(五十七)告別

 すでに閉ざされた門の両脇では、篝火かがりびが音を立ててはぜていた。


 ふたり分の足音に気づくや、門楼の真下で守備についていた当直の部曲ぶきょくたちが松明をかかげて歩み寄ってきたが、明かりを受けて浮かび上がった崔氏の白い顔を見ると、一歩退いて頭を下げた。

 いまやこのむすめは、この一族においては宗主と同じくらい大切に扱わなければならない相手だと認識しているにちがいなかった。


 そのような扱いに居心地の悪さを感じながらも、崔氏は彼らがそのように扱ってくれることを前提として、こんな夜更けにここへ来たのだった。

 墓地のほうへ詣でたいので少しの間通行を許してくれるように請うと、果たしてさほどの問答もなく通してくれた。


 むろん崔氏のほうから願い出るまでもなく、彼らのうちとくに屈強そうな五六名が、腰に下げた剣の柄と背に負った箙をかすかに鳴らしながら、暗黙の義務のように前後を護りついてきてくれた。


 目印の梧桐の木の下にたどりついたとき、仲春というより晩秋の夕刻を思わせる風が立った。

 ひっそりと丸く盛られたはかを前にして、こんなにさびしいところだったろうか、と崔氏は思った。

 夜に訪れることなど、これが初めてだからかもしれなかった。


「明日、この地を去ります」


 冢の前に敷いたむしろに膝を揃えて座り、崔氏は小さな声で告げた。

 袖のなかに携えてきたよもぎを備え付けの香鐙に供え、王経の手燭からもらった火をゆっくりと灯した。


 清河から居を移すのは、むろんこれが初めてではなかった。

 七年前、崔琰が曹操に辟召へきしょうされたときにもやはり、崔氏は叔父たちとともにぎょうに移り住むことをこの冢へ告げにきたものである。

 その三年後には叔父の丞相府転任に伴い、叔父夫婦と従弟たちとともに許都へ移ることになったが、その件を宗主に報告するために一家で清河に戻った際、崔氏はやはりこの冢に詣でてひとり香を焚いた。


 だがそのときは、永の別れだという思いはごうもなかった。

 一族の暮らしのなかで何か行事や異変があればいつでも清河に、阿姊が眠るこの地へ戻ってくるのだ、と当たり前のように信じていたし、実際そうであった。


 もう少し大きくなってから、自分はどうやら叔父の親友の子息のもとに、陳留ちんりゅう郡を本貫とする毛という家に嫁ぐことになりそうだと知ってからも、その思いに別段変わるところはなかった。


 毛玠もうかいも崔琰と同じく丞相府の官僚であるから、彼の子息に嫁ぐということはおそらく許都に住み続けるということであるが、崔家も毛家もほぼ対等な家として結ばれるからには、その婚姻によって自分と生家との、あるいは郷里との紐帯を絶たれることがありうるなどとは考えもしなかった。


 曹植のもとに嫁ぐ―――漢朝最高の臣下にして今にも天下一統を果たそうとする曹丞相の寵児に嫁ぐ、ということは、叔父の同僚にして親友たる士人の家に嫁ぐこととは、およそかけ離れた道行きなのだということは、今では崔氏もよく分かっていた。


「帰郷が許されないわけではない、とは思うのだけれど」


 そうつぶやいたまま、崔氏は足の高い香鐙の内側に揺れる小さな朱色の炎を見つめていた。


「永いお別れになるかもしれないから」


 蕭のいぶされる香りが少しずつ濃くなり、やがて宙に満ち溢れてゆく。

 崔氏は何度か口をひらきかけたものの、ついに何も言わずにつぐんだ。

 あなたのおかげで生き延びたわたしが、わたしだけが幸福になろうとしている。あのかたのもとへ迎えられようとしている。


 心が苦しい、申し訳ない、と告げるべきかもしれなかった。

 だが口に出したくはなかった。


 むろん、自分は決していま、手放しの幸福を予期しているわけではない。夫となる青年の胸の内に、まったく不安を抱かないといえば嘘になる。

 そして何より、嫁いだ後は曹丞相を―――冷徹さと果断さが天下に鳴り響く覇者を義父として奉じるという、すぐそこに控えた未来の重さに、いまでも圧倒される心地がしている。

 自分が曹家のよめとして“正しい振る舞い”を全うできるかどうかが、実家の盛衰を左右するかもしれないのだ。


 だがそれでも、どれほど厳粛な義務を背負うことになろうとも、この一年のあいだ思慕を育みつづけた青年とあと数日で暮らしをともにすることができるという事実を思えば、甘露にも似た幸福に胸の奥が満たされてゆく。


 こんな思いのまま、あなたに申し訳ない、などと死者の前で口にすれば、それは欺瞞どころか冒瀆になってしまう。


(―――だけれど)


 崔氏は胸のうちでつづけた。いま伝えたいこと、いまだから伝えられることはたしかにあった。

 これまでこの冢の前で告げてきたのは、ただ懐旧と親愛と感謝の情ばかりであったが、いま初めて、共感の念をも伝えたいと思ったのだった。


 九年前のあのとき、数日間の捜索の末に見つけ出した阿姊の遺体のようすを、崔氏はいまでもはっきりと覚えている。

 なかでも鮮明に思い出せるのは、廃屋の薄暗がりのなかに浮かび上がったあの白く細い首と、その咽喉をひといきに分断していたあの赤黒い傷口である。


 あの日この目に焼き付けてからずっと、あれは阿姊を辱めた兵士たちが彼女に加えた最後の虐行なのだと思っていた。

 仰向けになった阿姊の顔の脇に、彼女自身の右手と何か鈍く光るものが目に入ったような記憶もあるが、傷口の禍々しいまでの赤黒さに目を奪われ、そして次の瞬間には叔父の大きな手で視界を覆われてしまったがために、それ以上細部を目に焼き付けることはできなかった。


 だがいま、このいまになって振り返ると、あの傷は阿姊が自ら負ったものではないのか、と思われてならなかった。


 むろん、自身や夫や父母の名誉のために自害を選ぶ婦人が古来より何人となくいることは知っているが、説話や史書のなかに見出される彼女たちのあまりに毅然とした姿はどこか神がかっているようで、己をとりまく現実のなかで出会えるひとびとだとかつて考えたことはなかった。

 まして、自分が同じ状況でそのようにふるまえるかなどとは、仮定も難しいことだった。


 だがいまなら、阿姊は、あの可憐で心優しかった婢女は、兵士たちの身体が離れた短い間に、自らの手で迷いなく命を絶ったのだと、そう思う。

 ―――確信に近いその思いが、崔氏の胸を去来していた。


(愛していたから、迷わなかったのだ)


 阿姊はおそらく、たとえ指ひとつ触れられることがなくとも、己の花盛りの歳月をいたずらに過ごすことになろうとも、我が叔父のことを心から慕っていたのだと思う。


 そして崔氏も、ただひとりの青年を想うようになったいまでは、阿姊のその切なさと喜びが―――そして最後に自死を選んだ力のありかが、我がことのように、己の四肢を流れる血流のように伝わってくるのである。


 ただひとりのひとを除いては誰にも触れられたくない。触れられるくらいなら息絶えてしまいたい。その気持ちがいまなら、わたしにもよく分かるのです。

 あのかたご自身の口から、一時の恥辱を忍んでも生き抜くべきだ、と告げられた後でさえ。


 結局のところ、偽りない思いとして阿姊に伝えられるのは、それだけかもしれなかった。








 最後の拝礼を終えると崔氏は立ち上がり、筵の土を払って巻きなおした。

 傍らに控えていた王経も手燭を持ち直し、もと来た方向を照らし出すようにかざした。


 いままで気づかずにいたが、星の美しい夜だった。

 銀を散らしたような無数のかけらが、天のはてにまで瞬いている。

 王経のかざす燭光と星の明かりに導かれるようにして、崔氏はゆっくりと歩き出した。


 遠い鄴の空の下で、あのかたもこの星明かりを受けておられるのだ、と思う。

 そしてまもなく、わたしはあのかたのもとに赴き、夜毎の星も月も、そのかたわらで眺め仰ぐようになる。

 四季の寒暖も生涯の悲苦も、そのひとつひとつをともにする。あのかたに触れられ、その児女を授かり、そしてともに老いてゆく。


 阿姊にその日が来ることはなかった。

 おそらく、生涯来ることはないと、彼女も分かっていただろう。

 ただ待つだけで満たされていたのだと思う。


 でもあの日、ゆえなき災厄のように訪れたあの馬蹄の音は、待つだけの日々さえ断ち切っていった。

 見知らぬ腕に押さえつけられながら、あの優しい目の奥は何を映していたのだろう。


(いま、この地には―――冀州には、安寧が来ました)


 わたしの夫になるかたのお父上が、天子さまを奉じて刻苦精励なされた末に、平和と秩序がもたらされたのです。

 その丞相の家の一員となることを、あなたにも喜んでもらえたら、誇りに思ってもらえたら、とてもうれしい。


 そこまで胸の内で呟くと、両目を閉じた。


(本当はまだ、怖いけれど―――平原侯さまのお気持ちがいつか揺らぐかもしれない、それだけではなくて―――丞相の家に嫁いだその先に何が起こるのか分からなくて、怖いけれど)


 でも、と確かな決意を込めて、打ち消した。

 でも、命がけで守ってくれたあなたに恥じないように、大事なものを守れるように、怯まずに生きてゆこうと思うのです。

 兵乱にさえ遭わなければ―――あの時わたしを見捨てていれば、生きていられたはずのあなたに。


 崔氏は目を開け、わずかに顔を仰向けた。

 ひとつひとつの小さな光がにじみはじめ、その眩さを失ってゆく。

 やがては色の区別もなくなり、星宿を順に追うこともできなくなった。


 隣で歩みを進めながら、王経は何も言わなかった。

 夜の静謐は変わらなかった。

 前後から一定の距離をおいて付き従う部曲たちの武具の音だけが、ときおり夜気を切り裂いていた。

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