(五十四)縑衣

 その一局はやはり崔林の勝ちに終わり、叔父たちはやがて新しい対局を始めた。

 明日も早いからもう休むように、と退室を許されたので、崔氏はいったん奥向きの自室に戻ったが、やがてまた廊下へと出た。


 別房で休んでいる王経おうけい母子を訪ねてゆくつもりだった。

 彼らは崔家のの近郊に耕地と家屋を持つ自作農ではあるが、耕牛の貸与のような諸々の援助と引き換えに、農事の合間合間にこの邸へ手伝いに来てもらっているのだった。

 いまは農繁期ではないこともあり、帰りが遅くなったときは、そのまま邸内に泊まってゆくのが慣わしになっている。


 今日の昼間などは、崔氏が日用品として婚家へ携えてゆく行李の点検のためにふたりの手を大いに借りたので、おそらくだいぶ疲れさせてしまったにちがいない。

 もう就寝しているようだったら引き返そうと思ったが、まだ起きているなら、できれば今日のうちに、ふたりに改めて告別と謝意を伝えておきたいと思った。


 十三歳の王経と、三十歳を過ぎたばかりのその母親はむろん、奴婢のように崔家に隷従しているわけではない。

 しかし、働き盛りの男手つまり王経の父親が早くに亡くなったために、一般の農家のなかでもひときわ零細な部類であり、この地の豪族であり援助者でもある崔家のひとびとに対しては、どうしても従属的な立場にある。

 明日になれば彼ら母子は、崔氏ら一行の出立の慌ただしさに遠慮し、族人ではないからという理由で邸の隅へ黙って引き込んでしまうかもしれなかった。


 戸の隙間からはかすかに灯りが漏れていた。

 耳を澄ますと、王経の朗読の声が聞こえてくる。

 どうやら『論語』の一説であるが、彼にしては字句を追う速度が遅かった。

 文字を識らない母親に頼まれ、毎晩こうして読み聞かせているのだろう、と思われた。


「こんばんは」


「おや、嬢さま。こんばんは」


「―――こんばんは」


 戸口で挨拶をした崔氏に、母子はそれぞれ丁重に礼を捧げた。

 崔氏は請われて入室すると、王経の手元を見やった。


「遅くまで、がんばっているのね」


「いえ、―――あの、灯油を余分に使ってしまい、申し訳ありません」


「そんなことは気にしないで。あなたがたには、長らくお世話になりました。

 どうか、いつまでも息災であられますよう」


 母親は恐縮するように深々と頭を下げた。

 王経も母親に倣ったが、姿勢を戻した後も目は伏せたままだった。

 ゆっくり顔を上げた母親は苦笑するように息子を一瞥してから、崔氏に答えた。


「嬢さまこそ、嫁がれましてもどうか深くご自愛なされて、丈夫なお子をたくさん授かられますよう。いつもこの地でお祈りしております」


「本当に、ありがとうございます」


「もっとも、心配はいたしておりませんけれども。

 丞相のご子息さまがじきじきに嬢さまをご所望になられたのですから、末永くご恩愛を受けて、添い遂げられますとも」


 そういって母親はおっとりと笑った。

 幼な子を抱えた寡婦となって久しい身でありながら、生活の労苦やすさみをおよそ感じさせない、天然の上品さと知性をにじませる笑いだった。

 若い時に教育を受ける機会がなくとも、経験を通じて洞察を深めることはいくらでも可能なのだと、身を以て教えてくれる年上の婦人であった。


 彼女のことばの奥にはただ祝福があるだけで、何の皮肉も非難もないと分かっていながらも、崔氏は目元を赤らめずにはいられなかった。


 彼女と曹植の結婚について、清河崔氏宗家に出入りする商人や傭人ようじんの一部ではどうも、

「崔家のいちばん年長の嬢さまが丞相の若君に見初められ、鄴に帰っても忘れられないというので丞相もお許しになった」

ということになっているらしかった。


 結婚の経緯が一族の門外でまで推測されているのも恥ずかしいことではあったが、噂が事実とは相当かけ離れているのもまた、なんとも居たたまれないことであった。

 だが、曹植の意向により婚約から成婚までにおよそ一年を設定したことの賜物であろうか、年若いふたりの間に不用意な接触があったなどという憶測が囁かれていないのは、まだ救いがあった。


 これがもし、曹植が清河を発ってひと月経つか経たぬかのうちに、崔氏のもとに鄴から迎えの車が来ていたりすれば、

「あの家のむすめは丞相の御曹司から迫られて、婚前に身重になったにちがいない」

という同情とも非難ともつかない目でみる者が、近隣の豪族の家々にも少なからず現れたことであろう。

 もしそうなれば、族弟妹たちの今後の婚姻にまで支障が出てしまった恐れがある。


(そうならなかったのは、本当によかった)


 その点だけは、彼女も安堵していた。

 やはり、成婚に至るまでに、所定の手順をひとつひとつ履んでゆくことは、両家が互いに尊重を示すという意味でも、両家が互いに尊重し合っていることを世間に示す・・・・・という意味でも、同様に大切なのだ、と身に染みて感じていた。

 曹植の言ったことは、たしかに的を射ていたのだ。


 それでもなお沸き起こって来た居心地の悪さを振り払うように、崔氏はやや脈絡なく話題を変えた。


「あなたがたに、餞別せんべつをお渡ししようと思ってまいりましたの」


 そう言って自室から携えてきた包みのなかから取り出したのは、方形に畳まれた暗紅色の布だった。広げると、婦人用のうわぎの形になった。灯火のあたる角度によって、淡黄色の糸で織り込まれた長寿紋が淡く濃く浮かび上がる。


「なんとまあ、痛み入ります」


「織機や針の扱い方を懇切に教えていただいた夫人にさしあげるのも、お恥ずかしい話ですけれど」


「いいえ、こんなにご立派なものを仕立てていただいて。

 布目も本当にしっかりしていること。ずいぶんお手間をかけていただいたことでしょう」


「いえ、どちらにしても、こちらにいるうちに修練は積むつもりだったのです。

 この地を離れたら、かとりぎぬの製法のあれこれを訊ける相手も身近にいなくなってしまうので」


 縑は清河の特産の絹織物である。二本の生糸をよりあわせて織ることで、非常に丈夫で緻密な構造になる。

 生産に手間を要する代わり、容易には裂傷の恐れがなく、また水分を漏らしにくいことから染色にも適している。


 清河に生まれた女子ならば誰でも、十五六にもなればひととおりの織り方は身につけるものだが、よその地方では清河産の縑はひどく珍重され、相当な高値がつくのだという。

 郷里の産は郷里にいるうちに技術を身につけておかねばならないと思い、崔氏はこの一年、それまで努めてきた以上に機織りに精を出したのだった。


「経や、あなたにも織ったのだけれど」


 目を伏せたままの少年に向かって、崔氏が少しためらいがちに言いながら取り出したものは、深い藍色に白糸で葛紋を織り込んだ布だった。

 ただし筒状に巻かれたままであり、裁断や縫製はされていない。


「あなたぐらいの年だとすぐに背が伸びてしまうから、服には仕立てなかったの。いずれ成年に近づいたとき、お母さまに縫っていただいてね」


「ありがとうございます」


 王経は深く頭を下げたが、それ以上は何も言わなかった。


「まったくおまえは。もっときちんと、嬢さまのお手並みを見てごらんな」


「夫人、いいのです。―――この紋様は、あまり気に入らなかったかしら」


「そんなことはありません」


 そういって少年はわずかに面を上げたが、またすぐに目を伏せてしまった。

 房の片隅で小さく爆ぜる燭台の明かりは、彼の横顔に注ぎながら卓上の木簡にも及び、墨痕ぼっこんを淡く浮かび上がらせていた。


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