(五十五)経と緯と

 崔氏は胸のうちで小さく息をついた。

 彼に限らず、この年頃の少年はおおよそこんなふうだと思うが、それでもこのまま別れを告げれば、悔いが残ってしまいそうだった。

 少し間を置いてから、できるだけ自然な調子でこう尋ねた。


「今度あなたが校へ上がるのを機に、徳儒とくじゅ(崔林)叔父上があなたのあざなをお考えになったのだけど、もう聞いているかしら」


「ぼくの、―――わたしの、字ですか」


 王経おうけいははっと顔を上げた。

 さきほど挨拶を交わして以来初めて子どもらしい、息をひそめて待ち受けるような顔になったのを見て、崔氏はふいにこの、五六歳のころからそばで過ごしてきた少年への愛惜がふつふつと募った。


 彼女は一族の同世代のなかでは最年長なので、族弟妹たちに読み書きの手ほどきをしてやったことは何度もある。

 ただ、彼らのうち男子は十になるころにはの書館(初等教育機関)に入れられてしまうし、父代わりの叔父崔琰の息子たち、つまり崔氏にとっては実質的な弟にあたる従弟たちの教育はといえば叔父が一手に担っているので、ともに過ごす時間の長さと濃さからいえば、王経のほうが―――姓名の書き方から経書の基礎まで手ずから教えてきたこの少年のほうが、血の近い弟のような存在と思えることもしばしばであった。


 崔家近郊の農民の子弟のなかからこの少年の資質を早くに見出し、教育の機会などを何くれとなく世話してきた崔林が、彼の将来に大きな期待をかけていることは、彼女の目には自明であった。


 だが、王経本人は自分にそれだけの価値があるとは思っていないらしいのも、それとなく感じ取れることではあった。

 だからこそ、いまや丞相府官僚の地位にある崔林が自分のためにじきじきに字を考案してくれるなどとは、まったく予想もしていなかったのであろう。


 字は通常、男であれば成人に達してから父兄より与えられるものだが、十やそこらで字を持つ例も少なくない。


 母ひとり子ひとりの農家の息子である王経が十三歳で字を与えられるというのは、今冬、つまり次の農閑期から、県の教育機関である校へ上がることになったためである。

 これまで彼に手習いを教えてきた崔氏がこのたび婚姻のために清河を後にするのを機として、王経のいわば後見役にあたる崔林が、彼の母親の許諾も得てそう取り計らったのだった。


 近年になって中央官僚へと昇任したとはいえ、一族への賑恤しんじゅつの経費などを思えば、崔林のふところは決して劇的に温かくなったとはいえまいが、少なくとも単身徒歩で任地に赴いた仕官当初よりは、自由になる金はあるのだろう。


「そう、字です。叔父上から直接聞きたいかしら」


「―――いえ、よろしければ、いま」


彦緯げんい、となさるそうですよ」


「彦緯」


「華やかなよこいと、という意味ね。

 あなたのお父さまお母さまがつけられたそのき名―――たていとと組み合わさって美しい綾を成すようにと、そのような生が約束されるようにと、そう考えてくださったのだと思うわ」


「―――農家の子には、過ぎた字だと思います」


「おまえ、お礼を申し上げもしないで」


 母親の叱声を受けても、王経は喜色をつくることはなかった。

 崔氏はうつむきがちな彼の頭を見ていた。童子の象徴である左右の総角が、麻紐で根元を結われている。

 この子ももうすぐもとどりを結うのだと思うと、胸の奥がふしぎに、寂しいような温かいような色に染められてゆく気がした。


「あなたがどうしても好まないなら、違う字にしていただけるよう、わたしから徳儒叔父上に申し上げてもいいのだけれど―――でもその前に、こう考えることもできると、思うのです」


 王経に渡そうとして自分の膝に置いたままの布の糸目をなぞりながら、崔氏は静かにつづけた。

 かとりぎぬにもさまざまな製法があるが、崔家の婦人たちの間で受け継がれてきたのは、よこいとに対してたていとの割合を極めて高くする織りかたである。

 上から下へと緊密に流れ落ちるたていとの目は、幾重にも重ねられた帳のような感触を指先に与えた。


「あなたもお母さまの機織りを間近で見ているから分かると思うけれど、すべての織物は、まずたていとを、どこまでも緩みなく張り詰めさせることから始まるでしょう」


「はい」


「たていとがよじれたりたわんだりしていれば、よこいとにどれほど華やかで光沢ある素材を用いても、およそひとつの文様を織り上げることはできない。

 たていとが貫かれて初めて、綾目は綾目となることができる。そうでしょう。


 あなたもそのように、いずれ才識で名を上げても浮華ふかには陥らず、自らの芯をまっすぐに保ちつづけられるはず―――そして何かを成し遂げられるはずだと、徳儒叔父上のそういうお気持ちが込められているのではないでしょうか」


「―――徳儒さまには、昔から勿体ないほどお心にかけていただいておりますが、そこまでのご期待を寄せられていることはないと思います」


「でも、わたしがそう信じる分には、かまわないかしら」


 王経は何も言わなかった。

 崔氏は少しのあいだ彼の伏せられたまつげを見つめ、それから母子に辞去を述べて立ち上がった。


「嬢さま」


 少年が初めて呼びかけの声を発した。


「これからの外に、―――あのはかにもうでられるのですか」


「ええ。よく分かりましたね」


よもぎを袖に入れておいでなので」


 それから少しためらうような間を置き、彼はつづけた。


「―――もうだいぶ遅いので、お供いたします」


「あら、大丈夫よ。門楼の当直のひとたちにお願いしてみるから」


「それでも、同行する人間は多いほうがいいと思います。

 ここから塢門までの距離も、長いですから」


「そう。では、ありがとう」


 崔氏が礼を述べるや、少年はへやの戸に向かって歩き出していた。

 彼女もその後につづきかけたが、敷居の前に至ると、最後に振り返った。

 王経の母のやわらかいまなざしが彼女を迎え、いっそう柔和に細められた。

 そしてそのまま、苦笑するように少年の背へと注がれるのが分かった。






 仲春とはいえ、夜気はまだ冷ややかさを保っている。

 崔氏は改めて襟を合わせながら、王経の手にする燭に導かれるようにして廊下から中庭、内門を出、それから世帯を異にする族人たちの邸が点在する一帯を抜けた。


 崔氏の目指す冢とは、幼かったころの彼女が阿姊おねえさんと呼んで慕い―――そして身を以て守ってくれた婢女を葬ったその場所であった。

 崔氏宗族の墓地は郊外の東南方、ゆるやかな丘の裾野に広がっている。


 阿姊は本来、なかなか懐妊の兆しがない崔琰の妻が妾の候補として連れてきたむすめだが、崔琰の子をなしたどころか事実上の妾になったこともなく、婢女の身で没した以上は当然、主人一族の墓に眠ることはできない。

 だが、家法を堅く奉じる崔琰も最後には、幼い崔氏と妻からの懇願を容れ、自分たち夫妻のために予定されている墓地区画のすぐ傍らに、阿姊の亡骸を埋めたのだった。


 王経と並んで歩きながら、崔氏はふと、長らく気になっていたことを問いかけてみた。


「平原侯さまのご滞在中、あなたは―――なんと言ったらいいのかしら、あまり馴染めなかったのですか」


「丞相のご子息に親しみを感じるなど、恐れ多いことです」


「そういうことではないの。あなたはあまり、この婚礼を好ましく思っていないような気がしたものだから。

 やはり、あのような」


 あのような、野合やごうじみた一瞬を垣間見せてしまったからかしら、と胸のうちでつづけたものの、さすがに口に出すことはできなかった。

 が、王経は気に留めたふうもなく、あるいはすべてを了解しているかのように、静かな声で応じた。


「そんなことはありません。嬢さまにとっても、崔家のみなさまにとっても、これほど誉れ高き慶事はないと、心から思っています」


「ありがとう。それならよいのだけれど。

 あなたはもう、わたしの弟のひとりのようなものだから」


 王経は初めて崔氏の顔を見上げた。

 だが彼女から視線を向けられるやすぐに、手燭が照らし出す己の足元に目を落とした。

 そして数歩進んでから、腹を決めたようにきっぱりとした声で言った。


「お祝い申し上げる思いに、いつわりはございません。

 そもそも、平原侯さまご滞在の最後の日、嬢さまのご居室をお教え申し上げたのは、わたしなのです」


「まあ……!」


 崔氏は大きく目を見張った。

 腹が立ったわけでも呆れたわけでもないが、ただただ意外だったのだ。


 だがいま思い起こしてみれば、この邸に滞在していた間は基本的に寝所と書庫の間しか行き来していなかった曹植が、あの晩に限り奥向きのへやのなかから崔氏のねやの窓を迷いなく選び取ったのは、たしかに不可解なことであった。

 邸内をよく知る者の助けがなければできないことである。




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王経の字について:


『文選』所収の袁宏「三國名臣序贊」最初のほうの、賛の対象である魏呉蜀の名臣の姓名字を列挙してゆく箇所では、王経は「字承宗」とあり、また賛の本文「烈烈王生、知死不撓、求仁不遠、期在忠孝」に付された李善注は『三国志』裴松之注の「經字彦緯」を引いたうえで「今云承宗、蓋有二字也」と述べるように、王経は「彦緯」「承宗」という二種類の字を持っていたようです。


「経」との関連から言って「彦緯」のほうが本来の字だと思われますが、いちど字を付けた後で状況が変化したため(上司になった人物の名を犯すことになる、等の理由で)改めたのかもしれません。

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