(二十四)鄴城の佳人

 しん夫人。曹植の長兄曹丕の正夫人にして、もとは袁紹の次男袁煕えんきの伴侶。

 そして、曹丕らの父であり天下の名花を摘み尽くしたといわれる丞相曹操からさえも欲されたという、伝説的な美貌の主。

 彼女が曹丕の妻となった経緯はきわめて劇的であり、ごく上つ方の内々の話でありながら、広く人口に膾炙している。


 いまをさかのぼること七年前の建安九年(二〇四)、袁氏の本拠地ぎょうは約半年間にわたる曹操軍の猛攻に耐え抜いた末、最後は内応によって陥落し、城内を占拠されることになった。


 崔氏はそのころいちども清河を離れたことがなく、まだ出仕していない叔父崔琰や族父崔林らとともに宗家ので暮らしていたので、政治も経済も文化もかつての洛陽を凌がんばかりに発展をつづけるいまの鄴の姿から当時の損壊ぶりを想像することはとてもできない。

 だが、叔父の同僚の話などを仄聞するかぎり、城内の半数以上が餓死に及ぶ、凄惨極まりない篭城戦だったと言われている。


 このとき、全軍を抜け駆けるようにして最初に袁氏の邸宅に踏み入ったのが、丞相の長男、曹丕そのひとであった。


 当時数えで十八だった彼は、姑たる袁紹の未亡人とともに奥に控えていた甄氏を見つけるや、この世のものとも思われぬその美しさに一目で魅了されたのだという。

 礼法どおりとはとても言えない手順ではあるが、父曹操は結局息子の希望を容れ、甄氏を娶ることを許した。


 あるいは別の巷説では、曹操は鄴を陥落させた当初全軍に無断進入を禁じたが、曹丕が一足先に甄氏を連れ去ったと聞き、「この戦はあいつのために勝ってやったようなものだ」と苦笑して、彼の妻帯を認めたのだともいう。


 曹植が療養生活の端々で嬉々として聞かせてくれた話に基づく限り、彼の長兄曹丕とは、冷静沈着で周りがよく見え、常に自制が効いて端正そのものの貴公子である。

 父親の不興を買うと分かっていてあえて情熱のほとばしりを優先させるような激しさを秘めている男だとは、崔氏にはとても考えられない気がした。


 だが、己の目指すものを確実に手にするために前々から綿密に手はずを整えていたのだとしたら、その疎漏そろうのない周到さは曹植が賞賛する冷静さに相通ずるものがあるのかもしれない、とも思った。


 甄氏の最初の夫袁煕はそのころ幽州刺史として単身で現地へ赴任しており、鄴陥落から約三年後の建安十二年、亡命先の遼東から首だけの姿で鄴へと送られてきたという。

 甄氏は戦乱のなかで品物のように身柄を扱われた挙句、前夫をいまの夫の父に殺されたことになる。


 崔氏は幼い頃にこの結婚譚を耳にして以来、特別な存在として生まれつくことの不幸を考えるようになった。

 そして甄氏の境遇を気の毒に思う一方、少しだけ気にかかる部分があった。


 すなわち、父母の選んでくれた伴侶を受け入れあるべき礼を踏まえて夫婦になるのではなく、ひとりの女としてひとりの男に出会い、鄴陥落の日に曹丕が身をもって示したような、一切の保身や逡巡すら忘れたかのような激しい情熱で所望されるというのはどんな気持ちがするのだろう、という疑問である。


 それはきっととても恐ろしいことだけれど、でも同時に、そのとき甄氏を襲ったのは恐怖ばかりではないのではないだろうか。

 そんな空想に思いを致すたびに、わたしは何を考えているのだろう、と崔氏はひとり目元を赤らめた。


 けれど、自分のなかに芽生えたその想像、どこか罪の匂いをまといながらも心を惹きつけるその想像を完全に断ち切ることはできなかった。


 アズサくしで曹植の髪を梳き、談笑し、もとどりの根元をこうがいで留めているいまも、彼女は甄夫人について考えている。


 だがその思いはこれまでのような同情やある種の憧憬に連なるものではなく、あたかも光の届かない深淵の底に生まれる波紋のような、ほの暗く行き場のない情念だった。








 その日、曹植のもとから下がり、自室でねどこに横たわったあとも、崔氏の胸から黒々とした波紋は去らなかった。


 あの玉環が甄夫人から曹植への贈り物であることは、疑いようがなかった。生来不羈奔放ふきほんぽうなはずの彼の心をあれほどに堅くとらえ、たおやかな桎梏しっこくのように留まりつづけてきたのが甄夫人の面影であることもまた、疑いようがなかった。


(―――そんな)


 崔氏は寝返りを打ち、自分の肩を抱いた。

 彼に想いびとがいることは最初から分かっていたはずなのに、その婦人の名を知ったというだけで、こんなにも息詰まり苦しくなるのが奇妙だった。

 が、その理由は自明でもあった。


 「その婦人」に名前がつけられていない間は、生身の人間だと思わずにいられたのだ。

 血も肉も通わぬ、彼の理想のなかだけで生きる神女ではないか、という願望にすがることができたのだ。


 そしてもっと奇妙なのは、かねてほのめかされていたとはいえ、曹植が礼教の禁忌に触れる思慕をたしかに抱いているという事実を知らされても、もはや崔氏にとってさほどの衝撃ではないことだった。


 彼をけがらわしいと思うより先に、彼の愛する婦人がこの地上に生きて呼吸をする人間であることのほうがよほど、いまの崔氏には耐え難いのだった。


(わたしは、どうかしてしまっている)


 眠れない目を強いてつむり、衾を頭から大きくかぶった。

 思い出すまいと思っても、曹植と出逢ったあの日のことが、一刻一刻と眼前に立ち現れるかのようだった。

 あの伸びやかな歌声の底に横たわる静かな憂い、あの渓流の冷たさにも気づかぬかのような足取り、そして、玉環を川底に投じんとしたときのいつ果てるとも知れぬ逡巡。そのすべては、ほかの誰のためでもない、甄夫人ひとりのためのものなのだ。


(あのかたが甄夫人に寄せておられる想いもまた、あの情熱―――かつて兄君が体現なされたのと同じ、己の体面も名誉も放擲ほうてきしたかのような、破滅と表裏になったあの情熱なのだろうか)


 そうに違いない、と崔氏は自分で自分の問いに答えた。

 ただ、曹丕の情熱がいまもどの程度保たれているかは定かではない。彼は甄夫人を妻に迎えてまもなく一男一女をもうけたが、結婚七年目になる今も、それ以降の慶事は聞こえてこないからだ。


 しかし曹植の場合はたしかに、その想いが初めて芽生えた日から―――おそらくは彼女を家族として迎えた七年前の十三歳の秋から今に至るまで、ずっと同じ温度で息づいているはずだ。


 昼下がりにふすまのなかでこの身を抱きしめた腕の強さを思い出すたび、そう確信せざるを得なかった。


(そんな想いを寄せられるのは、一体どんな気持ちがするのだろう)


 曹植の房より下がってからずっと、崔氏はこの自問を繰り返してきた。

 自分では答えを出しようのないことが分かっている問いだった。それでもやめることができなかった。


 そして問いを重ねるたびに、胸の奥深くに漆黒の穴が刻一刻と広がりゆくさまを―――かつて会ったこともない、これからも会うはずのない婦人へのことばにできない思いが募りゆくさまを、ただ直視せざるをえなくなった。


 それから夜が明けるまでに、何度となく捻転しては寝付けなかった。夜明け前にようやく訪れたまどろみは、短い夢を運んできた。その夢こそはまさに、胸の内の黒い思いが形をとったかのようだった。


 そこは遠く離れた鄴の城内の一角であったろうか、左右の少し離れた場所に活気のある店舗が立ち並ぶひらけた空間で、あたかも公開処刑、棄市の場を思わせた。


 突然、顔を布で隠された婦人が罪人のように裸足で引き出されてきたかと思うと、人々が遠巻きに石を投じ始めた。


 禽獣のような女だ、と誰かが言うと、みなが口々に叫び始める。そうだ、前夫が生きていながら二夫にまみえた汚らわしい女だ。前夫の仇の寝所にはべる女だ。何より、義弟からの思慕を拒もうともせず、己を偲ぶ品を与えるような女だ。まさに禽獣の禽獣たる所以ではないか。


 崔氏自身はどこにいてこのことばを聞いていたのか。あるいは自らもこの罵倒に加わっていたのか。それは分からなかった。


 明らかなのはただ、目が覚めたときに心も身体もどうしようもなく重くなっていたことだけだ。

 なんと汚らわしい。浅ましい。そう叫ぶ衆声のなかに、自分の声があったのではないか。そう思い至ると、ひとり両手で顔を覆った。


(―――浅ましい)


 浅ましいのはむろん、自分自身だった。

 曹植からあれほどに慕われ愛されているという身の上がただ許しがたいばかりに、礼教を盾に振りかざして、見も知らぬ甄夫人を貶めずにはいられなかった。


 室内には自分しかいないと分かっていても、顔を上げるにはまだ、時間が必要だった。

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