◆覚え書き◆ 漢魏晋期の清河崔氏①
「清河」篇の本編は前回が最後になります。お読みくださった方々、本当にありがとうございます。
以下の「覚え書き」の内容は、拙作をお読みいただくうえで必須の情報という訳ではありません。拙作の展開も、とくにヒロイン崔氏の運命は史書の記述どおりではありません。あらすじでは「バッドエンドではない」としておりますが、ヒロイン的には山あり谷ありなりにハッピーエンドと言ってよいかと思います。
(なお、拙作で扱うのは黄初年間までになります)
ただし、拙作の今後の展開に関わるネタバレ要素は大いにありますので、苦手なかたはこのパートを飛ばしていただければ幸いです。全7回の予定です。
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この「覚え書き」では、曹植の(おそらく最初の)妻崔氏の実家である清河崔氏についてとりあげたいと思います
ややこしいので、以下、最初の妻のことは崔夫人と呼称します。
おそらく最初の、と書いたのは、曹植には崔夫人より前に娶って短期間で婚姻が終了した女性(病死など)が絶対にいないとは言い切れないという意味ですが、史料上で分かる限りでは、曹植はどんなに遅く見積もっても
曹植の妻が中国の三国志ドラマや小説等で言及されるときは、「かの名族清河崔氏の令嬢で……」といった枕詞をともなうことが多いですが、おそらくこれは、主な視聴者として想定されている中国語圏の人には「清河崔氏=唐代ぐらいまでの超セレブ」というイメージが定着しているためと、ストーリーの展開上その設定が必要とされている(ただの箔付けではない)ためかと思われます。
とくにドラマ『大軍師司馬懿之軍師聯盟/虎嘯龍吟』(邦題:三国志~司馬懿 軍師連盟~)では、曹操が曹丕・曹植の対立を煽りたてる上で、その設定が大きく活用されていました(曹丕からみると、父上が自分に妻として与えるのは戦争捕虜に過ぎない
近年の三国志ドラマの中で同じく評判の高い『三国機密之潜龍在淵』(邦題:三国志 Secret of Three Kingdoms)でも、父が決めた曹植の結婚相手を知った曹丕が激昂するシーンを丹念に描くことで、清河崔氏は当時それほどに有力な名門で、この一族と通婚できるのは羨望に値するのだということが表現されています。
厳密に検証したわけではありませんが、因果関係としてはおそらく、近い時期に放映されたこれら2作品の両方とも「清河崔氏=後漢末からすでに名族」設定を盛り込んでいたために、虚構ではなく史実と受け止められて中国語圏に広まったのではないかな……という気がしています。
少し似た例だと、曹丕の妻甄氏についてネット検索すると、中国語ウェブページではしばしば「江南有二喬、河北甄宓俏」((漢末~三国期の)美女といえば長江以南では大喬・小喬、河北では甄氏)という句を見かけます。
甄氏の本貫である後漢の中山郡は現在の河北省に位置するので、「河北」はそのままの意味で読んでも通じますが、ここではもっと広く「黄河以北」と解したほうが、「江南」に対応するかもしれません。
現代中国語では、「喬(乔)qiáo」と「俏qiào」で押韻する二句でもあります。
(中古音の音韻体系を伝えるとされる『広韻』だと喬は平声宵韻、俏は去声笑(𥬇)韻)
この句を “21世紀現在、ネット上で定着した言い回し” として使っているだけなら全く問題ないのですが、たまに、「大喬・小喬と甄氏の美女ぶりは三国時代からこのように称えられていた」「古くからこのように詠まれてきた」という説明が添えられたうえで、「江南有二喬、河北甄宓俏」が使われていることがあります。
現存する史料上では甄氏の諱は分からない(フィクションでよく見かける甄宓あるいは甄洛というのは20世紀以降の小説やドラマで定着した名前)のだからそんなわけあるまい、と思っていたのですが、「江南有二喬、河北甄宓俏」はどうやら『甄嬛伝』(邦題:宮廷の諍い女)という中国で大ヒットしたドラマを出典とする言い回しのようです(ウェブ小説が原作とのことですが、原作でこの句が登場するかどうかは未確認)。
日本史でも、とくに女性は信頼できる史料上で個人名が不明な人が多いですが、大河ドラマなどに重要な役割で登場するときは無名にするわけにはいかないので、オリジナルの名前(もしくは原作小説での名前)をつけられることが多く、そのドラマがヒットすると作中での名前が人口に膾炙して定着してしまう、ということがしばしばあるかと思います。
清代を背景とするドラマ『甄嬛伝』では、「江南有二喬、河北甄宓俏」という句は、ヒロイン(架空人物)の美貌に感銘を受けた雍正帝の発言として出てくるもので、ドラマ製作者あるいは原作者の方々はこの句が三国時代からすでに存在したかのように広める意図は全くなかったと思いますが、ウェブ小説よりいっそう幅広い範囲の人々に視聴されやすいドラマというコンテンツの影響力は極めて大きいものであり、製作者側の意図しないところでいつのまにかこの句も「経典化」してしまったものと思われます。
『甄嬛伝』と同様に、『軍師連盟』『三国機密』も近年の三国志ドラマのなかでは非常に人気を博した作品であり、かつ、両作品とも衣食住などはかなり史実寄りに再現しているので「考証のしっかりした作品」という印象が生まれやすく、“清河崔氏=後漢末からすでに名族” という、物語の本筋に関わらない虚構は虚構だと意識されずに受け入れられやすかったのかな……という感じがします。
これらのドラマを観るよりだいぶ前ですが、筆者も「曹植の妻の出自は清河崔氏である」と初めて知ったときは、「そうか、曹植はすごい名門女性と結婚したんだ。結婚自体は曹操が手配したとしても、本人は格式とかに関心が薄そうなのに意外だ……でも
しかし、その後よくよく調べてみると、曹植と崔夫人が結婚した後漢末時点の清河崔氏というのは、崔夫人の叔父である
崔琰・崔林のふたりがむしろ、清河崔氏がその後数百年をかけて名声を築き上げ栄華を極めてゆく上での起点にあたるようです。
清河崔氏研究の専著としては、
この本はタイトルのとおり、いわゆる中古時期(魏晋南北朝隋唐期)がメインではありますが、春秋時代の崔氏の起こりから唐末までの清河崔氏の栄枯盛衰を、家風などの特色と併せつつ知ることができます。
なお清河崔氏の家風というか家学というテーマでは、同じ夏炎先生の「中古清河崔氏家伝文化研究」(『中国社会歴史評論』第5巻、商務印書館、2007年8月)がより集中的に論じています。
これらの研究成果や史書の記述を参照しつつ後漢末時点の清河崔氏について一言でいうと、名族でもなんでもなかったようだ、ということになります。
後漢末に冀州名士として声望を集めた崔琰、そして曹魏明帝期に三公の地位に昇る崔林を出したことでようやく、清河崔氏の名も歴史の表舞台にでてくるようになるけれども、崔琰・崔林以前には本当にぱっとしないというか、そもそも記録が残っていない感じです。
つまり、漢朝400年の大半を通じて官爵とはほぼ縁のない一族であったということになります。
よく知られるように『新唐書』の「表」には唐代に宰相を輩出した名族の家系図のような性格をもつ「宰相世系表」があり、そのなかには崔氏も立てられています。
このうち博陵崔氏を除いた清河系統の崔氏としては「鄭州崔氏」「許州鄢陵房」「南祖崔氏」「清河大房」「清河小房」「清河青州房」という六支が挙げられ、それぞれの家系の展開が示されます。
これらのうち「清河青州房」の祖が崔琰、「南祖崔氏」の初代から数えて四代目が崔林であるといった説明があり、南祖に加え東祖・西祖の系統が後漢の同時期に生まれたとあります。
そしてそれに先立ち、崔氏はそもそも春秋斉国の公室である姜姓から分かれたもので、有名な崔杼のときに斉の正卿になったけど色々あって(ここは言及なし)、唯一生き残った子の代には斉から逐われて魯に行き、その十五代目の子孫が秦代に大夫となり
そしてその後、漢代を通じてこんな官職につきました、といった記述がつづき、太守や刺史クラスを含む立派な官職が挙げられるのですが、前掲の夏著書によれば、漢代の清河崔氏官歴に関するこれらの記録は、北宋中期に成立した『新唐書』以前にはほぼ見出すことができません。
同書よりは早くに製作された唐代の墓誌などによって一応裏づけがとれるのは、前漢初期の崔業という人物を清河崔氏の始祖とみなしうる、という点など、ごくわずかなようです。
実際に、清河崔氏の人々は『漢書』『後漢書』に全く立伝されておらず、また後代、魏晋南北朝隋唐あたりの史書に多数登場する清河崔氏メンバーの本伝中で彼らのルーツとして漢代の(崔琰・崔林より前の)父祖の官職・人名が挙げられることも全くないという点で、清河崔氏は魏晋南北朝期の名族としては
つまり、
魏晋南北朝隋唐期の史書や墓誌等にみえる清河崔氏メンバーの父祖の記録の大半は、崔琰もしくは崔林をその系譜の起点として記し、それ以上には遡ることがありません。
よって夏炎先生は、草創期の清河崔氏について、彼ら氏族は前漢の東萊侯崔業が清河東武城に居を
(中国語の「家族」は通常、日本語の「家族」より広い範囲・世代を指します)
後漢末の清河崔氏は一応「宗族」を形成していたらしいとはいえ、後述する崔琰伝の本文からは、彼が23歳だった頃、全国レベルの名声どころか本貫地(清河東武城)の郷においてさえ「こいつは正規兵として任用してもいいな」と役所から扱われていたほど(兵士の社会的地位は低いので)の家柄であること、そして崔林伝の記述「召除鄔長、貧無車馬、單步之官」からは、崔林が出仕した当初の彼ら一門は経済的にもほとんど余裕がなかったことが窺われます。
『後漢書』百官志五「亭里」条の劉昭注に引く『漢官儀』に「民年二十三為正、一歲以為衛士……」とあるように、漢代では「民」(のうち一部の男性)は23歳になったら正規兵として徴用される定めだったようです。
かつ、中央から地方への統制力が弱まっている後漢末の混乱期であれば、「民」のなかでも財力や権勢がある家は、地方役人に働きかけるなどして子弟を徴兵免除にすることがより容易だったと考えられます。
これに鑑みると、崔琰が若かりし頃の清河崔氏は明らかに「士」を出す家柄ではなく、そのうえ「民」のなかでも突出した家柄ではなかったであろうと推測されます。
むろん、後漢においては「士庶の別」はのちの両晋南朝におけるほど厳格なものではなかった、むしろ流動性が高かったわけですが、それでも、たとえば
ただ、崔琰伝の「年二十三、郷移為正、始感激」という書き方からすると、崔琰が発奮して学問に取り組んだのは「まさか自分が徴兵の対象になるとは思っていなかった」ゆえではないかとも思われるので、そうだとすると、この時期の清河崔氏はいちおう地域の豪族か豪農レベルではあり、ふだんであれば郷の役所から兵士の供出を求められることはなかったのかな……という感じもします。
『三国志集解』魏書十二崔琰伝の同箇所には、清代の学者ふたりの説が引かれています。そのうち
ちょっと分かりづらいのですが、「おそらく(崔琰は)学問をする家の子弟なので、正規兵の身分から民の身分に戻されたのであろう」という感じでしょうか(詳しい方、よろしければご教示を……)。
たしかに、『三国志』本伝によれば崔琰は23歳で「始感激」の後、かつ鄭玄に師事するより前の時期に「讀論語・韓詩」とあるので、徴兵は結局中止になり清河の実家で学問に取り組みはじめたと推測されます。
沈欽韓が考えるとおり、この時期の清河崔氏は(農業経営だけではなく)子弟に学問をさせるぐらいの余裕はあった、と言えそうです。
以上みてきたように、本当にただの農民という意味での「普通的家族」ではなかったと思われますが、いずれにしても「普通的家族」―――名族とは程遠い状態にあったという点は、この時期の清河崔氏を考えるうえで重要な指摘だと思います。
(なお、崔琰伝の「郷移為正」の四文字は、後漢末の清河崔氏が属していた社会階層を考えるうえで重要だと思われますが、夏炎先生はとくに言及されていません。解釈が分かれるからでしょうか)
夏炎先生は大筋としては、漢代400年の大半の期間を通じて清河崔氏は無名の一族だったと示しておられるように思われますが、ただもう少し慎重な姿勢をとって、2種類の可能性を挙げておられます。
ひとつには、崔琰・崔林以前の清河崔氏には実際に全く仕官者がおらず、それゆえに史書に記録がないという可能性。
もうひとつには、崔琰・崔林以前の清河崔氏に関する記録は魏晋南北朝期に散逸してしまったという可能性です。
後者の場合、『新唐書』「宰相世系表」に見える崔業以降の漢代清河崔氏に関する記録は、魏晋南北朝隋唐の人の目には触れなかったが北宋に至って初めて発見されたということになります。
曹魏になって初めて設置された
②へつづく
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