(四十七)宗族

 ふたりの婚礼は、曹植の提言どおりの運びとなった。


 すなわち、彼が清河せいがからぎょうに戻ってまもなく、その父たる丞相曹操から崔家へ―――正確には、丞相府官僚として許都きょとに住まう崔琰さいえんのもとに媒氏なこうどが遣わされ、彼の正式な合意を得たうえで、婚姻に伴う一連の手順―――いわゆる六礼りくれいのその第一たる納采のうさいがおこなわれたのだった。


 それが建安十六年(二一一)春の終わりのことである。


 それから約四ヵ月後、いまだ暑気冷めやらぬ孟秋の月、曹操は自ら軍を率いて関中かんちゅう討伐へ赴いた。長子の曹丕を除いた諸子の大半および正室のべん夫人まで同行させるという大掛かりな遠征であり、曹植もむろん、かねてからの願い出どおりそこに加えられた。


 しばらく日数を経てから、崔氏が清河の宗家にて伝聞したところによれば、出征時期の彼は体調を崩していたそうであるが、鄴に留まってはどうか、という周囲からの諫めも断り、あくまで従軍を願い出たという。

 あの日、崔氏に向かって曹植自ら語った通り、自ら戦場に身を置くということに強い思い入れを抱いているのは、誇張のない事実であるようだった。


 遠征から帰還するまでは崔家との婚姻は延期する、というのが当初の彼の意向ではあったが、すでに妻帯すべき年に達している以上、できる準備は着々と進めておくべきだというのが周囲の見解であった。

 ゆえに六礼のうち納采から請期せいきまでの五礼は遠征軍出発までに終えられたが、請期において取り決めたのは「遠征が長期化しなければ来春に成婚する」という点のみで、具体的な日取りは保留となった。


 最後にして最重要の礼たる親迎しんげいを残して、曹植は父につき従い鄴を去っていった。


 なお彼はこのとき、鄴の留守役を命ぜられた長兄曹丕への親愛を詠んだ「離思賦りしふ」を著し、曹丕のほうは曹植を名指しにはしないものの、“老母諸弟”との別離を傷んだ作として「感離賦かんりふ」を書き下ろしている。


 後日、やはりだいぶ経ってからそのことを伝聞した崔氏は、

(やはり、根底では通じ合い―――想い合っておられるご兄弟なのだ)

と思った。


 曹植が清河に滞在していた季春のころ、曹操はすでに、司隷しれい校尉こういとして関中の鎮撫にあたっていた鍾繇しょうようをさらに西へと向かわせ、五斗ごと米道べいどうの教主張魯ちょうろが勢力を張る漢中への進出を試みていた。


 このたびはそれにつづく形で、鄴からの西方親征を決めたものである。

 が、企図するところは漢中ではなく、鄴から見てその手前にあたる関中一帯であった。


 すでに曹家の軍旗のもとに統一が果たされた華北中部・東部とは違い、関中一帯にはいまだ複数の軍閥が割拠している。形のうえでは曹操およびその代理人たる鍾繇に服しながらも、実際には独立志向を棄ててはいない。


 そこへ、鍾繇軍西へ動くとの報が入り、彼らはついにその真意を怪しんで結託した。すなわち、馬超ばちょう韓遂かんすいを中心に連合を成し、およそ十万の兵を以て曹家勢力に当たろうとしたのである。


 連合軍は関中の入り口ともいうべき潼関とうかんに陣を張って威を示したが、曹操はその精悍せいかんさを危惧し、配下の諸軍に対し軽率な攻撃を控えるよう言い渡した。そしてついに自ら軍を率い、反乱軍の鎮圧へと向かったのだった。


 地の利において遅れをとる面はあったとはいえ、連合軍側の不和と不信を衝いた策略が功を奏し、秋の終わりには中心勢力であった馬超と韓遂を西のかた涼州へ駆逐、実質的な関中平定を成し遂げた。


 次いでその余党たる楊秋ようしゅうを降伏させると、曹操は年内に軍を東方へ返し、明くる建安十七年(二一二)正月、鄴へと凱旋を果たしたのだった。

 むろん曹植も、意気揚々たる父のかたわらで無事な姿を見せていた。


 関中平定を遂げた曹操に対し、許都にいます天子は諸々の特権を賜った。

 すなわち、「贊拜不名、入朝不趨、劍履上殿(天子に拝謁する際に名を呼びつけられず、朝廷を小走りで移動せずともよく、剣を帯び履をはいたまま殿に上がってもよい)」という、漢建国の功臣蕭何しょうかの旧例に倣った最上級の待遇である。


 漢の丞相として、天下第一の輔弼ほひつとしてすでに中原に並ぶ者なき曹操の権威が、これをもって天子の名の下にますます補強され、名実ともに突出したものになることは、誰の目にも明らかであった。






 曹丞相の凱旋、そして彼が蕭何に準じる数々の特権を許されたという報せを、崔氏は許都から清河へ帰郷したばかりの崔琰と崔林の口から聞くことになった。


 曹植がこのたび鄴に帰還し、婚姻のしめくくりとなる親迎の日取りが両家の間で正式に決められたことで、主たる親族や祖宗の霊にその報告をなすべく、叔父たちも宗家へ戻ってきたのである。


 彼女にとっての家長であり父親代わりである叔父崔琰とはちがい、彼の従弟にあたる崔林は血縁からいえば彼女とは比較的遠い間柄だが、実際の親しさからいえばやはり叔父のようなものであり、後見のひとりとして彼女の婚礼に関わることになったのだった。


 親迎の礼自体は、鄴の崔家と丞相邸の間にておこなわれる予定であった。

 厳密に言えば、崔琰・崔林とその妻子はふだん鄴に居住していないので、親迎の晩に備えて鄴城内に仮住まいを設けることになる。


 周以来の礼法として伝えられる本来の親迎は、新郎が自ら新婦がたの家へ迎えにゆくだけではなく、その家のびょうへと招じ入れられ、祖宗の霊前にて父母からむすめをもらい受けるという手順を履むことに大きな意義がある。

 周制を忠実に再現するのであれば、曹植も本来ならば清河の崔氏宗家まで赴かねばならぬわけであった。


 しかし、華北における戦火はようやく終息を見たとはいえ、人心の疲弊と物資の欠乏がなお回復の途上にあるいまの時世にあっては、たとえ由緒ある貴門権門であっても、子女を結婚させるにあたり六礼を漏れなく履みおこなう家はいまや珍しくなっている。


 まして新郎側の家長たる曹操は、果断な軍事家であり豪放な文学者である一方で、財政に関しては万事において徹底した倹約家であり、家庭人としてもその方針は同様であった。

 なにしろ、自分のむすめを嫁がせるにあたってさえ婢女を十人以上伴わせることはなく、自家にも婚家にも無駄な出費がないよう取り計らうのが常であった。


 ゆえに、正室卞夫人の所生たる曹植の婚礼に関しても、ほかの五礼はともかく親迎は鄴城内で完結するようにというのが曹操の意向であり、彼の統べる丞相府にて人物の清廉さと節倹ぶりを基準に人事をつかさどる崔琰の側にも、むろん反対する理由はなかった。


 清河に戻ってきた叔父たちを迎えてからの崔氏は、まずは彼らに従って祖宗の祀りに参列し、ついで宗主を初め宗族の主だった者たちの間を回り、挨拶と告別を順々に済ませた。


 丞相家との婚礼に伴う行事とはいえ崔琰も崔林も長くは丞相府の席を空けられないので、彼らの清河滞在はさほど長く予定されていなかった。

 族人たちへの挨拶をひととおり終え、さらに彼女が個人的に親しくしていた族弟妹たちとささやかな行楽などで数日を過ごすと、あっというまに滞在の最後の晩を迎えてしまった。


 明朝になれば叔父たちとともに出立し、ときに水路を利用しつつ鄴へと南下しなければならない。そして鄴の仮住まいに居を定めた数日後には、丞相邸からの親迎の車―――曹植自らが御するその車が訪れることになっていた。






 静かな春の夜だった。

 前夜までのこの邸、そして崔氏宗家全体が祝賀の気分に浸りきっていたため、今夜は静けさがいっそう引き立つのかもしれなかった。


 一族の大半はこの結婚を祝福していた。

 昨年平原侯に十数日間の宿を供したとき、その面識を乞うべく積極的に動いた族人がひとりもいなかったのは事実であるが、いざ丞相家から正式な媒氏を送られてみれば―――すなわち、野合でも納妾でもなく、れっきとした正夫人として娶るべく婚姻を求められてみれば、族人の多くは名誉として受け取り、塢壁うへきに囲まれた集落内は素朴な喜びに沸き立った。


 現に、崔琰が崔林をともなって許都から戻った数日前以来、彼のもとへ祝辞を述べに訪れる親族は後を絶たなかった。

 ふだんは人々が黙々と労働や学問に従事するだけのこの邸内も、見違えるようににぎやかになったものである。

 彼らの多くはむろん、崔氏の父親代わりとしてこの婚姻を承諾した崔琰こそ、だれよりも晴れがましい気分に包まれていると信じていることだろう。


 崔氏自身も願わくは、そのように信じたかった。信じたいと思い、信じているふりもしてきた。

 だが実際には、曹家の立てた媒氏の来訪を受けて以来、叔父の態度にはいままで以上に峻厳な、近寄りがたいものを感じ取らずにはいられなかった。

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