(五十八)親迎

「おいでになりましたな」


 大路の彼方からゆっくりと近づきつつある車馬の音を聞き取り、崔林はかたわらに立つ従兄に言った。


 親迎しんげいの宵である。

 数日前にぎょうに入り旅装を解いたばかりの彼らも、いまは礼服に身を包み、邸の正門の内側にて、新郎の訪れを待ち受けているところだった。

 現在はふたりとも許都の丞相府に仕える身であるため、邸といってもこの婚礼のため一時的に入居した仮住まいである。


 嘉礼の夜にふさわしい佳香が、ゆるやかな微風に乗って運ばれてきた。

 中庭に列を成す桃の木が、花盛りを迎えはじめているようだった。


 婚礼の婚がもともとはたそがれ・・・・の昏であるように、新郎新婦の装束は黒の色調で統一される。新婦を引き渡す父母の礼服もまた同じである。

 新婦の父親代わりである叔父崔琰もやはり、玄端と呼ばれる黒い麻服をまとい、路上の一点を見据えたまま沈思している。


 新婦を送り出す側の崔家はそもそも裕福ではないうえ、新婦を迎え入れる側の曹家からも、婚礼の儀は倹約を旨とするようにと前もって伝えられていた。

 絶え間ない戦禍のために各地で物資が不足している昨今は、相当な富豪であっても子女の婚礼のための出費を節約する者は少なくない。


 曹家と崔家の間でも、六礼りくれいのうちいくつかは極度に簡略化したうえで、最後の段階にあたる親迎を今夜執り行おうとしていた。

 むろんそのような簡略化には、丞相府属僚とその家人たちに範を示すという意味もある。


 ゆえに、崔琰らが身に着けている衣冠も、礼制で定められた基準は満たしているとはいえ、近くでみれば相当に質素なものである。

 しかし、いまにも宵闇にまぎれそうなほど単調な黒一色の衣装に加え、何らの余分な装飾も帯びていないにもかかわらず、丞相府内に知らぬ者なき崔琰の優美なおもざしと立ち姿は、門の両脇で焚かれる篝火の明かりに包まれながら、いよいよ荘重に照り映えていた。


 崔林は己より頭ひとつ以上高い従兄の横顔を改めて見上げながら、


(つくづく、主役を食っちまうひとだよなあ)


と思った。

 遠きも近きもこの邸内に居合わせる親族や賓客や使用人たちの視線は、化粧と盛装をほどこされて堂上で待機する数え十八の新婦の存在をも忘れたかのように、その男親にしてすでに五十になろうとする崔琰の偉容と気品にばかり注がれている。


 さらに、今夜の主賓となる新郎はといえば、容儀にきわだった定評のある貴公子というわけでもなく、むしろ立ち居振る舞いに難があることばかり聞こえてくる御曹司である。

 そのとき・・・・が来れば、崔琰の存在感はいよいよもってこの場を制するであろうことは、想像に難くなかった。


 これじゃあ平原侯も浮かばれんなあ、と崔林がひとりごちたころ、一行ご来着、との報せが前方からもたらされた。

 まずは主人に先立ち応接を務めるひんという役回りの者が、門を出て新郎の車前へ進み出てゆく。


 もとより敬具して以ててり、と型どおりの問答が終わるのが聞こえた。

 崔琰が顔を上げ、初めて門外へと歩き出した。まずは新郎と東西に向かい合って拝礼を交わし、それから邸内に迎え入れるのが礼の定めるところであった。


(あのかたがおいでになる)


 静まり返った堂上で淡い華燭を浴びながら、崔氏は深く息を呑んだ。

 質素に抑えられているとはいえ平服に比べればずいぶん厚みがある新婦の礼装の重みですらも、瞬時にして宙へ散じたかのようであった。


 本来の周制からいえば、新婦側は親迎に訪れた新郎を廟門に招じ入れなければならないが、この仮住まいにはむろん清河崔氏一門の廟に相当する建物はない。

 ともあれ堂にて新婦を新郎に引き合わせれば、新婦側の邸としての役割はおおむね果たしたことになる。


 堂前の広場の両側から焚かれる篝火の間に、ようやく人影が現れた。

 影はやがて三つ四つと見分けられるようになる。その先頭に立つ叔父のすぐ後ろにつき従うのは、彼自身や崔氏と同じく、闇に溶け込むような黒衣に身を包んだ曹植であった。


 堂に上がるきざはしの下で崔琰が立ち止まり、玉樹が傾くような重々しさをもって揖礼を捧げ、昇段を勧めた。

 曹植もまた、ゆっくりと礼を返した。作法どおりに辞退を三度繰り返し、ついに主人を先に堂へ昇らせる。それは非の打ち所のない挙措であった。

 新郎に背を向け堂上へと進み始めた崔琰の表情にも、少なからぬ驚きと安堵、そして満足の色が浮かんでいるのが見て取れる。


 だが、叔父の後ろにつづく曹植の姿を同じ堂内の灯りでとらえたとき、崔氏のなかの違和感は決定的になった。

 一年ぶりにまみえる彼の姿は、その面立ちも身の丈も、清河で出会ったあのときと、さほど変わるところがなかった。

 だが、その表情の冷ややかなまでの沈着さ、身のこなしの隅々にまでたちのぼる研ぎ澄まされた端正さは、まるで見知らぬ他人のもののようだった。


 婚礼はむろん生涯の一大事であるから、新郎であれ新婦であれ、式典のあいだじゅう顔も四肢もこわばりつづけたとしても無理はない。

 が、それは常人の話である。この青年が今日この場でそのような恐慌にとらわれうるなど崔氏は予想したこともなく、実際、見れば見るほど、彼は緊張しているわけではなかった。

 新郎の礼として定められた作法のひとつひとつを何ら踏み違えることなく、優雅といってもよいほどの淀みなさを以て、ごく平淡にこなしてゆくのである。


 自分の夫となる青年を少しでも叔父に気に入ってもらいたい崔氏にとって、むろんそれは願ってもいないほどの幸いであった。

 しかしそれでいながら、胸に兆した不安が広がりゆくのを抑えることができなかった。


 曹植はゆっくりと堂の奥へ進み出る。

 礼物たるガンを仮の祭壇に捧げたてまつると、いままでにもました厳粛さを帯びて拝礼を二度おこない、さらに稽首の礼をおこなった。

 それから立ち上がり、身体の向きをゆっくり変えた。南面して立つ新婦の姿を、そのとき彼は初めて視界に入れたようであった。


(平原侯さま)


 声にならない声を呑み込み、崔氏は祈るような思いでその視線を受け止めようとした。新婦の礼を外れることは分かっていたが、自制のすべもなく彼を見つめた。


 この日をずっと、待ちつづけていたのです。


 何を措いてもそう伝えたかった。そして、それが伝わるよりも先に、あの磊落な笑みがわたしを迎え、すべての不安を溶かしてくださるにちがいない、そう思った。


 だが、新郎の目は堂内を概観するかのように崔氏の上を淡く通り過ぎ、その表情は何の礼節を破ることもなかった。

 口角すら動かすことなく堂の南側、入り口のほうへ向き直り、揺らぎのない双眸で堂下を遠く眺めやる。


 崔氏の立つ場所からは斜め後ろの相貌しか見えないが、その黒目がちな瞳の端には、華燭のかけらだけが揺れていた。


(待ちつづけていたのは)


 わたしだけだったのだろうか、と崔氏は思った。






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 ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

 本節以降、「清河」篇の終幕(残り2話)までに至る親迎の流れは『儀礼』『礼記』にある記述を大まかになぞったものですが、実際の後漢末期には、両書が記すところの六礼(親迎を含む一連の婚礼作法)をもれなく実践している家はめったになかったと思われます。


 朱大渭ほか著『魏晋南北朝社会生活史』(中国社会科学出版社、2005年)第六章「婚姻」第一節「婚礼」の冒頭では、「魏晋南北朝は戦乱の時代なので、六礼は一貫しておこなわれていたわけではない。曹魏皇帝の納后の際に六礼に関する記録はなく、西晋武帝期には諸侯の婚礼における納采・告期・迎親に関する言及はあるが詳細は分からず……」(大意)と述べられており、漢末にもおおよそこの状況があてはまるかと思います。


 仮に物資が極端に乏しい戦乱期でなかったとしても、漢末における婚礼が周制(と当時考えられていたもの)からどれぐらい離れていたかよく分からないのですが、ただ『後漢書』桓帝梁皇后紀「納采鴈璧乘馬束帛、一如舊典」に引く李賢注には「『儀禮』曰、納采用鴈」とあり、また『三国志』武帝紀「天子聘公三女為貴人、少者待年于國」の裴松之注に引く『献帝起居注』には「使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑、齎璧・帛・玄纁・絹五萬匹之鄴納聘」とあるように、黄巾の乱以前の皇帝である桓帝が梁氏を納れたときも、後漢最末期に献帝が魏公曹操のむすめを納れたときも、ある程度『儀礼』に準じた納采(を豪華にしたもの)をおこなっていたようなので、漢末といえど天子の婚礼であれば六礼の少なくとも一部は履行されていたのではないかと思われます。


 とはいえ、曹操と袁紹の有名な花嫁泥棒エピソード(『世説新語』仮譎篇)に出てくる、青廬のなかに新婦や人々が集まっている場面のほか、後漢中期の大儒学者馬融ばゆうがむすめを袁隗に嫁がせた際、新郎新婦が交わす会話を閨の帳のすぐ外にいる人々(おそらく新郎側の親族や友人)が聴いている場面(『後漢書』列女伝・袁隗妻)など、後漢の婚礼では経書に根拠がない行事もわりとおこなわれていたらしいことが窺われます。

 花嫁泥棒エピソードのほうは後世の作り話かもしれないので、本当に後漢の状況を反映しているのかどうか怪しいですが……


 ともあれ、曹植のような丞相の子息かつ諸侯(列侯)の婚礼であれば、後漢末期とはいえまあまあ六礼もふまえていたんじゃないかということで、拙作ではかなりの想像を交えて書いております。適当だな!!

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