(六十)之の子 于に帰ぐ

「離れていたとき」


 崔氏が車上の揺れに慣れてきたころ、御者台にいる曹植がようやく口をひらいた。背中は向けたままだった。


「え?」


「俺は、あまりそなたのことを考えないようにしていた。

 だからそなたにも、そなたの家にもふみを書かなかった」


 暗い車内で崔氏は目を落とし、黙ってうなずいた。

 おおよそ分かっていたことでもあった。


「あなたさまには、大切な方々や大切なものが、たくさんおありになるかと存じます」


「そうだな。それもある。

 とりわけ、戦場に身を置いていたあいだはやはり、心身が始終高揚して婚姻どころではなかった。

 これこそ男子の本懐を遂げる場だと。

 陣頭で指揮を任されていたわけでもないのだが」


「あなたさまがご心願どおりの場所にいられたことを、わたくしもうれしく思います」


 崔氏は静かな声で言った。

 丞相のご配慮により御身おんみが手厚く護られ、無事にご帰還してくださったことが何よりもうれしいのです、とは言えなかった。


「だが、そなたのことを考えなかったのは―――考えないようにしていたのはそれだけではない」


 崔氏はいよいよ深く目を落とした。聞きたくなかった。

 いまになってこのかたは、どうしてそんなことを口になさろうとするのだろう。


「清河から離れて日が経つにつれ、気がふさがれてきた。

 たとえ俺が所望した結果でも、父母や祖霊の照覧のもとで妻をめとり家を成すこと、その日の確実に近づくことが、いまさらのように不安になったのだ」


「不安」


「他者の人生に―――そなたやそなたとす子の人生に責任を負うことへの、だ。


 俺はこれまで、家の外では興味のおもむくままに交遊し、友を求め、不興をおぼえれば疎遠になった。

 家の内ではいつも、何をやらかしても最後には母上や兄上たちが収拾をつけてくれた。


 いちど負うたら投げ出せない責任を負うということは、俺の人生ではないような気がしてきたのだ」


「―――そう、かもしれません」


「婚礼の手はずはすべて有司やくにんの手に委ねたようなものだった。

 俺自身はずっと、そなたやそなたの家人に背を向けてここまできた。

 すまなかったと思う」


「―――いいえ」


「そのすまなさもあって、親迎だけはきずのないようにしようと思った。

 子桓しかん兄上ならばきっと、そう振る舞われるように」


「かたじけなく、存じ上げます」


「だが最後に、ややしくじった。すまん」


 いいえ、と崔氏は小さく首を振った。

 

すいで引き上げられるのではなく、あなたさまに手を握られたあのとき、初めて安堵できたのです)


 そう胸につぶやいたが、むろん口にはできなかった。


「車上からそなたを見たとき」


「はい」


「このむすめをようやく、俺の妻にするのだと思った。

 そう思ったら、兄上の―――ほかの誰かの真似などしていられなくなった」


 最後のほうを切り上げ気味に言うと、曹植は崔氏のほうを見ないまま、馬を停めて御者台から降りた。


 これまで車の脇を早足で歩いてきた本職の御者が、ようやくほっとしたような、半ば呆れたかのような顔で代わりに乗車し、手綱をとった。

 車輪が何周目に入っていたことか、彼にも分からなかったであろう。


 崔氏は思わず車の側面のとばりをたぐり上げた。

 前方に腰かけた御者も車の横を護る従者たちもぎょっとした顔を向けるが、もはや気にならなかった。


 よこぎに手をかけて身を乗り出し、平原侯さま、と呼びかける。

 曹植はすでに、新婦の車に先立って進んでいたもう一台の墨車ぼくしゃ、すなわち新郎が乗って帰邸するための車に追いつき、今にも乗り込もうとしていた。


「平原侯さま」


 一瞬の間をおいてから、曹植が振り向いた。


子建しけんでよい」


 短く言ってから、崔氏のそれ以上の問いも聞かず、曹植は車上のひととなった。


 崔氏はまた身体を元に戻し、帳を下ろした。

 車はしばらく停止していたようだったが、まもなくして動き出した。


(あのかたのなかには)


 崔氏はそっと較に寄りかかった。

 わたしのための場所があるのだ、どんなに小さくても、もうそれはあるのだ、と思った。








「二十七周、ぐらいですかね」


 門の内側から外の路上を眺めながら、崔林は崔琰に声をかけた。


「三周に吉数きっすうの九をかけたと思えば、めでたいもんじゃないですか」


 返事はない。

 従兄が堂々たる長身を半ば門柱で支え、白皙はくせきの額を手で押さえながら懊悩おうのうの表情を浮かべているのは分かっていたので、崔林もわざわざ振り仰がなかった。


 新婦の父、もしくは父代わりの親族は本来堂から降りて見送りはしない定めだが、崔琰は何やら門前で不穏が生じていることを知り、先ほどやむをえず降りてきたのだった。


 無数の燭火を従えた親迎の一行はすでにこの邸の門前から遠く離れ、ほとんど大路のかなたに消えてゆこうとしている。


(丞相邸か)


 やれやれ、と崔林はつぶやいた。ずいぶん遠くに行っちまうもんだ。

 曹植は列侯に封ぜられて自身の府を構えたのを機に住まいも独立しているので、崔氏がこれから迎え入れられるのは、正確に言えば平原侯邸である。


 だが、曹家の根拠地が鄴に移されて以来、丞相曹操の親族や姻戚の大半は平原侯邸と同じく鄴の東北部区画に集中して居を構えており、一般の官人から見れば、曹操の子息に嫁ぐということは丞相邸の一員になるということとさほど変わらなかった。


 実際のところ、崔琰や崔林もいまや“一般の官人”どころか曹家の姻戚になるわけだが、仮に今後鄴に転任する機会があったとしても、姻戚としてその区画に居住する特権は辞退することについて、ふたりの間で合意ができていた。


 沛国夏侯氏や丁氏と違って、清河崔氏は曹家にとって累代の姻戚ではない。

 身を慎めるところは、少しでも慎むに越したことはないであろう。


「兄さん」


 崔林はふたたび従兄に声をかけたが、いまだ返事はなかった。

 今度は顔を仰向け、もういちど呼びかける。


「季珪兄さん、行っちまいましたよ」


「知っている」


「済んだことです。そう憔悴しょうすいしなさんな」


「―――憔悴、どころの話ではない」


「平原侯のことは、まあ、予想通りじゃないですか。最初は良いほうに裏切られましたが」


 崔琰は清秀な眉を寄せたままだった。


「正直、うちのまで最後にやらかすとは思いませんでしたが、―――車に引っ込むときは、幸せそうでしたよ」


 崔琰はずいぶん長いこと黙っていた。そしてとうとう、


「知っている」


とだけつぶやき、門柱から離れて邸内へと歩き出した。


 少し遅れて崔林もその後ろに従った。

 中庭で咲いていたはずの桃の花弁が、いつのまにか門のあたりまで数枚吹き寄せられていた。


 ―――桃の夭夭ようようたる、と婚礼をことほぐ周南しゅうなんの詩、「桃夭とうよう」が柄にもなく口をついた。


 だが崔林には、灼灼しゃくしゃくたり其の華、と形容されるにふさわしい花咲ける新婦の姿、いましがた見送った妙齢のおもしよりも、崔琰からひたすら『毛詩もうし』の暗誦を課されていたあの童女の、いとけなくもきまじめな顔のほうがなぜか先んじて思い出された。


 従兄と同じく彼もまた、妻との間に女児を授かっていないせいか、この詩はどうしてもあの小さなむすめと結びつくのかもしれなかった。


桃の夭夭たる  灼灼たり其の華

の子 こことつぐ  其の室家に宜しからん


(其の室家に宜しからん)


 崔林はもういちど口の中でつぶやいた。

 其の室家もまた、あれに宜しくあってくれりゃいいが、とふと思った。


 顔を上げれば、従兄の広い背中は屋舎の陰に消えてゆこうとしていた。

 崔林もふたたび歩き出し、やがて桃花のひとひらが足元を通り過ぎていった。






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「清河」篇の本体はこれで完結です。

後漢農村小説という謎のジャンルにここまでお付き合いくださったみなさま、本当にありがとうございました。

今後は若干の「覚え書き」「余話」を連載してから、「兄弟」篇に入る予定です。

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