関関雎鳩(六)

 三兄を見つけるのは難しくなかった。

 中庭のなかではひらけたほう、曹彪そうひょうらのへやからさほど離れていない区画に広がる池の岸近くに置かれた、ながいすのような形の石の座に腰かけていた。

 そのあたりは月光をさえぎるものがほとんどないので、こちらに背を向けて池を眺める三兄の姿は、襟首から腰のあたりまで、驚くほど白くもやがかってみえた。


 死人のようだ、と曹彪は戦慄した。


子建しけん兄上」


 かろうじて声を発し、勇を鼓しながら脇から近づいていった。

 曹植は振り向かず、ただ水面をみていた。

 まなざしの動かない横顔が、まだ声変わりの兆しも見えない細い首が、銀の光に洗われている。

 水辺から立ち上る冷気もまたその身を覆い隠し、いずこかへいざなうかのようだった。


「帰ろうよ、兄さま」


 我知らず、もっと年下の弟妹たちのような口調になってしまった。


「ここは、寒いよ」


「―――展転して反側す」


 あまりに唐突なつぶやきに、曹彪は声もなく三兄を凝視した。


「おまえももう、習っただろう」


 曹彪はひとつ間を置いてから、うなずいた。


 『詩経』国風の冒頭にある周南しゅうなんの、そのまた冒頭に置かれる「関雎かんしょ」の一節だ。『詩経』を学ぶ者なら必ず口ずさむことになる歌である。

 彼ら兄弟は『詩経』諸学派のなかでも韓詩かんしを最初に習ってきたので、字句や解釈も、韓詩学派のそれが曹彪の頭にはまず浮かんだ。


「その意味が初めて分かった」


「初めて?」


「俺はいままで、何も分かっていなかった」


 そう言うと、曹植は両の掌を額に当てて目をつむった。ほつれ落ちた前髪が揺れていた。曹彪はただ茫然としていた。

 黒々とした池の水面に目をるも、当然ながら雎鳩ミサゴのつがいが寄り添っているわけでもない。

 池の一隅では蓮の葉が群れとなり、微風に撫でられては月明かりを滑らせていた。


  おもかな 悠う哉 展転して反側す


 曹彪は曹植の傍らに腰を下ろし、声に出さずにその一節を反芻した。

 「展転して反側す」とは寝返りを打つばかりで寝付けないことだと、師からはそう教わった。

 先ほどの三兄のようすそのままだ。分かりやすい詩句である。

 先立つ部分をもう少し思い出そうとした。


  槮差たる䓷の菜 左に右に之をもと

  窈窕たる淑女 めてもやすんでも之を求む

  之を求むるも得ざれば 寤めても寐んでも思いおも

  おもう哉 悠う哉 展転して反側す


 「槮差たる䓷」とは丈の長い水草(アサザ)のことで、「窈窕たる淑女」とは慎み深く善い女の人だと、そう習った。

 女の人といっても「女」は「婦」と異なるので、まだ嫁いでいない人だ。

 みさおが堅くしとやかな女の人を伴侶として迎えたいと、心から願い探し求めては思い悩む気持ちなのだと、師は簡潔に説明した。


 そして、「展転して反側す」とは、先ほど三兄が寝台の上でちょうどしていたような、眠れないで何度も寝返りを打つさまをいうはずだ。


 そのときの師は、思い悩んでいる主体が誰かという点を始め、韓詩など諸学派のさまざまな注釈を意識的に省略して教えていたのだということを、その晩から七年を経て十六になった今の曹彪は理解している。

 とはいえ、小さい子どもに『詩経』を学ばせることは内容の吟味ではなく暗誦を教え込むこととほぼ同義であるから、とりあえずの説明としては妥当であろう。


(求めても得られない)


 それが分かっているから、兄上はあんなに寝返りをうっていたのか。

 話の輪郭が何となく見えてきたような気もするが、それでもまだ分からなかった。

 何を求めているのか訊きたい気がしたが―――それを尋ねてはいけないのだ、ということは彼にも分かった。


 池の水面に小さな波紋が立った。

 魚は夜でも眠らないのかなとふしぎに思い、今度は自分が眠くなってきた。

 水紋を淡くなぞる月光が、墨のような漆黒に溶けてゆく。

 喜ばしい華燭の晩でありながら、静かすぎる夜だった。


 寄りかかられたことで察したのか、三兄が初めて身動きし、こちらの頭をぽんぽんと叩いた。


「帰るか」


 声に出さずにうなずくと、三兄は立ち上がって手を引いてくれた。

 そのまま房に向かって歩きながら、曹彪は彼に幾度か話しかけようとしたが、できなかった。

 斜め下からみる兄の顔は険しくなどなかったが、霧の中をさまよう旅人のように焦点が定まらず、声をかけたら消えてしまうのではないかと思った。


 手を引かれて歩きつづけているうちに、池の底の底、月の光も届かない淵にさまよう魚の像がなぜか心に浮かんだ。

 房に戻って三兄と枕を並べてもなお、魚は心にたゆたいつづけていた。






 そのころから子建兄上は変わった、と曹彪は思う。

 いや、心の赴くままに笑い怒り愛し詠う、人格の根幹のようなところは幼いころから現在までほとんど変わっていないが、何かに没頭する度合いが変わった、というべきか。


 それまでももちろん我が身の一部のように詩文を愛好していたが、その翌日からは、手が空けば父の書庫に入りびたり、耽溺するように書物を広げるようになった。

 次から次に竹簡が紐解かれ、また巻かれては積まれてゆく。

 三兄は書庫にいる間は話し相手をしてくれなくなったので、曹彪は大いに不満だったものだ。


 だがいま思うと、精魂を傾ける対象が詩文であって本当によかったのではないか。

 数え十三という歳であの婚礼に臨席したのは、三兄にとってはまだ良かったのだ。

 もし彼があと数歳成熟していたら、酒色を近づけることが許される歳だ。

 暴飲と荒淫に身を堕とし、本来の彼に戻れなくなっていたのではないか。


 そう危惧せざるをえないほど、あのころの三兄が書物にのめりこむさまはとめどがなかった。

 そして、並外れた天稟もあるにせよ、弱年であるだけに学識の吸収にはいっそうの拍車がかかり、父兄を刮目させるほどの詩作や論述をまもなく披露するようになった。

 そのさまを、曹彪はずっとかたわらで見つづけてきた。


 今ならば、曹植のあの変貌と甄氏の輿入れには何らかのつながりがあるのだと察せられる。

 かといって、あの晩、目と鼻の先にある邸の一角で彼女が長兄と夜を過ごすことに三兄が耐え難い思いをしていたとは思われない。そんな生々しい苦悩はまだ、縁遠いものだったであろう。


 世間には十三、十四あたりで婢妾を枕席に侍らせる御曹司もいるようだが、あの年頃の三兄にそんな目覚めは微塵も見られなかった。

 七年後のいまに至るまで、甄氏を日に夜に独占できる長兄に対して忸怩じくじたる思いを抱えているようにもみえないのは、そんなところに理由があるのではないかとも思う。


 三兄はただ知ってしまったのだ。

 心腑をえぐられ理性を打ち砕かれるほどに美しいものがこの世にあるということを、そしてそれは決して手に入らないということを。

 邂逅しなければ知らずにいられたのに、あの晩甄氏と相対したばかりに、己が生には永遠に埋められない欠落があることを知ってしまった。

 それを少しでも埋めるために、三兄は狂ったように書を漁り模索しはじめたのではないか。


 文字の世界はどこまで潜っていっても底がなく、そこに沈み込んでゆくうちは自由でいられる。そういうことだったのではないか、と今は思う。

 その欠落を抱えたまま、三兄は今日までずっと生きてきたように見える。

 感性が強い、といった概念を当時の曹彪はまだ知らなかった。

 だが、頭脳だけでなく心のはたらきにおいて、子建兄上は自分たちとは違うのだ、ということは当時からすでに気づいていた。いまも、そう思っている。






 そして当の曹植は、曹彪が見据える視線の先で、橋のたもとにとどまったまま、橋の半ばにいる甄氏と言葉を交わしている。

 かといって、曹彪が危惧したほどあによめを凝視しているわけでもなく、むしろ水面に映る影のほうに目を落としがちだった。

 そこに何をみているのか、曹彪にはわからない。


 だが、三兄はついにしっかりと顔を上げ、何事かを嫂に短く告げた。

 斜光の角度が変わったからか、甄氏が破顔したのが曹彪にも分かった。

 細められた双眸と両端が上がった唇の曲線は、奇跡のような造形だった。


 曹植はそこから目をそらせないかのように、息を凝らすかのように彼女を見つめている。その空間だけ時が止まったかのようだった。

 次に何が起こるのか。曹彪の不安が募ってきた。

 しかし彼が焦燥に耐えかねてあずまやの石座から腰を上げる前に、三兄は嫂に辞去の礼を捧げ、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってきた。


「子建叔父上!」


 曹叡ら兄妹が曹植の足音に気づき、とたんに歓声を上げた。

 曹植の側も軽く手を挙げる。その表情にはいつもの大らかさが戻ってきている。

 どちらかといえば曹彪よりも曹植のほうが子どもをよく構うたちの男なので、彼のほうがより慕われているといえる。


 だが今回は亭に着くと、甥姪の頭をくしゃくしゃにしてやるだけで、「義姉上が―――おまえたちの母上が、あそこでお待ちだ」と伝えた。

 遊んでくれないのかと幼い兄妹は少し不満げな反応をしたが、ふとこうべを巡らせば、橋の上に一人たたずむ母親の姿が急に儚げに見えたのであろう、守ってあげたいと言わんばかりに、ふたりともすぐにそちらへ駆け出して行った。


「転ぶなよ」


 曹植は笑いを含みながら声をかけ、小さな背中が遠ざかってゆくのを見届けると、曹彪に向かって静かに言った。


「礼を言う」


 卓上に散らばる弾棋の駒を集めて片づけていた曹彪は、何をですか、とは訊かなかった。

 駒をすっかり絹袋に収めてしまうと、行きましょうか、と兄に言った。

 ふたりが亭を出るころには、母子の影は橋上にもその周囲にも見当たらなかった。すでに内房のほうへ戻ったのであろう。


 亭の前のなだらかな坂を下り、池の縁へ出てくると、曹植は一瞬だけ橋のほうへ目を遣った。

 いまは誰の気配もない。風のせいか魚のせいか、時々水紋がたつばかりである。

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