関関雎鳩(五)

 曹彪そうひょうは緊張を募らせながら兄の姿を目で追う。

 もし石橋に至り、石畳に足をかけて昇り始めるようなら、自分が急いで声をかけて走り寄り、この亭へ引きずってこよう。


 だが曹彪が安堵したことに、曹植は石橋のたもとで足を止めた。しん氏もそちらに顔を向けたようだ。

 日が射す向きのこともあり、あずまやからは彼女の表情は判じがたいが、余人の追随を許さない目鼻立ちの端麗さは、遠目にも十分見て取れる。

 そのたたずまい、橋の欄干にかける指の動きにまでにじむ優雅さは、それ自体が薫香を放つかのようであった。


(相変わらず、尋常ならざるお人だな)


 いまさらながら曹彪は思う。

 彼女はすでに三十に達しようかという齡のはずだが、何年も前に子どもをふたり生んでなお絶世の美貌に翳りが見えないどころか、病気がちでほとんど化粧をしていないであろう今でさえ、唇は果実を含んだかのように艶のある朱色を帯び、その肌膚の色は白く冴え冴えと輝くようだ。


 本当に生身の人間だろうか、とこれまで何度か思ったことを改めて実感する。

 曹彪にしてみれば、あるいは彼ら兄弟姉妹の大多数にとっては、長兄の妻たる甄氏の美しさというのは、いわば宮中の名匠が手掛けた工芸品のように感嘆しながら遠巻きに鑑賞すべきものであって、それ以上のものであるとはいえない。


(だが子建しけん兄上にとっては、今もまだ、違うのだろうな)


 そう思いながら、曹彪は三兄にふたたび目を遣る。

 ここからは、横顔しかみることができない。


 果たして、曹彪の予想どおりだった。

 常であれば闊達さと活力に満ちているはずのその表情の端々に、まばゆいものに手を伸ばそうとして伸ばせない懊悩が滲んでいる。

 鑑賞するだけで満ち足りる者ならば、こんな苦しみを背負うことはないだろう。


(あのころと同じだな)


 心中でつぶやきながら、曹彪はまた石の床に手を伸ばし、落ちた駒を拾い上げてやった。

 幼な子たちの一喜一憂する声を聞きながら、自分が彼らと同じくらい幼かったあの年のあの宵を、昨日のことのように思い出さずにはいられなかった。






 甄氏が曹家の婦となったのは、いまから七年前のことである。

 甄氏はそのとき二十三歳だったはずだが、彼女を娶った曹丕でさえまだ十八歳であったから、曹操の子女の多くは十代にも達しないほどの幼齢であった。


 曹彪もそのひとりで、わずか九歳だった。

 男児とはいえそれほどに幼ければ、長兄の妻と親しくことばを交わしても支障はなかったはずだが、もちろん特段に話すようなことがあるわけでもない。

 長兄の婚礼の宵に自分がしていたことと言えば、華燭に映し出される新婦の姿を華やかな幔幕の後ろから弟妹たちとともに見つめていたこと、そして、彼ら彼女らと同様に、ただぽかんとその美しさに圧倒されていたことぐらいだった。


 十にも満たない年ごろだと、往々にして女児のほうが年上の佳人への憧れが強いものであるから、むしろ妹たちそして姉たちのほうが、より繊細な感銘と衝撃を受けていたのではないかと思う。

 婚礼の間じゅう彼女たちが囁き交わしていたのは専ら、新しくあによめになる女性の眉の形や紅のさし方に倣うにはどうすればよいか、といったことではなかったか。


 男児のなかで例外的に十代半ば前後に達していたのは次兄の曹彰そうしょうと三兄の曹植だが、彼らは初対面の甄氏と長く話すことはなくとも、年齢相応に恭しく礼を交わす場面はあった。

 次兄のほうの反応を曹彪はよくおぼえていない。やはり自分たち幼年者と同様にぽかんと圧倒されていたのではないかと思うが、その場が終われば平常の剛毅さに立ち戻っていたことは確かだった。そうでなくては彼らしくないとも思う。


 曹彪にとって忘れがたいのはただ、三兄のたたずまいだった。彼は十三歳だった。

 嫂に対し礼を交わす作法に誤りはなかったが、最初から最後まで傀儡くぐつのようだった。少なくとも曹彪にはそうみえた。

 魂魄こんぱくが抜ける、という表現の実例を人生で初めて目の当たりにしたのがあのときだったのではないかと、いまでもそう思う。


 あまりに心配になったので、嫂の前から退いた後の三兄に彼は駆け寄った。

 三兄は本来の座には戻らずに、堂を出てゆこうとしている。

 周囲の関心を引かないように小声で何度か話しかけてみたが、返ってきたのはただ虚ろなまなざしだった。


「具合が悪いのですか」


 黙々と歩きつづける曹植は、その意味をとりかねたかのように、不可解そうに曹彪を一瞥したが、堂の入り口からさほど遠くない場所にそびえる老齢のえんじゅの下までさしかかると、その巨大な幹にふともたれかかった。


「子建兄上」


「―――どうしたらいい」


「え?」


「どうしたらいい」


 うつろに問いかけられても、困惑しきった曹彪にはどうしようもなかった。

 三兄は目を強くつむり、血が滲みそうなほどに唇を噛んでいた。泣いてはいなかったが、泣くためにあの場を離れたのだろうか、と曹彪には思えた。


 その場はたしか、侍者らが恐る恐る近づいてきて、付き添いを申し出ることで収束したのだった。


 曹彪がもっとよくおぼえているのは、その日、黄昏どきに始まった婚礼が終わり、邸の多くの者が寝静まった夜半のことである。

 戦乱の粉塵のなかで敵方同士として邂逅した長兄と嫂が、正式な意味で初めて迎える夜、床入りの時刻になったわけだが、九歳の曹彪にとってそんなことはむろんどうでもよかった。


 自室に戻ったあとも、三兄のようすがまだ心配だった。

 曹彪には同母の兄と弟が一人ずついたが、いずれも幼年で没してしまった。同母兄弟を見送ってからいちばん親しみを感じ、よりどころになってくれたのが三兄である。


 生母のそん氏に就寝の挨拶をした後、それほど迷うまでもなく寝所を抜け出し、曹植のへやを訪れた。

 ふたりで他愛ないことを話しながら同じ寝具を分け合って眠りに就くことはこれまでにも何度となくあった。

 果たして、彼は追い返しもせずそのまま招き入れてくれた。

 普段より言葉少なではあったが、いくらか調子を取り戻しているようでもあった。


 三兄もすでに着替えて就寝する準備をしていたので、曹彪は伺いを立てることもなく寝台に上がりこんだ。

 子建兄上もじきに上がってくるだろうと思っていたが、いつのまにか自分が先に寝入ってしまった。


 それでも眠りは浅かったのだろう。目覚めたのはおそらく、寝台から伝わるかすかな物音ゆえだった。

 すぐ横にいる三兄が、何度も寝返りを打っている。

 最初は「珍しいな」と思うだけだったが、表情は決して安らかとは言えないものだった。曹彪はしだいに心配になってきた。


「兄上、苦しい?」


 思わず肩に腕をかけて、揺り起こしてしまった。

 薄目を開けて弟を見た曹植は別に怒るでもなく、何度か瞬きをしてから半身を起こし、月光が注ぎかかる寝台の足元のほうを見ていた。


「少し、散歩してくる」


 三兄は急にそんなことを言い出し、曹彪のほうを見ずに寝台を降りた。

 明らかに一人になりたいそのようすに、曹彪はやや気おくれしたが、くつをはいた三兄が中庭につづく戸を開けて出てゆくのを見届けてから、自分も寝台から足を下ろして履をはいた。

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