(二十三)君と新婚を結び
曹植が自然に目を覚ましたのはそれから二刻ほどのちのことだった。
彼の髪を整えて
「今日は、
「え?」
「香りだ。いつもはつけていないのに」
ああ、と崔氏は自分の襟元を見た。彼が首筋に顔を近づけたのはそのためだったのだろうか。
香木や香料はむろん
椒は、花弁だけでなく実や葉や樹皮からも佳香を得ることができる。
「祭日ですので、禊のあとで身に携えました」
「そうか」
「お嫌いですか」
「いや。―――だがそなたは、何もつけぬほうがよい。せっかく
曹植はいつもの
崔氏はまなざしを伏せ、礼を述べた。
先ほどとは別の理由で、心臓の音が不規則になり始めていた。
椒は侵してはならない香りなのだ、と思った。
「そういえば、
いまさらながら、彼女が衣を改めていることに気づいたような顔で曹植は尋ねた。
「はい、近在の者はみなあちらへ参ります」
「たしかに、あれほど清澄な流れで身を浄めれば、災厄や疾病もよりつかず、一年の汚穢など容易に消え去りそうだ。
そなたのように身を持することのたしかな娘よりも、俺こそ赴くべきだった」
曹植は自嘲を込めるでもなく、真摯に惜しんでいるような口調でそんなことを言った。ふと、意識してかせずにか自らの懐に手を入れた。
崔氏はそこから目を離すことができなかった。
あの玉環に触れようとしているのかどうか、それだけを知りたかった。
「あの小川も、清河に通じているのだったな」
しばらく沈思していたかと思うと、曹植の声はまた明朗さを取り戻した。
「ええ、このあたりの水流は大抵あの河に通じております。
そろそろ増水が始まるころですが、平原侯さまがみなさまがたと清河沿いに北上されていたころ、水陸の旅はご平穏でしたか」
「ああ。さすがに川面の風は冷たかったが、天気は崩れなかったし、見晴らしはよくなかなか快適だった。
崔氏は我知らず、曹植に釣られるように口元をほころばせた。このかたが快活になられたのは、清河から兄君を―――官職でいえば五官中郎将さまを連想されたからなのだ、と分かったからだった。
ここ数日の介添え生活を通じて、曹植は家族や友人の話をするのがとても好きらしいということを知った。
なかでも子桓こと長兄
曹植がどれほど素朴に長兄を愛しているかは、これまで聞かされたところで十分に把握していた。
「五官将さまは、―――兄上さまは
ご道中で詩題にも盛り込んでおられたのでしょうか」
「ああ、おそらくはいまも船縁に佇み、同伴の呉季重(
俺が船旅の途上で告別申し上げる前にも、すでに何首か書き上げておられた」
「まあ。お伺いしても、よろしゅうございますか」
黄河や長江の規模には及ばぬとはいえ、清河も河北では長大な流域を誇る代表的な河川のひとつであり、一口に河畔といってもさまざまな眺望を挙げられる。
東武城県内の流域にあるささやかな
崔家の
一日のうちでもとりわけ黎明時、岸を発する船の残す航跡が朝靄に塗り込められながら音もなく立ち消えてゆくさまを、叔父のふところに抱えられながら岸辺から眺め、所用で旅立ってゆく船上の親族に手を振りつづけるのが、小さいころの崔氏は好きだった。
三弟たる曹植や父親曹操の作品があまりに華々しく世に賞賛されるため影が薄れがちだが、曹丕もまた、彼らと同じく鄴の文壇に確固たる地位を築いていることは、かねてから崔氏も聞き知っている。
幼時からよく目に馴染んできた景色が一流の詩人の手でひとつの作品として昇華されるのは、実に得がたい機会ではないかと思われた。
「そうだな、―――たとえば、こういうのがある」
少しだけ記憶をたどるような表情をしてから、曹植は言った。
「東武城に至る前の船着場で、船曳きの若い男とその妻を見かけられたときの歌だ。
ふたりはつい半年前の秋に結ばれたにもかかわらず、夫のほうは徴兵が決まったらしかった」
その情景を反芻するかのようにしばらく目をつぶると、朗詠を始めた。
君と新婚を結び
宿昔にして
涼風 秋草を動かし
冽冽として寒蝉 吟じ
蝉 吟じて枯枝を抱く
枯枝 時に飛揚し
身体
身の遷移するを悲しまず
但だ歳月の馳するを惜しむ
歳月 窮極無く
会合
願わくは双の
翼を
「―――美しいこと」
末句の余韻のなかで崔氏がつぶやくと、曹植もうなずいた。
「道が分かたれてなお慕いあう夫婦の姿が、いまにも眼前に浮かぶかのようです」
「そうだろう。兄上は、こういった繊細な叙景を実に得意としておられる」
「まことに、御身の上に起こった悲運のようにさえ聞こえます。
まるで五官将さまご自身が、ご夫人とお別れになるような」
「そのとおりだ。兄上のこまやかな修辞ならではの臨場感というべきだな。
が、
言いかけて、曹植は唐突に沈黙した。
兄の作品への批評を控えたこと自体は奇妙ではなかったが、黙った後の表情が、明らかな動転を押さえ込もうとしていることが奇妙だった。
(――――――ああ)
そのとき、崔氏はすべて腑に落ちたような気がした。
礼法に触れる、と告げたあの日の寂しげな目の奥。つい先刻の、
それらひとつひとつがある婦人の姿に、鄴城の伝説的な佳人の姿へと
ああそうか、そうなのだ。
崔氏は自分の手の甲を見つめた。
そしてまた、彼の髪を梳く作業に戻った。
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