じょうげんの弟子という経歴および幕僚としての真摯な言動によって袁氏軍閥で一目置かれるようになり、それは虚名ではないことを登用後に曹操自身も認識した、それゆえに“家柄の高下より個人の資質こそ取るべき”と曹操らしく割り切って崔琰を抜擢したものと思われます。


 そして、仮に冀州人士向けアピールという意味が大きかった場合、曹植と崔夫人の婚約が成立したのはわりと早いうち(崔琰ら袁氏軍閥出身者が曹操の元に大量に辟召された時期、つまり鄴の陥落からまもなく?)だった可能性があります。

 鄴の陥落時点では曹操最愛の子である曹沖そうちゅうは存命中なので、当時13歳ぐらいだった曹植は曹操から既に詩文の才を見出されていたにしろ未だそこまで「別格の息子」というわけではなく、それだけに曹操は曹植の婚約相手を選ぶ際にもあっさり決めることができたかもしれません。


 ちなみに、江竹虚撰・江宏整理『曹植年譜』(台湾商務印書館、2013年)では、「建安十一年丙戌(西元二〇六年)十五歳」の条に『三国志』巻12崔琰伝と『資治通鑑』巻65の記事が引かれ、「[曹植はこの年、]兄曹丕とともに鄴に留め置かれ、文学を熱心に学び、経書や史書や諸学派をもあまねく学んだであろう(當與兄丕倶留鄴都、攻讀文學、旁及經史百家)」という見出しが付けられています。


 さらに本条の末尾に、江竹虚先生は「按琰為植之妻叔、雖傅文帝、想亦為植課讀也」と按語を付されています。


 つまり、建安9年の鄴陥落以降に曹操に登用された崔琰は、建安11年、鄴の留守を任された曹丕のもりやく(補佐役)としてやはり鄴におり、狩猟にのめりこむ曹丕を懇切に諫めて反省させたことが彼の本伝に記されているわけですが、江竹虚先生の解釈によれば、この場合の「傅」は曹丕のサポートだけではなく、当時15歳だった曹植を含む曹操の子弟らへの学問(崔琰の場合は主に経学でしょうか)指導も担っていた、ということかと思います。


 もしそれが正しく、かつ十代半ばのこの時期に曹植と崔夫人に接点があったのならば少女小説的には王道の展開なのですが、崔琰の目から見た曹植が理想的な生徒であったとは到底思えない(書物の呑み込みはやたら早いが基本的な礼儀作法ができないタイプ)ので、身内のむすめには絶対近づけなかっただろうな……という気がします。


 いずれにしても、曹操の継嗣として曹丕を断固支持している態度からも明らかなように、崔琰は我が身の栄達を図って上司に対し自分の身内との縁談を持ちかける類の人物からはかけ離れているように思われます(そもそも一般論として、幕僚から府主に対して通婚を請うのは非常識だったはず)。

 万が一崔琰の側から曹操に縁談を持ちかけたのだとしても、上司である曹操の承認がなければ絶対に実現しえないので、最終的には曹操が決定した縁談であることは間違いありません。


 また、曹植の同母兄曹彰そうしょう孫賁そんふん(孫堅の甥)のむすめを娶らせた件と異なり、曹操は崔琰を幕僚として登用した後で曹植と崔琰の姪の婚約を成立させたことも間違いないので、曹操からみて清河崔氏との通婚は他陣営と結んだ政略結婚とは言えないですが、「本来は敵陣営だった」という点では崔琰と孫賁には共通する点があるかもしれません。


 とはいえ、孫賁あるいは張繡ちょうしゅう(自分のむすめを曹操のむすこ曹均そうきんに嫁がせた)と違って崔琰は軍閥の長や部隊を擁する指揮官でもなく、また以前の回で論じたとおりこの時期の清河崔氏は「冀州を代表する名族」とはとても呼べないので、鄴陥落後の曹操が崔琰の親族との婚姻に軍事上・内政上のメリットをそこまで見出していたか? あるいは、この婚姻によって冀州全体の人心を収攬することがそれほど期待できたか? と考えると、かなり疑問が残る気もします。


 もうひとつの可能性は、曹植が結婚適齢期を迎えた時期(20歳になった建安16年(211)ごろ=魏国成立の2年前ごろ)の曹操は、のちに崔琰が魏公就任に賛同しない(勧進かんじんに加わらない)立場をとるとは全く予想しておらず、丞相府官僚の輿望を担う崔琰は曹植にもっぱら“良い”感化や指導を与えるだろうと期待したがために、崔琰が実質的に曹植の岳父となるような婚姻を成立させたのではないか、というものです。


 以前に曹丕の補佐役を務めさせた時の崔琰の仕事ぶりとその成果(狩猟に溺れたことを曹丕に深く反省させたこと)を曹操は高く評価しており、かつ曹植こそ継嗣と指名するにふさわしい器かもしれないという思いも芽生えており、そのためには(名士層の支持をも勝ち取るためには)曹植の弱点である素行不良をどうにかしないといけないという焦燥感があり、それらの要素が重なったことで崔琰を曹植の姻戚として指名した―――という運びになった可能性もありうるのではないかと思います。


 仮にそうだった場合なおのこと、清河崔氏には品行方正な女性をよめとして差し出すことが期待されており、清河崔氏のほうもそれに応えようとしたと思われます。


 ただし、諸史料を参照する限り、曹操が曹植のことを継嗣候補として視野に入れるようになったのは彼が23歳で臨菑りんし侯になってから(建安19年(214)以降)の時期なので、曹植が平原侯になるかならぬかのころから曹操は将来を見据えて手を打っておいたのだ、と仮定するのはいくらか無理があるかもしれません。


 ともかくも、筆者としてはあくまで、曹植が封地平原へ赴く途上の清河東武城の地でたまたま崔夫人本人を見初めたという可能性を推したいと思います(しつこい)。


 あと、非常識人同士……もとい自由人同士だと却ってうまくいかない気がするので、崔夫人は節度ある妻として曹植のやりたい放題ぶりに時々ブレーキをかけながら仲睦まじく暮らしていたということでいいのではないでしょうか。真面目であればあるほど胃がキリキリしそうではありますが……。

 各種『三国志』ドラマで描かれる崔夫人像のなかでは、思慮深く忍耐強い『新洛神』(2013年)の崔麗さんがイメージに近いです。


 コーエーテクモゲームスのゲーム『三国志』14の崔夫人(崔氏)グラフィックも、美形の上に気がきつそうで大変いい感じですが、優しいママンにでれでれに甘やかされたボンボン(誰とは言わんが)はなかなか寄り付かなさそうな雰囲気ではあります。

 清河崔氏の女性=誰もが仰ぎ見る気位の高いセレブ令嬢、という北朝隋唐くらいのイメージが反映されているのかもしれません。


 このゲームには「親愛」という機能があるのですが、崔夫人(崔氏)→曹植はあるのにその逆はなく、曹植⇔甄夫人(甄氏)は相愛という三角関係だったりします。

 後述するような理由で史実の曹植は崔夫人にちゃんと哀悼の念を抱いていたようなので、次回作からはぜひ崔夫人⇔曹植でお願いします! 崔夫人⇔曹植⇔甄夫人でもいい! 曹植が外道っぽくなるけれども!! あと曹志そうしの登場もぜひお願いいたします。






 ともかくもこのように、後漢末というのは、清河崔氏の人々にとって中央の権勢に近づく道が開かれたと思ったら急降下しかける、というジェットコースターのような時期であったように見えます。


 しかし、崔琰・崔夫人が立て続けに非業の死を遂げた時期、崔林がよく自重して目立った反応を示さず(崔琰の死に憤りを隠せなかったために免官された毛玠もうかいとは対照的です)、崔琰にかこつけて他人から誹謗中傷されるような隙を作らず、そのまま官界に残りつづけたことは、後世の清河崔氏一門の展開からみると極めて重要な意義を持っていたように思われます。


 このとき官歴が断絶しなかったおかげで、崔林は丞相府/魏国官僚として実績を積みつづけることができ、漢魏革命の後も顕職を重ね、ついには三公(司空)にして列侯(安陽亭侯)という、ほぼくらい人臣を極めたと言ってもよいポジションに至りました。

 『三国志』巻24崔林伝で陳寿が「三公にして列侯に封じられるケースは、崔林に始まる(三公封列侯、自林始也)」と述べるように、崔林は歴史的な先例をひらいたことになります。


 崔林の嫡子崔述さいじゅつはおそらく安陽亭侯の爵位をそのまま継いだであろうという以外に業績は不明ですが、その弟の崔随さいずいは西晋で尚書僕射ぼくやにまで昇ります。八王の乱で趙王司馬倫しばりんに加担したせいで、最後には官界から放逐されますが……


 崔林が立伝されている『三国志』巻24の「韓崔高孫王伝」は「曹魏の後期に高位に昇った能吏列伝」とでも呼べそうなラインアップですが、各人に対する巻末の評のなかで、陳寿は崔林に対しては「簡素・質朴にして知性・才能に優れる(簡樸知能)」と形容しています。


 実際に、本伝に描かれる崔林という人は、自我をあまり表に出さずに淡々と自身の職務に徹する有能な官僚、というイメージが強いです。だからこそ、崔琰の死後にも曹操配下に留まることができたのかもしれません。

 そんな彼の素顔というか本音のようなものが垣間見えるのは、本伝ではなく崔琰伝のほうです。


 正確には崔琰伝の裴松之注に引かれる『魏略』の文章ですが、それによれば、曹魏明帝の時代に(おそらく司隸校尉だった時期の)崔林が司空の陳群ちんぐんと冀州人士について論じていたとき、崔琰をその筆頭に挙げたところ、陳群からは「彼は自分の身を全うできるほどには賢明でなかった」としてこきおろされます。


 このとき崔林が陳群に対して返したのが、


「[わが従兄のような]剛直な人物には[しかるべき主君との]出会いがあるべきなのだ。[それにひきかえ]あんたらのような連中にはありがたがる値打ちもない」

(大丈夫為有邂逅耳、即如卿諸人、良足貴乎)


だったといいます。

 陳群の反応は記録されていませんが、おそらく崔林のように淡白な人物にしては稀なほどの激昂を見せつけられたので、それに気圧されてことばを失ったのではないかと思います。


 「大丈夫為有邂逅耳、即如卿諸人、良足貴乎」という崔林の発言は、読む側が色々補完しないと意味が取りにくい(上記の拙訳は筑摩書房の井波・今鷹訳を参考にしたものです)のですが、『三国志集解』巻12の本箇所に引かれる趙一清ちょういっせいの「陳群の人となりはこれほど軽佻浮薄なのだから、その子陳泰ちんたいはいうまでもない(陳長文爲人輕薄如此、況玄伯乎)」というコメントを見る限り、このときの陳群は明らかに軽率な発言をしている(だから崔林がブチ切れるのも当然だ)、と清代の学者も解釈していたことになります。


 「卿」という二人称は、親が子に用いたりする「汝」「爾」などに比べればいくらか丁寧ではありますが、『三国志』巻19曹彰伝で曹丕が曹彰に対して「卿新有功(おまえは新たに功績を立てたが)……」と語りかけているように、また『世説新語』の用例などにもみえるように、魏晋あたりだと同輩か同輩より少し下の者に対する「おまえ」「あんた」「きみ」ぐらいのニュアンスだったと考えられます。少なくとも目上の相手に使う二人称ではなさそうです。


 陳群は崔林の上司ではないものの上位(三公)ではあったわけで、それにもかかわらず崔林のこの反駁とこの口調というのは、陳群個人に対してというよりかつて崔琰の死に関わったすべての者に対する、激しい怒りの爆発を感じさせます。


 この発言中では曹操の名を直接出してはいないとはいえ、曹操は崔琰にふさわしくない狭量な主君であったと崔林は明らかに非難しているわけで、曹魏朝廷にあってはかなり危うい発言だといえます。

 それを思えば、族滅を避けるために崔琰の死を淡々と乗り切ってきた崔林も、ここにきてとうとう堪えがたくなったかのように感じられます。

 個人的にはとても印象深い一幕です。




⑤へつづく

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