(二十六)清公たる毛玠

 崔氏がいま許都きょとではなく清河の本家にいるのも―――少し前に一家で帰省した際に崔琰さいえんから命じられてひとりだけここに残ったのも、毛玠もうかいの家と正式に婚約を交わす時期が近づいたためではないかと、彼女はそう思っている。


 そのとき、叔母は珍しいことに夫に反論し、


「この子と一緒に暮らせる期間はあと限られているのだから、許都へ連れ帰るべきです」


という意味のことを言ったが、崔琰は、


「婚家では必ずしも、大勢にかしずかれて暮らすわけではない。自ら身を労することにふたたび慣れておくべきだ」


と答え、譲らなかった。


 質素倹約を旨としつつも、許都の崔琰の邸には、丞相府官僚として最低限必要な使用人はそろっており、叔母と崔氏にもひとりずつ、こまごました身の回りのことを世話してくれる婢女がいる。


 清河の地での―――農事の経営規模に対して使用人の数が十分ではないため、族人自ら足腰を労さねばならないうえに、老齢の者しか専属の奴婢を置くことが許されないこの崔氏宗家での―――暮らしとは大きな差がある。


 他方、毛玠の位階や俸禄は崔琰とほぼ同じだが、貧しい親族らへの振恤しんじゅつはより徹底したものだという。衣食の清廉ぶりからも予想できるとおり、邸に仕える使用人の数もまた、おそらく極端に抑えていることだろう。


 ゆえに、その家に新婦として嫁ぐということは、自分の髪や眉を自分で整えなければならないといったことに留まらず、井戸の水汲みや床磨きのような重い肉体労働の一部も自ら担わなければならない可能性が高い。


 毛玠が帰って行ったあの日の晩、叔母が叔父と話し合いながらいまひとつ乗り気でなかったようにみえるのも、おそらくはそのためかもしれない。


 実のむすめのように育ててきた姪を、そういう境遇に送り出したくはないのだろう。

 それは崔琰も理解しているに違いないが、それでも、姪の将来を託すにはこの親友の家を措いてほかにない、と考えたのだ。


 崔氏ももちろん、手足を汚し体力を消耗する労働が好きでたまらないわけではない。

 書物を読んだり琴瑟きんしつを奏でたりするだけで毎日を送れるなら、そのほうがずっと楽しいだろうと思う。


 だが、たとえ余裕のない暮らしをあえて実践している家であっても、叔父が自分のために選んでくれた家なら―――叔父の敬愛する親友が家長として治める家なら、きっと正しい家だと思った。

 そのことはいちども、疑わなかった。


 叔父夫妻や従弟らと離れ離れに暮らすのは寂しいことではあったが、嫁ぎ先にふさわしい心構えを今のうちに身に着けるのは大事なことだ、と彼女は思った。

 ゆえに、ひとりだけ清河に残るようにとの叔父の指示を、ためらいなく受け入れたのであった。


 そしてそのまま、あの青年に―――曹植に出会ってしまったことになる。


(また、思い出してしまった)


 思わず首を振ると、汗が地面に滴り落ちた。

 別のことを―――本来の身の丈にあったことを考えるべきだ。


(わたしが嫁ぐ家は、ほとんどもう、決まっているようなものだ)


 決まっているようなものだ、と口のなかで繰り返した。


(暮らしぶりはだいぶ質素かもしれないけれど、あのかたを―――毛孝先さまを義父とするなら、婚家で理不尽な目に遭ったり、誰かが理不尽な目に遭うのを見せられることはきっとないはずだ。

 あのかたの薫陶くんとうを受けたご子息、あるいは甥御ならば、きっとすばらしい殿方だ)


 崔琰は毛玠の邸をこれまで何度も訪ねているので、新郎候補となる青年を自分の目でじっくり吟味していることはまちがいない。

 叔父が自分のために見定めてくれた相手に嫁ぐのならば、きっと幸せになれると思う。それを疑ったことはない。

 ―――疑ったことはなかった。これまでは。


 その事実に気づいたとき、崔氏は思わず瞠目どうもくした。

 その動揺を振り払うために、斧をいっそう高く掲げて振り下ろした。


(毛孝先さまは本当にすばらしい、立派なかただ。

 余裕のある暮らしを謳歌しようと思えば許される立場なのに、清貧に甘んじておられるということは―――誰のことも踏みにじっていないということだ)


 我が家もそうあってほしい、と改めて思う。


 冀州きしゅうではほんの数年前まで戦乱が相次ぎ、土地財産や収穫物を失って零落する農民の数が、そして冀州よりも状況の悪い他州から逃れてくる流民の数が、飛躍的に増加した。


 崔家と同じ東武城県内の豪族のなかには、そういった人々の苦境につけこんで、あるいは何とか自作農をつづけようとするが貸付に頼らざるを得ない弱小農民の弱みにつけこんで、取り立てを意図的に厳しくし、期日内に支払えなかった者はすぐに自家の奴婢同然に扱うようにする、そういう家々もあるのだという。


 そして、利潤が生まれた暁には、市で奴婢として売られる男女を新たに買い入れ、自家の生産力を向上させようとする。


 崔氏の家も、耕地をはじめ家産の規模からいえば、貧弱なりに豪族の仲間ではある。ゆえに、近隣の農民から頼まれれば耕牛や種もみ等を貸し付ける側であるが、崔氏の知る限りでは返済もできるだけ情状酌量している。

 少なくとも、強いて落ちぶれさせるような悪辣なことはしていない。


 むろん、農事の経営方針を決めるのは宗主およびその同世代の高齢男性たちなので、彼らより二世代も下の崔氏が意見できることは限られているが、現在のようなやりかたをできるかぎり貫徹してほしいと思う。


 八年前のあの冬の日、阿姊が救出のために自分のもとへ駆け戻ってきてくれなかったら―――あのまま兵士たちに略奪されていたら、自分はまちがいなく、婢女として牛馬のように売られていた。


 他郡や他州など遠方に売られてしまえば、もう二度と生家へ戻ることはできず、過酷な環境で主人に酷使されるがまま、短命の生涯を終えたであろう。


 崔氏はあの経験を経て以来、邸に仕える奴婢たちへの心の持ちようが変わった。

 憐れみの対象ではなく、自分もそうなったかもしれない人々だった。

 彼らがこの邸で理不尽な目に遭わされていたら何としても止めよう。そう誓った。


 幼い崔氏が婢女にならずに済んだのは阿姊のおかげで、阿姊のような大人がそばにいてくれたのは、ただ幸運のおかげだった。


 その真逆に、ただ運が悪かった、というだけで奴婢の身に落とされた人々が、この戦乱の世には数えきれないほど生まれている。


(阿姊自身もそうだった)


 彼女はもともと儒生の家のむすめだったが、戦乱で父母を失い、家を維持するすべもなく零落したのだという。

 当初は崔琰の妻の実家に買われて小間使いをしていたのが、崔琰の妻が夫に引き合わせるべく実家から連れてきたのだった。

 もし夫が気に入れば、なかなか妊娠できない自分に代わって阿姊に男児を生んでもらう心づもりだったのであろう。


 崔氏がみる限り、阿姊は崔琰夫妻のもとで平穏を感じながら暮らしていたと思う。

 それはひとえに、崔琰が彼女に対し男としての関心を向けることなく、むしろ庇護者に近い意識を持ち、彼女を良民に戻し婿を探そうとすらしていたからである。

 彼のような例は極端だとしても、崔家全体の規律もそれなりに厳格であり、族人がみだりに婢女と関係をもつことは禁じられている。


 しかし風紀が緩い家の場合、奴婢の扱いも相応にひどくなる。

 阿姊のような若く美しいむすめがもしそのような家に買われていたら、正式な妾や御婢ぎょひ(性的奉仕を務めとする婢女)の待遇を与えられることすらないまま、都合のいい慰みものとして主人一家の男性たちから代わる代わる凌辱されることも十分ありえたのだ。


 崔氏自身は“凌辱”の具体的な内容を―――阿姊の遺骸を目撃したあの一瞬を除けば―――知らないまま、この歳まで生きることができた。

 だがそれは、他者から尊厳を否定され、自分が自分の身体の主であることを奪われる、絶望的な状況だということは理解していた。

 本来なら誰も、そんな目にあってはならないのだ。


 けれど、ある程度の富や権力を手にした人間にとって、自分より弱く選択肢がない立場の者を追いこんで意のままにするのは、容易なことである。

 それが可能な立場でありながら踏みとどまることが、難しいのだ。


 だが、ごく若い時分から“清公”(清廉にして公正)と称えられてきた毛玠のように、公私においてひたすら質実を貫く人間ならば、自分がどれだけ不便や欠乏を味わうことになっても、戦乱で行き場がなくなった不幸な境遇の人々を自家に隷属させて思うままに使役するようなことは、決してしないだろう。


(何も後ろ暗いことのない家に―――人々から仰がれ尊敬されるかたの家に嫁げるのは、幸運なことだ)


 崔氏のその思いは本当だった。

 婚姻は常に家を本位として考えるべきものだから、大事なのは自分の夫となる男性が誰かというよりも、自分の実家の姻族となるのがどのような家かという点である。


 その点も含めて、叔父は熟慮のうえで自分の婚約を定めようとしてくれているのだ。

 だからやはり、正しい結婚なのだ、と自らに言い聞かせた。

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