(四十六)五官中郎将
彼が返事もしないうちに遠慮なく戸が開けはなたれ、ほぼ同時に冷たく冴えわたる声がひびいた。
「他家で長居をするものではない」
「あ、
(子桓、―――五官中郎将さま!)
驚愕に目を見開いた崔氏らの前に現れたのは、曹植によく似た、涼しげに整って聡明そうな眉目の―――けれど彼よりもひとまわり背が高く、彼よりも繊細さが
戻りが遅い、と言いたげな目で弟を一瞥しかけて、見知らぬむすめをその腕に抱いていることに気がつき、やや愕然としたように眉を
曹植は抱擁を解いて崔氏から一歩距離を置いたものの、兄の表情の変化にも気づかぬかのように、喜びをともにしてほしいとばかりに意気揚々と話し出した。
「兄上、こちらが先ほど移動中にお話しした、崔
そして呑気な表情のまま崔氏に向き直ると、
「子桓兄上だ。俺と一緒に戻ってこられた」
「―――それは、つまり」
「もともと、今回の領地視察が終わったら、帰路は清河の
だが兄上は思いのほか清河下りを早く切り上げられて、東武城のそこの津まで遡上してこられた。七日ほど前のことだ。
そのうえ俺がなかなか帰途につかぬものだから、業を煮やしていちど平原の県城まで赴かれ、俺が東武城に滞在していると知って家臣とともに拾いに来てくださったのだ」
「ということはつまり、先ほど我が家の門前までお迎えに来られたご一行のなかに、五官将さまがいらっしゃったのですか」
「ああ。だが兄上は貴家に気を遣わせまいと思って、あえて車から降りず―――」
「子建、おまえは何を考えている」
苛立ちというより呆れが勝ったような声が、ふたりの会話を遮断した。
「父上の幕僚の家人に手をつけるとは―――よりにもよって、あの厳格な崔季珪の姪に」
「兄上、ご安心ください。このむすめは次の仲春には兄上の義妹になります。
おそらくは、兄上のご協力しだいで」
曹植が兄と呼ぶその男―――すなわち曹丕は一瞬、何を言っているのだおまえは、と言いたげな顔になり、一切の馴れ合いを許さぬような独特の冷ややかさを眉宇から消した。無理もない反応だと崔氏も思った。
「要は、いろいろあったのです」
「説明の手間を惜しむな」
「いえ、本当にいろいろあったのです。またふたりで飲んだときにでもゆっくりお話します。
そうだ、ご協力願いたいというのはこうです。
鄴に帰ったら求婚のことをすぐ父上に申し上げて、その数日以内には許都の丞相府におられる季珪どののほうへ話がゆくようにしたいと思うのですが、もし季珪どののほうから異論が出たら、兄上、どうか俺のためにお口添え願えませんか。
兄上は以前、あの御仁を補佐役としておられたではありませんか」
「―――補佐を受けていた期間、俺はあまり、あの男のおぼえめでたかったとはいえぬ」
「狩猟に耽っておられたことですか。それでも俺の素行よりはめでたいと思います」
「あたりまえだ。比較になるか」
実に苦々しげな顔のまま、初めて曹丕が崔氏のほうを向いた。
「崔家のむすめ」
「―――はい」
「仮にも季珪の血族というなら、士を選ぶ目ぐらい養っておけ」
「兄上、それはあんまりです」
弟の抗議に曹丕は答えず、弟と弟の娶るつもりらしいむすめを、値踏みするようにしばらく見比べていた。そしてふたたび、崔氏に向かって問うた。
「いくつだ」
「―――この正月で、十七になりました」
「子建」
「はい」
「一年後には、おまえたちの身長差はもっと開いているのではないか」
崔氏が薄々予感していたことを、曹植の長兄はばっさりと言った。
彼女は今年まだ生日を迎えていないので、満年齢では十六歳である。
いまは三月だから曹植のほうも満年齢では十九歳であろうかと思われ、一応は成長途上かもしれないが、それでも
「そうとも限らない……と思います」
曹植のほうも、珍しく歯切れが悪くなっている。
「おまえ、季珪のあの堂々たる体躯を忘れたのか。叔父と姪といえば血は近いぞ」
「いや、覚えていますが、俺もまだまだ育ちざかりです。たぶん」
「どう考えても、そこのむすめのほうに伸びしろがある」
「
「―――あの」
崔氏がおずおずと口を挟んだ。
「わたくしの背丈はまだ若干伸びる、かもしれないですが」
声が小さくなりかけたが、勇を鼓してはっきりと言った。耳まで真っ赤になった。
「差がひらいても平原侯さまがお気になさらなければ、わたくしも気にいたしません。
お背丈にかかわらず、平原侯さまは平原侯さまですので」
「そうか。なら俺も気にしないことにする!」
曹植の表情は見る間に活気を取り戻し、ふたたび彼女を大きく抱擁しかけた。
だが、兄の前であることを今さら思いだしたのか、遅まきながら一歩後退した。
曹丕は眉をしかめるでもなく、感情のこもっていない視線をふたりに投げていたが、やがて崔氏ひとりへと焦点を合わせた。
「崔家のむすめ」
「はい」
「苦労するぞ」
彼女の返事を聞かずに、曹丕は
そして、来たときと同様に、音もなく戸口から出て行った。
その後に戸の外で生じた気配からすると、属官たちもそこに控えていたのであろう。
崔氏は呆然としたまま、扉の向こうに消えてゆく背中を見ていた。
あの冷淡な声と面持ちからするに、こんな
が、一瞬後、曹植の腕がひときわ強く、掛け値なしの喜びを込めて自分を抱きしめるのを感じた。
「よかった。兄上も、我々のことをお認めくださった」
「―――そうなのですか」
「そうだとも。兄上が味方になってくださるなら、おそらくうまくいくだろう」
「それは、誠にありがたいことですが、―――」
「いまや夫婦になったも同然だ」
「―――はい」
事の次第がいまいち掴めないながらも、崔氏はふたたび耳まで真っ赤になった。
この兄弟の間には、彼らにしか分からぬ何らかの機微があるらしかった。
そして彼女にもようやく、どうやらあれが、義兄となるひとの祝辞らしいと分かったのだった。
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