(四十八)叔父と族父
平原侯が清河の崔家に滞在していたあいだ、崔氏が終日そのそばで看病についていたことを族人はみな知っており、当時は
平原侯と彼女とのあいだに浅からぬ交情が芽生え、曹家からの求婚はその結果である、と想像するのは自然の帰結である。
とはいえ、
だが、崔琰という男は本来そのような妥協から遠い剛直の士であり、どこまでも原則に忠実な儒者である。
その彼が曹家からの求婚を受けたのは、ひとえに、無下に断れば一族全体の将来にも暗雲がさすかもしれぬという懸念のためであろう、ということは、崔氏にもよく分かった。
だがそれは、彼がこの婚約を祝福していることと同義ではない。
(叔父上はやはり、最後までわたしのことを許してくださらぬだろうか)
崔琰の居室へとゆっくり歩を進めながら、崔氏はこれまで胸の底に押し隠しつづけてきた問いをひとりくりかえした。
清河で過ごす最後の晩ではあるが、帰郷の目的は昨日までにすべて終えたので、崔琰は久しぶりに崔林とくつろぎながら碁盤を囲んでいる。そこへ
今回の帰郷には彼女の母親代わりである崔琰の妻も同行し、彼女もまだ起きているが、兄弟や従兄弟が互いの妻とみだりに顔を合わせるのはむろん奨励はされないので、こういったときに側で給仕をするのはふたりの血族である崔氏と昔から決まっている。
彼女自身もまた、叔父たちのそばでその語らいを聞くことを好むので、近年になって使用人の数が若干増えてからも、そして曹家との婚約が成ってからでさえも、この習慣が変わることはなかった。
「失礼いたします」
一礼をして室に入ると、崔氏は叔父たちの傍ら、碁盤の側面に向かって正座した。
丸みを帯びた酒瓶が崔林の座の近くに置かれ、それぞれの手元には、空になった素焼きの酒杯だけがある。
一族からふたりも中央官僚を出し、さらに列侯夫人を出すことになったいまでさえ、酒席や食卓の質素さは以前とさほど変わらない。
崔氏宗族全体はいまだ豊かとはいえないので、崔琰や崔林の
厨房から奉じてきた足の低い黒漆の
温めてまもない小型の酒瓶のほかには塩漬けの
改めて、静かな夜だった。
ふたりの叔父―――正確には叔父と、その従弟である族父―――は碁盤を囲むときは大体において寡黙だが、今夜は殊に静かだった。
黄色く濁った
ふと、碁石を掌中で数えるように黙考していた崔林が口をひらいた。
「少しは笑顔を見せてやっちゃどうですか、兄さん」
崔琰は碁盤に目を伏せたまま、何も言わない。
崔林は兎肉をひときれ口に運び、二言目の代わりに新しい石を置いた。
かちん、という小気味よい音が春冷えの室内によく響いた。
崔林はいま、崔琰と同じく丞相府の属官として曹操に仕えている。
若いころは親族の大部分から全く期待をかけられてこなかったにもかかわらず、清河崔氏一門のなかでは唯一、崔琰と並んで
崔林は当初、
官僚には秩石に応じて許される車馬の規定があり、任地への移動も原則的にはその規定に準じておこなわれる。
しかし、ただでさえ裕福ではない一族のなかでも崔林はひときわ貧しかったので、車馬はおろか供も連れず、単身徒歩で赴くほかはなかった。
鄔県は清河国内でないばかりか、そもそも冀州の内ですらない。西のかた
常識で考えれば、曲がりなりにも勅任官ともあろう者が自分の足で移動するような距離ではない。
同じ時期、崔琰は曹操により冀州の
前年の袁兄弟による投獄に際し、最終的には元同僚の
だが、袁紹のもとで短いながらも官僚生活を経験している崔琰は、
(仮にも一県の長が徒歩で赴任してきては吏民からも軽んじられ、以後の統治に差し障りが出るだろう)
とさすがに危ぶみ、従弟の赴任先が決まった当初、借金をしてでも身なりを整えてやろうと申し出た。
それを崔林は、いつもながらの平淡な調子で断った。
「ありがたいことです、季珪兄さん。
でもまあ、ないものはないんだからしょうがないですよ」
そしてその通り、自分で行李を背負い何足もの
崔林本人は崔琰とは対照的に、容貌に特徴らしい特徴がない―――あえて特徴を挙げるとすれば小柄で貧相な―――男であり、同僚からなかなか顔を覚えてもらえないこともしばしばである。
だが、「徒歩で州境を越えて着任した男」という逸話だけは、いつのまにか丞相府や他地方の官庁にまで流布するようになった。
崔林が初対面の官僚に自己紹介をするたびに、
「貴殿がかの御仁か!――――――何というか、よほど壮健な偉丈夫かと思っておったが、季珪どのとはあまり似ておられぬのだな」
「よく言われます」
といったやりとりが繰り返されている。
彼はそんな具合に万事気負いのない男であるが、欲が少ないだけに汚職や搾取とも無縁であり、在任中の陰はごく薄いながらも、転任して去った後に民から慕われる長官の典型というべきであった。
さらには若き日の崔琰に見込まれたとおり、本質を見据えて簡潔に事を遂行することに長けているので、行政処理能力も非常に高かった。
いまから六年前にあたる建安十一年(二〇六)、反逆者
その結果、彼は并州の片田舎から冀州府の主簿に抜擢され、さらには冀州牧の副官たる別駕従事にまで昇進した。次いで、崔琰にやや遅れて丞相府に遷り、現在の官である丞相掾属へと至ったのであった。きわめて短期間での栄転である。
彼はその官歴でもって、従兄の人物鑑定眼の高さをも如実に証明したのだった。
崔氏は少しだけ視線を上げ、族父の手指を見た。
筆よりは
美貌と威厳、そして直言ぶりだけでなく情の深さでも知られる崔琰に比べ、崔林は周囲の者への好悪やこだわりを示すこと自体が少なく、淡白な性質に見られがちな男である。
だが実際には、若い頃から人に見下されがちだったためか、弱者への配慮と善意を隠しきれないところがある。
民情に直接触れる県の長官という立場にあっても、それはおそらく変わらなかったに違いない。
崔氏はこの族父の、そういうところが好きだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます