(四十九)訓戒

「なんのことだ」


 ようやく崔琰さいえんが、ゆっくりと応じた。


「ここのところ、いかめしすぎやしませんか」


「わたしは元々こういう顔だが」


「存じてますがね。伯女はくじょはたぶん、兄さんに祝ってもらえんことには一生この家に悔いを残してゆくことになりますよ」


「婚姻に反対を唱えたおぼえはない」


「同意と祝福とはまた別でしょう」


「―――あの」


 ふたりからは今でも伯女と呼ばれている崔氏が遠慮がちに口をはさんだ。


「厨房でお酒を温めてまいりますね」


「座っていなさい」


 崔林さいりんより先に、崔琰が制した。


「どちらにしても、そなたには言っておかねばならぬことがある。

 ぎょうに入れば、親迎しんげいの日まではほとんど装束や車馬の準備に追われることになる。いま話しておいたほうがいいだろう」


 崔氏は改めて背筋を正した。心臓がとくんと大きな音を立てた。

 いつかは受けることになるだろうと覚悟していた、曹植とのそもそもの馴れ初めに対する叱責かもしれないが、しかし、それだけのことではすまぬように思われた。

 この婚姻の本質にかかわる何かを話すために、叔父は自分をこの場に侍奉させたのだ。


「先月鄴へ凱旋なされてよりまもなく、曹丞相は人臣として最高の特例を天子より賜られたことは存じているな」


「はい」


「そなたも了解しているとは思うが、世に貴顕と呼ばれる家、それも丞相ご一家のような天下に並ぶものなき権門との婚姻は、あらゆる面で大きな意味を持ちうる。

 われわれの一族にとっても、この婚姻を知った世人にとってもだ」


 はい、と崔氏は恭しくうなずいた。やはり、このことなのだと思った。

 新婦となるむすめが媒氏なこうどを立てる以前から新郎と言い交わしていたなどというのは、崔家にとってむろん芳しからざる事態ではあるが、正式な婚礼によって一応の決着はつけられるのだから、ある意味で一過性の不祥事である。


 より切実に考慮しなければならないのは、むろん、このたび姻戚となる婿方が尋常の家ではないということであった。


 清河東武城の崔氏一門が従来通婚してきた家といえば、同じ県内か隣接する諸県の、これまた同程度に弱小な豪族に限られる。

 それはむろん、斉室のすえだった祖先が漢の初めに旧斉の地から清河に居を移して以来、婚家を贅沢に選択できるような家柄ではなかった、という事実が大きいが、しかしときには、郡や州規模で権勢を有する家々、いわゆる右姓と姻戚になる道がなくもなかったのである。


 だが、そういった機会に対してさえもこの家のひとびとはあえて肯首することはなかった。

 崔氏一門の父祖のなかで世に最も著名な人物といえば春秋斉の大臣崔杼さいちょだが、権力を専らにするあまりついには自滅に追い込まれた彼の生涯が、二系統に分かれた子孫のなかでもこの清河の崔氏一派にはとりわけ深刻に語り継がれてきたためかもしれない。


 だが、漢初以来ほぼ四百年にわたるつつましい営みを経て、このたび訪れた天下の丞相家との婚姻に、正面から異を唱える声は族内ではついに上がらなかった。


 崔氏にはそのことがふしぎな気もしたが、だが考えるまでもなく、このたび姻戚となる権門はおよそ尋常の権門ではない、ということがまずあるだろう。

 そのうえ当の新郎は、弱冠にして世に冠絶した文才を謳われ、さらには現時点で丞相の最愛の子と目されている青年なのである。

 それだけの条件が整えば、ざわめくような興奮が族人たちのあらゆる懸念をはらいのけ、彼らが長らく奉じてきた原則を曲げさせたとしても無理のないことであった。


 だがやはり、叔父上は、と彼女は思った。

 いまや宗主以上に崔氏一門の代表となりつつあるこの叔父だけは、やはり目先の僥倖ぎょうこうなどに心を奪われることはないのだろう。

 生来の沈着さと寡欲さをどこまでも保ちながら、私心なき目で将来を見据え、思惟を重ねておられるのだ、と思った。


「ゆえに丞相のご一族と婚姻を結ぶのは、それだけで世人の注視を浴びずには済まぬことだ。

 殊に、平原侯は」


 崔琰はゆっくりと言った。


「丞相のご子息のなかでもひときわ深いご寵愛を受けておられることはよく知られている。

 我々の勤める丞相府内ばかりでなく、およそ朝野に隠しようのない事実だ」


「はい」


「つまりそなたが巾櫛きんしつを奉じてお仕えすることになるおかたは、丞相のご子息がたのなかでもご長男に次いで特別な立場にあられるということだ。

 ややもすれば、同等の立場に限りなく近いともいえる。

 だが、さらに展望すれば」


 崔琰は少しことばを切った。崔氏の心臓がまた少し大きく鳴った。


「丞相のご寵愛はいまでこそ私情の枠内にとどまっているが、今後はさらに深まり、公の人事にまで影響が及ぶことも考えられる。

 それが何を意味するか、分かるか」


「―――丞相のご継嗣として、平原侯さまが立てられる可能性が無ではないということです」


「そうだ。だが、ご継嗣の地位に立つのは当然、ご長男の五官中郎将でなくてはならない。

 それが春秋の義というものだ」


「仰せのとおりでございます」


 崔氏は深く肯首し、迷いのない声で返答した。だが内心では、叔父のことばの揺るぎなさに、改めて襟を正された思いだった。

 それほどに恵まれた立場の貴公子と姻戚になれる―――崔琰の場合は実質的な岳父になれる―――ことを思えば、たとえ個人としてどれほど相容れずとも、世の道義や己の主義に背くことになろうとも、たいていの人間は浮き足立つか、野心の糸口のために奔走しようとするだろう。


(やはり叔父上は、どんな状況にあってもご自身ののりを貫かれるかたなのだ)


 目を伏せたまま、彼女はいよいよ深くこうべを垂れた。


「だが、世の中はそう考える者ばかりではない。

 すなわち、平原侯のご信任を得、ご恩愛を賜ることは次代の権力への近道だと邪想し―――ひいては丞相のご継嗣として自ら平原侯を推そうとする者すら、この先現れることがありうる。

 つまりは、丞相ご一家の内に、ひいては丞相府内においても党派が生じることになる。かつての袁家において生じたように」


「―――はい」


「ゆえにだ。平原侯の御意にかなうため、まず夫人であるそなたに取り入ろうとする者もいずれは身辺に現れよう。

 その者たちがそなたに面会まで乞うことはあるまいとはいえ、人を介しての礼物であれ書簡であれ、そういった阿諛あゆ追従ついしょうの徒には断固とした拒絶を貫くように。

 接触自体を避けるのだ。承知しているな」


「はい。決して、お言いつけに背くことはいたしません」


「そういった者たちはおおむね、当初は蜜のように心地よいことばと態度で近づいてくるものだ。それらを厳然と退けるのは容易なことではないが、心を強くして対応しなければならぬ。


 そしてできれば、そなたひとりの心構えに留めず、平原侯ご自身にも、いわゆる寵臣のような存在をお持ちにならぬよう、折々にお諌めしなさい。


 もちろんあのかたの、文才ある人々との身分にかまわぬご交際の多くは純粋なご友愛、ご敬意に基づくものだろう。そういったご交友関係を広めたり深めたりなさることに対しては、妻といえども決して僭越を申し上げるべきではないが、それでもやはり、できるかぎり気を配りなさい。

 ―――難しいところだが」


 実際難しいものだと言いたげに、崔琰は豊かに蓄えられたあごひげを長い指でゆっくりと梳き下ろした。


「まあ、そんなところだ。そう堅くならずともいい」


 姪の顔がよほど思いつめているように見えたのか、崔琰の口調はここにきて初めて、肉親らしい柔和さを取り戻した。

 眉目と同様気品に満ちたその声特有の、ひとの気持ちに寄り添ってときほぐす温かさが、周囲の居住まいを正させる厳しさに取って代わろうとしている。


 崔氏も思わず、緊張の糸を断たれるようにして自然な笑みをこぼしかけた。

 だがやはり、手放しの笑みというわけにはいかなかった。

 叔父は曹植との結婚をもはや動かしがたいものとした上で、今後の身の処し方に指針を与えてくれた。


 とはいえ叔父が曹植を―――曹植と彼女との婚姻を好ましく思っているかどうかは、全く別の問題なのである。

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