関関雎鳩(四)
果たして、幼な子の声に導かれるままに曹植が向かった先は、中庭の反対側、曹丕の妻妾と子どもたちが起居する内房へと連なる区画だった。
さすがに内房の入り口には警備の者がいるから間違いは起こり得ないとはいえ、男の身でありながらその付近の園林に足を踏み入れるというだけでも、本来は忌避すべきことである。
(何を考えておられるのか)
長兄の正室
曹植もそれを耳にしており、ずっと心に留めていたに違いない。
たしかに今朝は空気もひときわ清涼で、季春にふさわしく園林は白や紅や薄桃色の花で満たされている。
奥に引き込みがちな婦女子といえどもつい誘い出されてしまうような、ごく理想的な条件である。
(それに)
子桓兄上もおられぬからな、と曹彪は思った。
彼も薄々気づいてはいたが、三兄はやはり、長兄が今朝遠出をして昼近くまで邸を留守にすることを知っていたのだ。
それゆえに、今日の日を選んでここに足を運んだにちがいない。
曹植と曹彪は白く咲き乱れる木蓮の林を抜けて、少しひらけたところに出た。
父曹操が築いた銅雀園ほどではないにしても、この中庭もそれなりの規模を誇り、四季の景観を華やがせるべくさまざまに意匠が凝らされている。
たどり着いた先は池の広がる一帯だった。さほど大きなものではないが、岸辺には奇岩が配置され、水面に雄偉な影を落としている。
水路の循環装置が行き届いているためか水もよく澄み渡り、魚の群れも見て取ることができる。
このあたりまで来るのは本当に久しぶりな気がするな、と曹彪は思った。
そして三兄が立ち止まったのに従い、彼も歩みを止めた。
池の半ばには石の橋が架けられている。そこに人影がみっつあった。
「叔父上たちだ!」
人影のうち小さなふたつ、つまり子どもたちがこちらに気づいたようだった。
曹丕の長子たる
「ああ」
一瞬だけ我に返ったように、曹植はいつもの
残るひとつの影、ほっそりとたおやかなその影は、あるいは内心で当惑したかもしれないとはいえ、ごく自然に流れるようなしぐさで礼を示した。
曹彪もあわてて礼を返すが、三兄のほうを窺い見ると、本来なすべきことも忘れたかのようにただその場に硬直していた。
兄上、と曹彪が袖を引く前に、子どもたちが橋を駆け下りてこちらに近づいてきた。
彼らの母親に対するのと違って、彼ら二人に対してはそれほど久方ぶりの再会というわけではないが、童男童女ながら会うたびにその瑞々しい美しさに磨きがかかっていくことに、曹彪は驚きを禁じ得ない。
(父上が何かにつけて叡を連れ出されるのも、無理のない話だ)
とくに男の初孫である曹叡への鍾愛が甚だ深い父曹操のことを想起しつつ、曹彪はもうひとつ思い出すことがあった。袖の中に手をやってみる。
「叔父上たち、おはようございます」「ございます」
妹のほうはさすがにまだ舌足らずながら、二人ともその小さな身体に不似合いなほど恭しい礼を二人の叔父に捧げる。
その愛くるしいさまをみると曹植もさすがに硬直がとけかけたようだったが、彼が曹叡らに声をかける前に、曹彪は膝を折って目線を合わせた。
「二人とも行儀がいいな。偉いものだ」
駆けてきたばかりで上気するふたりの顔がよりいっそう明るくなる。
「いいものを見せてやろう」
「いいもの?」
曹彪は黒絹の小袋を袖の中からとりだし、袋の口から小さな丸いものをいくつか掌に落として見せた。
「おはじき?すべすべしてる」
おはじきの一種こと
今日持ち歩いている駒も象牙であるが、たまたま彫琢を施していない簡素なもので、曹叡らの目にはだからこそ珍しく映るかもしれなかった。
この子らの父である曹丕は弾棋の名手としても名を馳せており、曹彪は長兄のもとを訪れる際には、たとえ用件は別にあるとしても弾棋の駒も携えてゆくようにしている。
兄弟のなかでは曹彪は上手いほうなので、長兄も気が向けば対戦相手を務めてくれるのだ。
「そうだ。
曹彪が池からさほど離れていない築山にある亭を指さすと、幼い兄妹は大いに沸き立ち、競争するように駆け上っていった。
亭には石の座のほかに石の卓もある。本来の弾棋には専用の盤が必要だが、文字通りの児戯ならば亭の卓でも不足はないだろう。
曹植が一瞬こちらを見た。
曹彪はうなずいただけで彼に背を向け、甥姪の後を追うように亭へと大股で向かっていった。
朝の早い時刻なので、亭の屋根の下にはまだ斜光がさしこんでいる。
子どもたちが駒を自在に弄ぶたび、表面がよく磨かれた白い象牙は石卓の上で軽やかな音をたてる。
この亭を選んだのは我ながら正しかったな、と曹彪は思った。
幼な子たちの姿は橋の上にいる
もし曹叡らを先ほどの客室に連れて行ったら、弾棋の盤のほかさまざまな調度品で甥姪たちの関心を惹きつけることはできようが、甄夫人が目を配ることはできなくなる。
かといって彼女自身は邸の表側へ―――本来は婦人が入るべきでない区画へ立ち入ることを躊躇するはずなので、さほど経たないうちに人を遣わして二人を連れ戻させ、三人で内房に戻ってしまうだろう。
そうなったら、三兄が今日ここを訪ねてきた覚悟を無にすることになってしまう。
それに、と曹彪は思った。何より大事なのは、三兄の姿もここから確認できることだ。
いま見る限りでは、三兄は先ほどの立ち位置から動いていない。
風雪のなかで根を張った松柏のように、何かに耐えるように石橋のほうを振り仰いでいる。
(そんなところからでは、声も届くまいに)
時々卓上からこぼれおちる駒を甥姪の代わりに拾い上げてやり、また卓上に並べてやりながら、曹彪は折に触れ三兄のほうを見やる。
かといって、曹彪も三兄が嫂に限りなく歩み寄ればよいとはもちろん思っていない。
まちがっても節度を越えた真似をさせてはいけない。
そのためにこそ、彼はいつでもここを下りてゆく心づもりをしていた。
ふと、曹植が歩き出した。
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