(五十三)訓戒ふたたび

 しばし待ち続けたが、崔琰はまだ、散策から戻ってこない。

 崔氏はとうとう、かねてより気になっていたことを、崔林に向かって口に出してみた。


「―――あの、季珪叔父上が出て行かれる前、徳儒とくじゅ叔父上は平原侯さまのあれこれについて伝聞なされたとおっしゃいましたが、ひょっとして叔父上は、平原侯さまとご面識がおありなのですか」


「いいや、まったく。

 あのかたのご親友に、楊徳祖ようとくそ楊脩ようしゅう)というのがいるのはおまえも聞いたことがあるだろう」


「はい」


「同じ丞相府勤めとはいえ俺とはだいぶ管掌が違うが、徳祖どのは府内のあらゆる業務に関与する主簿の立場だからな、俺でも自然と接点ができてくる」


「まあ、そうだったのですか」


「大体、なんでまた俺と平原侯に交遊があると思った」


「あのかたをずいぶん後押ししてくださるというか、肩を持ってくださるものですから」


「徳祖どのを始め、諸方面から見聞きしたところを総合すると、そう才気走って度し難いだけの御曹司でもあるまいと思っただけだがね」


「そのとおりです」


 族父のことばに素直にうなずきかけて、崔氏はいまさらのように顔を赤らめたが、この族父に限っては曹植との馴れ初めを激しく指弾されることも、ましてや冷やかされる恐れもない。

 彼女はもはや腹を決めて、白湯さゆのごとき彼の淡白さを見習おうとするかのように、訥々と話し始めた。


「まことに、仰せのとおりなのです。

 ―――いろいろと規律が欠けておられるのもやはり、本当ですけれど」


「まあなあ。二十歳やそこらで数多の伝説をお持ちのかただからなあ」


「あのかたと季珪叔父上とはご性質が根本的に噛み合わないというのは、もはやいたしかたないという気もいたします。

 けれどなんとなく、徳儒叔父上とは気心が通じられるような気がするのです。

 婚礼ののち、もしよろしければ、侯と差し向かいでお話になられてはいかがでしょう。わたくしからも、侯にお願い申し上げてみます」


「おまえ、季珪兄さんの―――叔父上の話を聴いてなかったな」


 もはや対局者の不在を待ちあぐねたのか、ひとりで交互に石を置き始めながら、崔林は関心のなさそうに応じた。


「いいえ、そんなことは」


「なら、聴いた端から抜けてったってことだ。もういちどだけよく聴いとけ。

 そういった、とくに他意のない個人的な親交の仲立ちも、往々にして不公正な仕官や出世の道を開いちまうもんだ。


 おまえにとって夫君となるかたは大切で、肉親も大切だから、大切な人間同士には親しみ合ってもらいたいというのは分かる。それ以上の意図はないことも分かる。だがそれじゃいかん。


 我々一族に許されるのは四季折々や冠婚葬祭での挨拶ぐらいなもんだと、そういう覚悟をしておけ。


 平原侯ご自身が俺との交際を所望されるならともかく、おまえのほうから仲介を申し出るようなことは決してするな」


「―――承知いたしました」


「それに万一、あのかたが俺に興味を示されたとしても、あるいは我々一族の誰かに関心をもたれたとしても、―――もっと言えば、おまえを喜ばせるためだけに我々一族の誰かを取り立てようとの意向を示してくださったとしても、可能なかぎり断っとくべきだ」


 石をもつ指を碁盤の上でさまよわせながら、崔林は言った。


「嫁いでから常に念頭に置くべきは、あのかたの公的な立場だ。

 おまえの季珪叔父上が何度も説いておられたとおりな。


 平原侯はいまでも十分権力の中枢近くにおられるが、丞相のご意向次第ではこれからますます近づかれることもありうる。反対に、遠ざけられることもありうる。


 おまえはあのかたの伴侶になるわけだから、あのかたの立場がどう上下しようとそばで支えつづければいいし、周囲もそれを非難したりしない。

 だが、嫁さんの一族までみだりに近づきすぎるのはよくない。


 たとえば、あのかたがこのさき万が一、曹丞相の継嗣に指名されるようなことになれば、われわれ一族も早くから媚を売っといたほうが栄達には恵まれるかもしれん。が、実力や実績に拠らない出世ちゅうのは長続きしないもんだ。


 何より、丞相が今後本格的に後継者選びに迷われようもんなら、それが長引けば長引くほど、平原侯とその支持者に対する兄君の―――五官中郎将の恨みは募るわけだし、丞相がさんざん迷われた挙句に兄君を継嗣として据え置かれることになれば、今度は兄君からの報復を恐れなきゃならんわけだ。


 つまるところ、権力の中枢なんてものには意識して距離を置くべきで、あのかたの公的な立場を念慮すべきだってのはそういうことだ」


「―――謹んで、拝承いたしました」


 かちり、と崔林は崔琰の側に新たな石を置きかけたものの、結局は掌中に戻した。

 天下第一の権門への嫁入を控えている姪――正しくは族女であるが――の先細った声の裏側に、すでに隠れなき罪悪感を感じ取ったのかもしれなかった。


 いいか、と小柄な族父はゆっくり言った。


「おまえがあの家に縁づいたのを責めてるわけじゃない。

 大体、最終的に結婚を承諾したのは季珪兄さんだ。兄さんはなんだかんだいって、この婚姻がわれわれ一族の危亡につながるわけではないと見定めたからこそ、丞相からのご打診をお受けになったんだろうよ。


 まあ、天子のご外戚と比べるのも恐れ多いことだが、史書を紐解けば、身を慎み欲を出さなかった一族は大体存続している。われわれもそれに倣うしかあるまい」


「はい、―――ありがとうございます、叔父上」


「礼を言われるようなことじゃあるまい。

 ―――しかし俺も出世したもんだな。

 徒歩で初任地へ向かった男が、列侯夫人から頭を下げられる身分になったわけだ」


 座り疲れたように背中を伸ばしながら、崔林はふたたび碁盤に視線を落とした。

 彼は四十代なかばだが、崔琰は今年でちょうど五十になる。


「―――おお」


「どうなさいました」


「ぼちぼち終局だ」


「あら、おめでとうございます」


「いや、俺が負ける」


「まあ」


 崔氏は思わず口元をほころばせたが、そこへ戸のひらく音がした。崔琰が帰ってきたのだった。


「お帰りなさいませ」


 姪のほうは見ず、崔琰は従弟の対面へ戻っていった。

 

「待たせた」


「兄さんの窮地ですよ」


 そういって崔林は何食わぬ顔で碁盤を示した。いつのまにか向きが変えられていた。


「そなた……」


「戦線を離脱しちゃいけませんや」


 崔琰は何事か言いかけたものの、彼らしい潔さでもとの莚席に着座した。

 盤上に向けられたその顔は、先ほど中座したときのいかめしさにもまして、いよいよ深刻な色を増していった。

 崔氏はついにこらえがたくなり、袖で口元を覆いながら笑い出した。


 笑いながら、わたしはもうすぐこの家を、この安らかな巣を去るのだ、と思った。

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