(五十)采詩の淳風

「叔父上の懇切なるご訓示、まことにかたじけのうございます」


 崔氏は改めて頭を深く下げた。


「この胸に深くとどめ、あちらのお家に参りましても、つつしんで奉り申し上げたく存じます。

 そして仰せのとおり、我が一身ばかりではなく、あたうるかぎりあのおかたにも―――平原侯さまにもご理解いただけるように尽力いたします。

 侯は寡欲なおかたでいらっしゃいます。―――いえ、そのように伺っております。叔父上のご衷心からのご配慮を、必ずや真摯にお受けとめくださいましょう」


「寡欲、か」


「そうなのです」


 叔父に否定されなかったうれしさに、崔氏は思わず間をおかずに強調を返した。


「平原侯さまはまことに世に稀な鴻才に恵まれておられ、それだけでなく、ふしぎと心に懸けずにはいられないおかたで―――曹丞相のご寵愛を専らになされているのももっともでいらっしゃいます。

 そして、その天稟てんぴんを裏切らぬ高い志をお持ちになりながら、なおかつ権勢に対してはあくまで寡欲でいらっしゃるのです。

 叔父上のご危惧なされるところを身でもって体現なされるようなことは、決してあるまいと存じます」


 叔父と族父は押し黙り、相槌を入れることもなかったが、崔氏は気づかぬかのように滔々と話しつづけた。彼女には珍しいことであった。


 曹植のことを考えるときに自然と胸中に沸きいずる熱が、膨張しつづける蒸気のように、どこからともなくことばを次々と押し出してくるのだった。


「それに何より、平原侯さまは父君兄君を始めとして、ご親族を心から愛していらっしゃるのです。

 ご家中に亀裂をもたらすような動きを、御自おんみずから是認されるはずはございません」


 そこまで言い切って始めて、崔氏は己の発言のあられもなさに気づき、目元を赤く染めながら、今さらのように声を小さくした。


「―――はずがない、と、世間では言われているかと存じます」


 ほとんど手遅れの気味があったが、末尾にかろうじてそう付け足した。


 清河滞在中の曹植との間に起こったおおよその事情を、叔父たちにももはや看取されているにはちがいないといっても、彼女は形の上ではあくまで家長たる崔琰の意を受けて曹家に嫁ぐのである。


 礼法の遵奉こそ人が人たるための道であるとして、幼いころから己をたゆまず教え導いてきてくれたそのひとの前で、男女の別を軽んじる―――殊に、未婚の男女はみだりに接点をもつべきでないという定めを忘れたように振る舞うなど、あってはならないことであった。


 崔琰は秀でた眉をかすかに上げ、あまり減っていない酒杯を口元に運んだ。

 優美でいながらごく自然に厳かさをにじませる動作で、ゆっくりと杯をもとの位置に戻す。

 そうだな、と彼は深くうなずいた。


「平原侯のご才識が、五官中郎将と並んで丞相のご子息方の中でも卓越しているのはむろん承知している。

 そしてそれでいながら、地位や権勢に対してさほどのご執着を持たれぬことについても、やはりしばしば耳にするところだ」


 安堵に正座さえくずれそうになりながら、崔氏は思わず膝の上で両手を握った。

 やはり叔父上は分かってくださるのだ、と思った。


 だが、つづくことばを聞き届けるや、再び背筋を強張らせざるを得なかった。


「が、それと同様にしばしば伝聞せざるをえないのは、ご素行全般にわたる規律のなさだ」


「―――はい」


 小さくうなずきながら、再び目を伏せる。

 これこそいつかは指弾されるにちがいないと覚悟していたことではあるが、いざそのときを迎えると、やはりいたたまれないほどに息苦しい心地がした。


「他者の非を、それも我々の姻族となるかたの非を数えあげるようなことをしたくはないが、―――平原侯というおかたは、志学しがく(十五歳)になるやなられぬやのころから飲酒を始めあらゆる遊興に親しまれ、衣冠の正邪には頓着なされず、下々の者との地位の別にも拘泥されず、あまつさえ興味が赴くままに、伎人や胡人のような者たちとも交際されるとか」


「―――はい」


 崔氏はいよいよ重くこうべを垂れた。


 たとえ婚約が成立した男女であろうとも、正式に対面してよいのはむろん、新郎新婦として親迎しんげいを完成させる華燭かしょくの晩である。

 ゆえに彼女は、去年の季春に平原侯一行を見送って以来、曹植と面会することはもちろんのこと、人を介して文を交わしたことさえない。

 だが、手を尽くして彼の消息を伝え聞く限り、相も変わらず奔放不羈ふき―――我が道を邁進まいしんしてやまないらしいということは分かるのである。


「とりわけ気になるのは、文学を介して交友を深められているご友人がただ。

 むろん、そのなかには陳孔璋(陳琳)のような気骨の士もおありだとはいえ、経書の習熟にあてる時間も惜しんで詩賦に親しむようなともがらは、言辞の華やかさ、新奇さばかりを追究し、往々にして進退まで浮薄に陥りがちだ」


「それは―――」


 やや偏った見方ではないでしょうか、と崔氏は口にのぼしかけたが、叔父の言論へ疑義を呈するというのは、彼女にはかつて―――曹植に出会う前ならば―――考えたこともない非行であった。

 何か、と問い返すように姪を一瞥してから、崔琰はさらに言い次いだ。


「言うまでもないことだが、詩は本来、上古の聖王が民情を知り政務の助けとせんがために、各地から採集なされたものだ。

 仁慈のまつりごとを天下にあまねくかんとする、その崇高な目的に比べれば、個人の感慨の発露などは卑小な営みに過ぎぬ」


「―――はい」


「そもそも、作品に自らの姓名を冠して己を顕示するような習わしは、およそ聖王の御世にはなかったものだ。

 無名のひとびとの声が音律となって主君や卿士大夫のもとに届き、その治世をよりよく導くこと、適切な諷諫ふうかんをなすことにこそ意味があったのだ。

 遺憾なことだが、いまやその淳風じゅんぷうは失われて久しい。


 今の世は丞相ご自身のご奨励もあり、官と民とを問わず好んで文学に取り組むひとびとが増えつつあるようだ。それはよい。

 だが、士のたしなみとして留めるのでなく、本分たる儒学をおろそかにしてまで詩賦の制作や批評を尊ぶような風潮が現れれば、座視してよい事態ではない。


 平原侯のたぐいまれなき才華は誠によみすべきだが、あのかたがその流れの中心に祭り上げられるようなことがなければよいのだがな」


「―――まことに」


「そもそも、その兆候はすでに感じられぬでもない。

 ご自身と同様に文名高きご友人がたと詩賦の研鑽にいそしまれるのもよいが、そのご交遊を重んじられるあまり、お立場に伴う諸々の義務をおろそかにされかけている、そういう向きもあるのではないか」


「―――ですが、叔父上」


 崔氏はついに顔を上げた。まちがったことをしてしまうかもしれない、と恐れが募る一方で、どうしてもいま、反駁せずにはいられなかった。

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