(二十五)薪を析くには

 崔氏の胸に滞る思念にかまうことなく、朝日は緩々と昇っていった。


(起きなくては)


 心中で自分にそう言い聞かせなくてはならないほど、起き上がることに怯えを感じた。

 客室で寝起きするあの青年を起こしに行きたい―――すべてを開け放したようなあの笑顔に早く会いたいという思いに駆られながら、それでいて二度と見たくないかのような、理不尽きわまりない思いだった。


 ようやく身を起こしてねどこから降り、たらいに汲んでおいた水で顔を洗った。

 牀の隣に置かれた背の低い卓の前に座り、銅鏡にかけた布を取り払った。いつもなら髪を整えて服を着替えるだけで身支度はほぼ終わるが、今日は髪をひととおり櫛けずっても、その鏡面をなお茫洋と見つめていた。


 二年前の正月、数え十五歳を迎えてこうがいを挿したときに、崔琰の妻と崔林の妻、つまり叔母と族母が初めて化粧をほどこしてくれた。

 華美になりすぎないように、軽く眉を描き頬紅と口紅をさすぐらいの簡素なものだったが、叔母たちは、おまえは色白だから紅がよく映えると言ってくれた。


 そして、その姿で崔琰と崔林に挨拶すると、予想どおりではあったものの崔林はいつもどおり水でのばした粥のように反応が薄く、崔琰はといえば「化粧をおぼえるのはいずれ婚礼の日取りが決まってからでよい」とのみ言った。


 それ以来、崔氏は叔父のことばを忠実に守りつづけ、一度も自分で化粧をしたことがない。

 だがいま、二年前のあの日を思い出した。


 叔母たちがああやって褒めてくれたのはむろん、育て親としてのひいき目であったと思う。

 それが分かっていながら、でも、と思う気持ちがいよいよ抑えがたくなった。


(でも、唇に紅をさしてあのかたのところに伺ったら、あるいは―――)


 そこまで思いかけて、崔氏は目を伏せた。

 いまだに何かを期待している自分がいるのが何より虚しく、救いがなかった。


(あのかたに想い人がいるいないというのは、そもそも、問題ではない)


 髪にふたたび櫛を入れながら、崔氏は割り切ったように独りごちた。


(男女が直接見知って心を寄せるなど、本来あってはならないことなのだから。

 家長が選んでくれた相手と媒氏を介して結ばれてこそ、婚姻の礼がまっとうされ、両家のみなが幸せになれる―――安寧を得られるのだから)


 そううなずいたとき、ふと、『詩経』斉風の「南山」の詩が頭に浮かんだ。


(薪をくには之を如何せん。斧に匪ずんばくせず。妻をめとるに之を如何せん。なこうどに匪ずんば得ず)


 これらの句に対し、崔琰の師たる鄭玄じょうげんは「此れ薪を析くに必ず斧をちて乃ちくするを言うなり」「此れ妻を取るに必ず媒をちて乃ち得るを言うなり」*と―――ほとんど経文の言い換えのような、ある意味で省略してもよいような箋を付している。


 だがそれだけ、おろそかにしてはならない点だと強調したいのだろう。崔氏はそう解した。


 男子が妻を娶る際は、間に媒氏なこうどを立てるのは当然のことだ。薪を割るのには斧が要るのと同じくらい、当然のことだ。

 まして、女子の側が自分から特定の男子を心に懸けて成就を思念するなど、非礼以前の問題であった。


「媒に匪ずんば得ず」


 そこだけ口ずさんでから、崔氏は突然に、薪を割りに行くことを思い立った。

 薪割りは一族の若い世代の男子ら、つまり族弟たちが当番で担うことになっているが、使われていない斧があれば、誰が割ってもべつに構わない。


 崔氏は女子にしては背が高いとはいえ成人男性並みの腕力に恵まれているわけではないが、まだ背丈が伸びきっていない族弟たちがするような力仕事は、日常的に手伝っている。


 身体を精一杯動かすことで―――とりわけ、曹植に会いに行く前に―――胸中にくすぶるものを少しでも摩滅させたかった。


 もとどりを結い上げるのは止めて、髪を後頭部にたばねてひとつに縛り、ほぼ筒袖に近い作業衣に着替えると、屋外へ出た。








 朝早いためか、果たして作業場にはまだ人がいなかった。

 女の手にも握りやすい小型の斧を選び、材木置き場からよく乾燥した薪をいくつか取り出した。ひとつずつ台に置き、斧を振りかざして割り始める。

 季春の早朝らしく空気はごく清涼であるにも関わらず、さほど経たないうちに、額に汗が滲み始めた。


(―――やはり、大変な作業だ)


 あらかじめ分かっていたことだったが、崔氏はしみじみと思い出した。だが、気分は少なからず落ち着きつつあった。

 意識を集中しながら肉体を労することで、本来の自分の立ち位置を思い出したようなものであった。


 そもそも彼女がいま清河の崔氏宗家に戻っている理由は、むろん、懐妊や服喪などで身動きがとれない族母たちの欠員を埋めて家政の助けとなるため、ということが第一であるが、そればかりではない。


 まだ本決まりではないものの、崔琰が婚約の話を進めてくれているということを、明言はされないものの彼女はおおよそ察していた。

 相手はおそらく、丞相府における崔琰の同僚にして親友、毛玠もうかい孝先こうせんの子息である。


 聞くところでは、崔琰が兄の遺児である崔氏を引き取って養育しているのと同様に、毛玠もまた兄の遺児を引き取り、実子のように情愛を注いで育てているというから、あるいはその甥も許嫁いいなずけの候補なのかもしれない。


 崔琰と同じく、毛玠もまた職務である人事採用の公明正大さによって衆望を集めているが、登用の基準を「清正の士」か否かに置くだけに、私生活における彼の清廉ぶりは崔琰のそれをも凌ぐものであると聞く。


 実際、笄を挿してまもない頃の崔氏が、許都にある崔琰の邸で一度だけ、叔母や従弟たちとともに毛玠に引き合わされ挨拶を交わした際も、丞相府の重職たる東曹掾とうそうえんという肩書とはおよそかけ離れた、驚くほど質素な身なりをしていた。そのことはよくおぼえている。


(でも、ご自分に厳しいかただとしても―――向けてくださった表情は穏やかで、お優しかった)


 流れつづける額の汗を袖口で拭いながら、崔氏はその日のことをよく思い出そうとした。

 毛玠とはさほど長くことばを交わしたわけではないが、叔父が彼と語らうようすを間近で見てみれば、心を許し合い深く尊敬し合う友なのだということが伝わってきた。

 叔父にとってそれほど大切な人に引き合わせてもらったということが、彼女にはうれしかった。


 そして、その晩毛玠が帰って行ったあと、叔父夫妻が話をするようすを遠目に見ているうちに、何となく腑に落ちたのだった。


 その後二年近く経っても正式な婚約が成立したわけではないが、それはもっぱら先方の親族に不幸がつづいたためであって、話自体が白紙に戻ったわけではないらしい。

 毛玠が立てた媒氏が崔琰のもとを訪れるのも、おそらく時間の問題だろう。


(―――できた)

 しばらく手こずった薪がようやく割れた。

 崔氏は新しいものを台上に据え、斧をふたたび構える。




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*『詩經』齊風・南山 ※【 】内は鄭玄注(鄭箋)

南山崔崔、雄狐綏綏。魯道有蕩、齊子由歸、既曰歸止、曷又懷止。

葛屨五兩、冠緌雙止。魯道有蕩、齊子庸止。既曰庸止、曷又從止。

蓺麻如之何。衡從其畝。取妻如之何。必告父母。既曰告止、曷又鞠止。

析薪如之何。匪斧不克。【此言、析薪必待斧、乃能也】

取妻如之何。匪媒不得。【此言、取妻必待媒、乃得也】

既曰得止、曷又極止。

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