関関雎鳩(三)

(それでも最後には引き受けるのが、子桓しかん兄上らしくはあるが)


 そうつぶやいた曹彪そうひょうの胸中を知ってか知らずか、曹植がぽつりと口をひらいた。


「だが最近は、子桓兄上もいっそうお忙しくなられたな」


「さようですか。旅游の前と後と、基本的な職務は変わっておられぬかと思いますが」


「そうではなく、―――ご友人たちと過ごされる時間が以前よりさらに増えたように思う。

 今回の漳水しょうすい清河せいが沿いの旅游でも、往路も復路も、なかなか二人だけで話せる機会がなかった」


 不満げというよりは明らかに寂寞せきばくをにじませる三兄の声に、曹彪は心中でやれやれ、と首を振るほかなかった。

 同母兄とはいえいい大人がそこまで兄を恋しがるのは未熟すぎないか、という意味での「やれやれ」だったが、そこに自分が介在しないことへの不服がなかったとはいえない。


朱虎しゅこ、おまえはどう思う」


「どうとは」


「子桓兄上からみて、俺はともに語るに及ばないということだろうか。

 兄上を囲む者たちの才能があまりに出色で、その者たちと過ごすほうが刺激があって啓発を受けられ―――つまり、俺といるよりたのしいために」


 彼にしては珍しいことに、曹植はいっそう物憂げな面持ちになっている。

 やれやれ、と曹彪はふたたび独りごちながら、三兄のために一席ぶってやることにした。


「子桓兄上のご友人の多くは、子建兄上ともご交遊をおもちでしょう」


「ああ」


「ならば、子建兄上も少しは子桓兄上を離れて、近きと遠きとを問わず、より多くの方々から惜しみなく薫陶くんとうを受けるよう努められてはいかがですか。

 彼らの大半は卓越した文筆の才を以て子桓兄上から礼遇されているのですから、子建兄上も彼らとの交遊を広げ、文筆において彼らがそれぞれ得意とするところを吸収しようと貪欲になられればよいのです」


「吸収か。俺には向いていない気がする」


「どんなふうなら向いているのです」


「何となく降りてくるのを待つ」


 天才でないと言えないことをてらいもなく答える三兄に閉口しつつ、曹彪は噛んで含めるように改めて建議した。


「大切なのは、子桓兄上お一人に依存なさらないということです。

 子桓兄上も、子建兄上には独自の交遊の輪があり独自の世界があるとお知りになれば、いよいよ端倪たんげいすべからずとお思いなされて、子建兄上と大いに語り合いたいと思われるようにもなるでしょう。

 心の持ちよう次第ではないですか」


「―――なるほど、それもそうだな。よいことを聞いた。礼を言う」


 曹植の表情はふたたび晴れ晴れと明るくなった。


(やれやれ)


 曹彪は気づかれぬように首をすくめる。


(旅游先では子桓兄上と道を異にされて、そのうえ妻となる相手も見つけてこられたというのに、子建兄上は相変わらずだな)


 曹彪としては、三兄にまもなく妻ができ、いずれ子も持つであろうことは誰もが通る道であるとして納得してはいる。

 だが、あまたいる肉親のうちで自分こそ幼少時から三兄に最も近しくお互いを理解しあってきたという自負をもつ以上、三兄が自分を話し相手にするだけでは飽き足らず、何かあれば長兄を持ち出すことが不満なのであった。


 もっというと、三兄はここ数年内に面識を得たばかりの、血縁者ですらない人々―――その多くは三兄自身の属官もしくは丞相府の官僚であるが―――と文学や政治をめぐって語らうことに真の充実を見出しているのではないか、という疑いが、曹彪の不満とも不服とも言い難い気持ちをますます高めるのであった。


 しかし、十六歳にもなってそんな子どもじみた独占欲を吐露するのはさすがに恥ずかしいことであり、だからこそ、友人たちとの交誼をいっそう推進すべきと三兄に勧めてしまったともいえる。


 我ながら屈折しているな、と曹彪自身も思うが、そういった割り切れない心情はもちろん顔には出さずに、書簡の下書きを黙々と読み進めていく。


(兄上の妻となるかたも)


 気を揉むことになりそうだな、と曹彪はふと思った。

 三兄には好きな人間と好きなものが多すぎるのだ。

 いまでさえ、彼らと過ごすためには昼も夜も時間が十分でないかのような口吻である。


 だが、と曹彪は思った。その令嬢の場合、弟たる自分とは異なる意味で憂いを抱え込むことになるのではないか。

 仮に三兄のいうとおり、彼女が自ら―――それまで真摯に奉じてきた礼教の縛りを断ち切ってまでも―――三兄に思慕を寄せ、その末にふたりが結ばれることになったというならなおさらだ。


 そのこと・・・・をどう「片づける」つもりなのか、あるいはすでに解消できているのか、曹彪はふと木簡の表面から目を上げて三兄を見やったが、本人は相変わらずのんびりした面持ちで弟の感想を待っていた。






(あの日、子建兄上を訪れたときはそんなふうだったな)


 曹彪は長兄の邸の客室で、今もあのときと同じようにすぐ傍らに座しながら、三兄を見ている。

 だが今のようすは、あのときとまったく異なる。


 三兄の長所とも短所ともいえる、誰に対峙するときでもおよそ変わりがない普段の伸びやかな物腰は失われ、己が命運を左右する宣告を待ち受けるかのような、見ているこちらにまで伝染しかねないような張り詰めた面持ちを窓の外に向けている。

 屋外では早朝の冷気も少しずつ退きつつあり、春らしい快活な陽気が満ちようとしているはずだが、三兄の視線には浮足立つようなところは微塵もなかった。


 ふと、遠くで子どもの声が聞こえた。男児と女児のようだ。

 窓の外に緑をけぶらせるように広がる中庭の、この客室からは見えそうにない奥まった側に誰かが出てきたのだろう。曹植がすぐに腰を浮かした。


「兄上」


 弟の呼びかけにも気づかぬかのように、曹植はそのまま席を立って中庭につづく戸を開けた。


「子建兄上」


 ふたたび呼びかけながら、曹彪もやむをえずその後につづく。

 ―――これはまずいのではないか、という思いが色濃くなった。

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