(五十九)綏を引く

 やがて邸を発つときが来た。

 新婦は新郎につづき堂を降りて門へ向かい、送迎の車に乗り込まなければならない。

 最後に定められた訓戒の一幕も終わり、堂の上から自分を見送る叔父夫妻の視線を背中に感じながら、崔氏は何度も振り返りたくなる衝動に耐えた。


(―――平原侯さまが心からわたしを所望なされたことなど、一度もなかったのかもしれない)


 清河を離れたあとに、本当に欲するものを改めてお分かりになったのかもしれない。

 これはすべて、まちがいだったのかもしれない。

 この家に留まるべきではないのか。叔父上がたのもとに、わたしをたしかに愛してくれる肉親たちのもとに。


 だがむろん、ときが留まることはなかった。

 正門の前には二台の墨車ぼくしゃ、すなわち婚礼用の漆黒の馬車が前後して並び、少し離れたところに家臣や従者たちの車馬がつづいている。

 崔氏に先立って門を出た曹植はすでに二台目の、つややかな黒絹の帳が下ろされている車に昇り、門のほうからはほとんど見えない車中にて新婦の乗車を待ち受けている。


 崔氏が進み出ると車体の後ろにふたりの従者が立ち、ふみだいを足元に置いた。

 崔氏はよく磨かれた几の表面を見つめた。

 従者たちの捧げ持つ燭火を受けて夜の底に浮かび上がる漆の彩色は美しかったが、それを記憶に焼き付けたいわけではなかった。

 顔を上げるのがただ恐ろしく、ほかになすすべがなかったのである。


 すいを、と呼びかける声が聞こえた。

 まぎれもなく曹植の声だった。

 そのとおり、乗車の際の支えとする綏すなわち引き紐が目の前に垂らされている。一方の端を持つのはむろん、新郎の手である。


 引かなければならなかった。

 これを引いて彼のかたわらに乗り込み、その邸宅へと導かれなければならない。すべては終焉へと向かっている。婚儀はこれを以て完成されなければならない。


 崔氏は地にひきずるほどの裳裾を少しだけ持ち上げて几に昇り、右手を綏に伸ばした。

 細い紐状の絹布が指先に触れた。

 まるで何かを証すような脆さだった。


 だが綏をつかんだと思うより先に、自分の手がつかまれるのを感じた。


 崔氏は顔を上げた。車上の曹植が見下ろしている。

 燭火を斜め下から受けているため表情が読み取りにくいが、その黒目がちの双眸は、たしかに彼女を待っていた。


「大事ないか」


 崔氏は彼を見つめ返したまま、かろうじてうなずいた。


「長らく待たせてすまなかった」


 いいえ、とはっきり答えるには、咽喉がまだこわばりすぎていた。

 崔氏はこうべを左右に振った。

 訊きたいこと、伝えたいことは次々にこみあげる一方で、ことばでつむぎだすことができず、そのもどかしさで首の勢いが強くなった。


「髪が崩れる」


 曹植はそう笑いながら、崔氏をそのまま車上に引き上げた。

 新郎が新婦の手をじかに握ったばかりか、自ら介添えして引き上げるなど、親迎の礼のどこにも書かれていない作法である。


 車の前後に控える家臣や従者たちも、たったいま崔氏があとにしてきた崔家の門内に佇むひとびとも、咎めだてすら忘れたように唖然と静止してこちらを見ている。

 崔氏はその視線を感じたが、いたたまれなさを感じることはなかった。

 待ちつづけた遠いひとがいま、自分のかたわらにいて、日常に立ち戻ったように笑っている。それよりも大切なことはなかった。








「おおよそは、成功したと思わぬか」


 すでに御者台に移って手綱を持ち、前を向いたまま馬をゆっくりと御し始めた曹植の声に、崔氏はふと我に返った。


「成功、でございますか」


子桓しかん兄上そっくりだっただろう。

 ―――いや、そなたはそれほど長くは兄上を見ていないか」


 まだどこかぼんやりした頭で、崔氏は聞くともなく聞き、うなずいた。


「生まれたときからほぼずっと一緒に育ってきたというのに、いざ模するとなると難しいものだな。最初はずいぶん錯誤を重ねたものだ。

 が、親しくしている俳優(語り物の芸人)たちに教えを請うてからは、だいぶこつが飲み込めてきた。


 他人の模倣において最も肝要なのは、声色や身振りの真似ではなく、目の動きを再現することのようだ」


「まあ、そうですの……目の動きを……」


 崔氏はまた、ごく従順に相槌を打った。

 言われたことの意味が、一度ではわからなかった。

 世間ではただでさえ卑賤とされる芸能者のなかでも下層にあたる俳優と交流があるという言明にさえ、ほとんど衝撃をおぼえなかった。


 何度か反芻してようやく意味が通ったとき、思わず声が大きくなった。


「どうして、そんなことを―――あんなことをなされたのです」


「何かやらかしたか」


 やや面食らったような顔で、曹植が一瞬だけこちらを振り返った。


「礼法の定めるとおりに、視線から指先まで無駄なく弛緩なく、何事にも動じることなく手順をふみおこなう。

 いかなるときでも己を律しきる―――これこそ季珪どのが望まれていた婿ではないのか。

 実際、それなりに満足いただけたように見えたのだが」


「―――叔父上が」


「かつて季珪どのの補佐を受けていた間、子桓兄上はだいぶ油を絞られたように感じられたらしい。

 記録を見るに、相当に手厳しい上奏が何度も呈せられたようだしな。

 だが俺に言わせれば、季珪どのは兄上を、ご自身の理想を託するに足る次代の主君と思い定められたからこそ、そこまで懇切な諌めをなされたのだ」


「それは……そうかもしれませんが、わたくしは、その件については詳しく存じません」


「俺はそう思った。だから、子桓兄上を模するのがいちばんいいと思ったのだ。

 そなたの家人たちが―――とりわけそなたの叔父上が俺に対し抱いておられるであろう不安や疑念を、少しでも減ずるためにはな。

 それに、俺にもやはり―――できるなら、兄上のようになりたいという思いもある」


「そんな」


 そんなことより、あなたさまがあなたさまでいながら、かつ叔父たちの懸念を煽らないようなお振る舞いを心がけてくださればよろしかったのです、と強く言いたかった。

 しかし考えるまでもなく、それはどこまでも両立が難しそうな目標であった。


 しばらく静寂が降りた。

 馬蹄と車輪と輻のきしむ音だけが妙にはっきり聞こえてきた。

 新郎の御は本来、車輪が三周したら終わることになっており、あとは本職の御者に任せなければならない。

 いくら牛車のようにごく緩やかに進めているとはいえ、とうに三周は過ぎているはずだった。


 だが、曹植は前を向いたまま、手綱を放す気配がなかった。

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