(五十一)苦言
「ですが、それは平原侯さまの、生来のご情愛深さのゆえなのです。
ご親族であれご友人であれ、あのかたはとても自然に、息をするようにみなさまを愛していらっしゃって、ご身辺には常に、愛情を注ぐお相手が必要なのです」
そこまで一息に言い切ると、崔氏は最後にまた、小さな声で付け加えた。
「―――と、伝聞いたしております」
「そなたには、伝聞の出所が多すぎるようだが」
「いえ、それは」
崔氏はほとんど瞬時に目を伏せた。
「よもやはと思うが、あのかたからそなたに宛てて、じかに
「むろんです」
曹植に対する叔父のおぼえがこれ以上悪くなることに耐えられず、間髪おかずに答えた。
「もちろん、わたくしから平原侯さまにおたよりを差し上げたことも、侯からそれを請われたこともございません」
「当然だ」
変わらぬ苦味を声の底に滲ませながら、崔琰が応じる。
「だが平原侯は、ご自身の婚家となるこの家へ、家長たるわたしへ宛てて文を寄せてこられたこともない」
「それは、―――」
思いがけない指摘に崔氏は瞬きをし、しばし沈黙の淀みに落ちる。
叔父がその点について不満を持っていたとは意外だった、と虚を突かれたこともあるが、同時に、それは彼女自身がひそかに患ってきた思いでもあるからだった。
―――わたしたちは婚約者に過ぎないのだから、あのかたがわたし自身に文をくださらないのはむろん、当然のことだと思わなくてはならない。
でも、ご自身の婚家となる我が家へ、実質的な岳父となる叔父上へさえも、文を寄こされたとは聞いたことがない。
この一年、わたしの知る範囲であのかたが我が家へ接触をもたれたことは、いちどもなかった。
婚約自体はむろん、破棄されることもなくいまに至っている。
わたしは無事にあのかたのもとへ嫁ぐだろう。
だが、あのかたのいまのお気持ちはどうなのだろう。
あのかたのなかで、わたしはいま、何者なのか。
少しずつ広がりゆく不安の影から気をそらすように、崔氏は正座する膝の上で手を組み直した。そして、心のなかで首を振った。
わたしはあのかたを、ご自分の意思でわたしを伴侶としたいとおっしゃったあのかたを信じたのだ。
なすべきは疑いではなく、最後まで信じることだと、そう自分に言い聞かせた。
「―――恐れながら、叔父上」
努めて平静な声を出そうとする。が、わずかにかすれているのが自分でも分かる。
「それはおそらく、これまで曹家が
「だが、
「はい、ですが―――」
「平原侯は、そのうちの半分以上の期間は西征軍の陣中に身を置いておられたとしても、同行のご友人がたとは詩文のやりとりをつづけてこられ、平時であるいまはなおのこと、ご交流を繁く重ねておられるという」
「はい」
「酒席を設けては競作をたのしまれ、離別に際してはまた別の一首を贈られる。
あまつさえ、ときには
「まことに」
崔氏の声がまた少し小さくなる。
「まことに、そのように伝え聞いております。ですが」
「ならばだ」
崔琰の声に険しさがこもった。
「ならば我が家にも書簡ぐらいよこし、そなたの身に何か起こっていないかと―――いや、家中に変事はないか、ぐらいのお尋ねがあってもよかろう」
崔氏は大きく瞬きをし、反応を忘れたように静止した。
崔琰もまた、口に出してしまってから、その先のことばを見失ったようであった。
唐突でいながら、どことなく穏やかな沈黙が降りた。
「兄さん」
かたわらで杯を傾けていた崔林が、初めてぼそりとつぶやいた。
「あのかたのもとでおまえが大事にしてもらえるか心配だ、とひとこと言えば済むことじゃありませんか」
崔琰は口を一文字に結んだまま、何も言わなかった。
「まあたしかに、世に流布する平原侯の詩文を読んでみると、お若いうちから遊びすぎというか、お好きなものが多すぎやしないかという気もせんではないですがね。
それでも、二十一になられた今も決まったお妾を置いておられんそうですから、ああいう生まれのかたにしちゃ珍しい話じゃないですか」
「―――それは、そう言えぬこともないが」
崔琰は初めて肯首した。
「だが、たとえご自邸には婦人の影がなくとも、宴席や酒楼のような
「身分の隔たるご友人がたとの会合には、そういうくつろいだ場のほうが向くんじゃありませんかね。
それに日常のことをいえば、あのかたが日々お使いになる車馬や衣服は、丞相の―――お父上のご方針にたがうことなく、決して奢侈や浪費に流れたりはなさらんとも聞いています。
まあご気性が大らかなあまり、こだわりがなさすぎる面もおありなんでしょうがね。それでもやはり、良質なものを長くお手元でご愛惜なされるたちなんじゃありませんか」
「―――伴侶に関しても、そうあっていただきたいものだが」
秀でた両眉をまた少ししかめながら、崔琰は抑えた声で言った。
その手元の杯がいつのまにか干されていることに気づき、崔氏はひしゃくを傾け、ゆっくりと酒を注ぎ足していった。
浅底の杯に絶え間なく生まれる水紋を見ているうちに、ことばにならない温かい思いが、少しずつ胸を満たしてゆく。
「―――あの、
「酔いが回った」
夜気にあたってくる、と告げる代わりに崔琰は立ち上がり、姪からの呼びかけをそれ以上聞くこともなく、戸の外へと出て行った。
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