◆覚え書き◆ 曹家の婚姻関係
「緒」は前回が最後になります。お読みいただいた方々、ありがとうございます。次の「清河」からが実質的な本編になります。
ここでは筆者の覚え書きとして、史書にみえる曹操の家(曹魏宗室)とその姻戚について整理してみたいと思います。
下記の内容は、拙作をお読みいただくうえで必須の情報という訳ではありません。拙作の展開も、下記に引く史書の記述にそのまま準じるものではありません。
曹植周辺に関しては、あらすじとキャッチコピーから連想される以上のことはこのページには書いていないつもりですが、ネタバレの気配が苦手な方はページを飛ばしてください。
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下のリンク先の図は、金文京先生の『中国の歴史04 三国志の世界』(講談社、2005年)収録の図版61「三国時代の政略結婚関係図」(2020年刊行の学術文庫版ではp187)を土台としたうえで、若干の箇所を付加・省略して作成したものです。曹魏宗室の婚姻関係について分かる範囲で書き出しましたが、漏れや誤認がありましたらご指摘いただけるとうれしいです。なお、正室が複数いる場合はおおむね前妻のみ書いています。
曹家の婚姻関係図
https://img1.mitemin.net/lt/c2/led0dwj055f6j9ay7u1jc2c53330_12b8_fu_h0_42bt.jpg
追記①:上記関係図では、夏侯淵が曹操の姉妹と結婚したことになっていますが、夏侯淵の妻こと「太祖内妹」は、どうやら曹操からみて母の兄弟のむすめにあたる女性でした(なので丁姓のはず)。文字だけで恐縮ですが、ここに訂正いたします。
追記②:作図した後で気づきましたが、徳陽郷主(曹爽のおばで夏侯玄の母)と夏侯尚の婚姻が早くも漏れていました……すみません。
追記③:「婚約未遂」のカテゴリで、曹操がむすめを娶わせようと思ったものの辞退したというエピソードをもつ早熟の英才・周不疑が漏れていました……重ねてすみません。
人名は、下記の基準で色分けを行いました。
黒:曹家、夏侯家、曹家の養い子
青:結婚以前から曹家の姻戚にあたる人物
緑:結婚時点で曹家以外の軍閥/勢力に属する人物
赤:曹家の幕僚/臣下
(橙:どれにもあたらないと思われる人物。虞氏の家は本来赤字かなとも思いますが、父兄の名も官名も不明なので、さしあたり外しました)
これを前提としたうえで、この図から読み取れる曹家の婚姻関係の傾向を考えてみたいと思います。
黒字については多言は不要かと思います。曹家と夏侯家はほとんどひとつの家のようなものだと一般に考えられています。
ただ、よく知られている「曹操の父曹嵩は夏侯氏の出身であり、曹操と夏侯惇は従父兄弟である」という記録は正史の本文にはなく、裴注において「『曹瞞伝』と『世語』ではそのように言われている」とされているのみであり、さらにこの二書は両方とも史書としての信憑性が低い(特に前者は曹操を貶めるために書かれたような書物なので、「常識ではやらない他姓養子縁組をやった非常識な家の子」とあえて捏造する可能性は十分にある)とさんざん言われていたりします。
ですが、曹家も夏侯家も沛国譙県の人間として、いまの日本でいえば市町村レベルでの同郷人であることはたしかなので、たとえ血のつながりがなくとも、数世代にわたり血族同様に親しいつきあいをするうちに、ほとんど同族視するようになったことは十分ありえたと思われます。
また、曹家と夏侯家の血縁には言及していない陳寿も、伝末の評においては
「夏侯氏と曹氏は代々婚姻を結んでおり、ゆえに夏侯惇、淵、仁、洪、休、尚、真らはみな昔からの股肱として、当時にあって重んぜられ、君主の補佐として覇業を助け、みな功績をあげた(夏侯・曹氏、世為婚姻、故惇・淵・仁・洪・休・尚・真等並以親舊肺腑、貴重于時、左右勳業、咸有效勞)」
『三国志』巻九 諸夏侯曹伝
と記しており、これを見ると曹操の同世代である夏侯惇や夏侯淵の時点ですでに代々姻戚だった、というふうに読めるのではないでしょうか。そうなると図の文字の色は青にすべきかもしれませんが、正史では曹氏と夏侯氏が併せて立伝されているという動かせない事実からすると、夏侯家の曹家に対する運命共同体ぶりは他の姻戚の非ではない、つまりもうほとんど同族である、という認識が、資料の取捨において極めて厳しい歴史家陳寿の念頭にもやはりあったのではないかと思われます。
次は青字です。これもよく言われることですが、曹家はすでに姻戚になっている一族の子女と二重三重に婚姻を結ぶのが好きなようです。もっともこういった、父方の(すなわち同姓の)親族との結婚は絶対にしないが、母方の親族に対しては婚姻を繰り返す、少なくとも繰り返しをタブー視しない、という傾向は当時の中国社会において決して特殊ではなかったように思われます(後漢王朝の皇室からして、初代皇后を出した南陽陰氏や功臣の裔である南陽鄧氏から重ねて皇后を選んでいます)。ただし、この場合の母方とはふつうは父の正室の実家であり、必ずしも自分の生母の家を指さないようです。
ひとつの家と二重三重に結束を強め、氏族単位で信頼できるパートナーをつくることは、婚姻関係をむやみに拡散するよりもいいことだ(財産の分散も防げるし)、というような考え方があったのかもしれません。
なお、図中では青字にしてしまいましたが、当初から姻戚だったという確証のない人物がふたりいます。曹操の最初の正室丁氏と、彼の女婿になりそこなった丁儀です。
丁氏については卞氏の伝にちらっと言及があるだけで本貫さえ分からず、曹操の父曹嵩の正室(曹操の生母でなかったとしても、礼法からいえば正式な母親)と同姓である、というだけで青字にしてしまったのですが、曹操が丁氏を娶ったのは遅くとも卞氏を納れるより前であることはたしかです。
その時点では曹嵩は生きているので、丁氏はほぼ間違いなく曹嵩が自分で選んで曹操に娶わせた女性であり、父が息子のために選ぶ妻というと、やはり同郷か近郷の氏族で、すでに自分と縁が深い家(妻の実家)ではないのかな……と勝手に推測いたしました。
結局のところ曹嵩・曹操父子それぞれの正室丁氏の出自はよく分からないのですが、曹魏関係者のなかで、丁という姓で本貫が明記されている人物は何人かいます。
丁斐とその息子丁謐、そして丁沖とその息子丁儀、丁廙兄弟です。
この両父子とも本貫は沛、と郡国レベルまでしか分からないのですが、裴注に引かれる『魏略』において丁斐は「当初曹操につき従い、曹操は彼が同郷なのでとりわけ大事にした(初,斐隨太祖、太祖以斐郷里、特饒愛之)」、同じく丁沖は「むかしから曹操と親しくしていた(宿與太祖親善)」と言われているので、かなりの確立でふたりは同じ土地の同じ一族の同じ世代に属する人物であり、曹操との親密さも同じくらい深かったものと推察されます。
ここで気になるのが丁沖のほうの「宿與太祖親善」の「宿」という表現で、この語感からすると「曹操の若いときから」というだけでなく「何代にもわたり」と読めないこともない気がするのです(超フィーリング)。前の世代からつきあいのある丁氏、といえばもちろん曹嵩の正室とその一族が連想されます。とすると、丁斐や丁沖は曹操の母方の姻戚であり、丁沖の子である丁儀も、曹操のむすめ清河長公主との縁談が持ち出される以前から曹家の姻戚だったということになります。強引な論法です。
しかしながら、筆者が丁儀=もとから姻戚説を推すのにはもうひとつ理由があります。丁儀が娶りたかったのに娶れなかった清河長公主は結局、夏侯氏に嫁いだことです。よく知られているようにこの縁談の経緯は、
「曹操は(おさななじみ丁沖の子)丁儀がりっぱな人物だと聞き、いまだ会見もしないうちから、まなむすめを嫁がせようと考えた。そこで曹丕に意見を訊くと、『彼は目の具合がよくありません。女性は外見を気にするので、姉/妹はきっと喜ばないでしょう。伏波将軍(夏侯惇)の子夏侯楙に嫁がせるのがよろしいと存じます』曹操はそのようにした。
(聞儀為令士、雖未見、欲以愛女妻之、以問五官將。五官將曰、「女人觀貌、而正禮目不便、誠恐愛女未必悅也。以為不如與伏波子楙)」
『三国志』巻十九 陳思王植伝 裴松之注所引『魏略』
と曹丕が横槍を入れた形で収束したとされますが、ここで曹丕がまず夏侯楙を挙げたのは、第一には親しい友人だったから(本によっては、「本人の目の具合が悪いよりは本人の父親が片目であるほうがまだいいではありませんか」というジョークだった、という解釈もあり)、ということがあるかと思いますが、それと同時に、丁儀の所属する沛国丁氏は曹家にとってもとから姻戚なので、ほぼ同じ枠内の氏族といえる夏侯氏のなかから適任者を選んだ、という見方もできると思うのです。
丁儀自身も、曹操死後に曹丕に迫害され処刑が迫っていた時期、曹丕と親しい夏侯尚に助命を嘆願し夏侯尚も心を動かされているように、沛国丁氏は曹氏だけでなく夏侯氏とも近縁だったのではと思われます。また、これに鑑みると、上の追記①で書いた夏侯淵の妻丁氏およびその伯叔母である曹操の母丁氏もやはり丁儀と同じ沛国丁氏だったのでは?という可能性が補強されます。
そもそも、いくら古代中国でも、夫婦となる本人同士が事前に会わないのはともかく、父親が婿候補に会わないうちから「むすめを嫁がせるのはこいつだ」と決めるというのは結構ひどい話です。曹操の周辺には、信頼する幕僚の子弟としてすでに会ったことのある立派な若者がたくさんいたのではないか、とも想像されます。それでも曹操が彼らのなかから選ばず、「愛女」とまで書かれるほどの大事なむすめを見知らぬ男にくれてやろうとしたのはなぜなのか。
父上の配偶は沛国丁氏であり、自分の配偶も同じである/あった。むすめは(生母は劉氏だが)沛国丁氏を母として生まれたのだから、その配偶はやはり沛国丁氏のなかから選ぶのが当然である、という前提が曹操のなかにまずあり、そのうえで丁儀の話を耳にして心を決めた―――そう推測はできないでしょうか。
丁儀はなんというか、ふしぎなひとです。『私家版 曹子建集』の管理人さまがこちらの文章(http://sikaban.web.fc2.com/denteigi.htm)で大変綿密に考察されていますが、丞相府のなかで相当きわどい攻撃的な立ち回りをしているのに、曹操からきつく咎められたことはないという……魏王の後継者選びにおいて曹植に加担しつづけたことで、最後には即位後の曹丕に一族の男子ごと誅殺されてしまうわけですが、正直、それだけ敵をこさえておきながらよくそこまで生き延びたよ、いう驚きがなきにしもあらずです。たとえ女婿にはなれなくても、曹操から身内扱いされることは変わらなかったから、彼も好き放題やってしまったのでは……とつい想像してしまいました。
次に緑字の人々ですが、これはおおよそ説明不要の政略結婚ということで飛ばします。すみません。
一応このなかで、当初から双方の家長が合意しておこなわれた政略結婚、とは呼べないものを挙げると、袁家軍閥から曹丕にさらわれた形の甄氏と、外で薪を拾っていたら張飛にさらわれて嫁になった、という小説のような来歴の夏侯淵の姪でしょうか……十三、四という歳が不憫です。彼女は夏侯覇の従妹、という立場のほうがよく知られているかもしれません。
最後に、赤字の人物です。調べた限りでは、曹操の(純粋に他氏族といえる)幕僚で彼の姻戚になった人物はふたりしかいません。荀彧と崔琰です。図のなかでは邴原も赤字ですが、彼の場合は自分から縁談を断ったのと、そもそも曹操から持ちかけられた縁談は亡児(曹沖)と邴原の亡女との結婚、つまり冥婚であったことからして、正式な姻戚とも姻戚候補とも呼びがたいかと思われます。
残るはやはり荀彧と崔琰です。このうち荀彧は息子のひとり荀惲に曹操のむすめを、もうひとり荀粲に曹操の従弟曹洪のむすめをもらっており、夏侯家ばりに曹家との関係が深いです。このうち曹洪のむすめのほうは荀粲が自分で求めたっぽいですが、「荀彧の息子ならくれてやろう」という判断がまず曹家にあったことはまちがいありません。
まさに寵遇ですが、荀彧はいうまでもなく曹操の家臣のなかで功績も信頼関係も別格のひとなので、「曹操は政略結婚でなければ身内との結婚が好きらしいのに、なぜ潁川荀氏の彼なのか?」などという疑問を挟む余地はほとんどありません。
挟む余地があるのはこちらです。清河出身の崔琰です。
『三国志』巻十二崔琰伝によれば、曹植の妻は正確には崔琰の兄のむすめ、とありますが、その兄については名も官職も記されていないので、曹操のもとに出仕していないと思われます。そうすると、曹操としてはやはり「崔某のむすめ」ではなく「崔琰の姪」という認識で彼女を曹植の妻として迎えた、と考えるべきと思われます。
本伝を読む限り、崔琰は荀彧とは活躍の領域が違いますが、文官とくに人事官として有能な上、人格者としての評判が非常に高い人物であり、立伝の順序や伝末の評語からすると、ほぼ一時代しか経ていない後世の人陳寿もきわめて高く評価しているように見受けられます。そして曹操自身も、「太祖亦敬憚焉」とまで書かれるほど、崔琰に対しその他大勢とは別格の敬意を払っていたことはたしかだと思われます。
ですが、それでも崔琰が曹操にとって「数ある家臣のなかでどうしても姻戚になりたい」と思うような相手かというと、だいぶ違う気がします。別格な存在感、といっても荀彧の別格ぶりには及びません。詳しくは本伝を読んでくださいとしか申し上げられませんが、家格とか出身地とか以前に、曹操と崔琰はもとから肌合いが違う感じです。少なくとも、私生活においてまで交流を持ちたい相手だとは互いに思っていなかっただろうと推察されます。
念のため家格についていえば(後漢末時点では、家格とか門地というほどのランキングは形成されていなかったようですが)、北朝から唐代にかけての超セレブ氏族清河崔氏も、後漢末のこの時期はいわば勃興期で、清流の名門潁川荀氏の比ではなさそうです。近年の三国志ドラマ等だと清河崔氏は曹植の姻戚になる前から冀州随一の名門として言及されることが多いような気がしますが、シナリオ上必要なのでそう設定されている、ということかと思います。
肝心の曹家の出自はちょっと特殊ですが、ふつうに考えればこの時期(崔琰が曹操に出仕した建安九年以後)の曹家、すなわち中原の覇者の家に嫁ぐには臣下たちのなかでも第一の名門、少なくとも汝南袁氏に嫁いでいた曹丕の妻甄氏レベルの名門である必要はありそうです。にもかかわらず、清河崔氏がそういう家だったという記録はありません。曹操から冀州別駕従事として登用された時点で、崔琰個人は冀州屈指の名士と見なされていたかもしれませんが、彼の家自体はどうも無名です。この氏族の概略については後日ページを改めて述べてみたいと思います。
ではなぜ曹操は、曹魏政権にとって別格に偉大な荀彧の家にさえ、政治的には重要度の低い女児しか与えていないのに、嫡出の男児(建安九年以前に卞氏は正妻に昇格)の配偶として崔琰の一族のむすめを選んだのでしょうか。それも、曹植が崔氏を娶ったのが通例どおり成人前後、つまり平原侯になった建安十六年ごろだとしたら、その時点では曹家の神童こと曹沖はすでに亡くなっているので、曹植はいまや曹操にとって、少なくとも心情的には最も重要な地位を占めていたと考えられるのです。
それほどに大事な息子をなぜ、累代の姻族でも挙兵当初からの家臣でもない崔琰の家と縁づけたのか。
筆者はどうしても分からなかったのですが、ある日後漢の地図を見ていたら、曹植にとって最初の封地である平原郡平原県と崔琰の本貫である清河(甘陵)国東武城県はほぼ隣接していることに気がつきました。そこで彗星のように閃いたのです(妄想が)。
曹植が封地への行き帰りに自分で見初めたんじゃね?と。
もちろん、黄初初年、曹丕の即位直後に列侯の封国赴任が義務づけられるまでは、曹家の子弟はある土地に封ぜられてもそこへ住むどころか自ら足を運ぶ義務もなかったわけですが、逆に足を運ぶことが禁止されていたという記録もありません。 実際の統治は相に任せるとしても、気が向けば行ってみる、ぐらいのことはしていたのではないかと思うのです。
そして崔氏のほうも、これが崔琰のむすめであれば彼が勤務する鄴で一緒に暮らしている可能性が高いわけですが、仕官していない父親を持つとすれば、宗族とともに清河東武城で暮らしていたと考えるのが自然かと思われます。
もちろん、いくら崔琰の登場以前はほぼ無名の家だとしても、仮にも冀州府/丞相府官僚を出す家の女子がよその男とばったり知り合うというのは大いに無理がありますが、夏侯氏の令嬢が自ら薪拾いに出かけてさらわれるフリーダム乱世ならば、何があってもおかしくないんじゃね?とも思うのです。
そして鄴に帰った曹植は曹操に、気になる子がいるんだけど、とか言い出します。ふつうの良家のぼんぼんなら多少は恥じ入ったりためらったりすると思いますが、大体においてロックに生きてる平原侯はそんなことしません。前進あるのみです。そして父親のほうも、ふつうなら馬鹿者の一言で終わらせるところが、曹植はとりわけかわいい息子だし、曹丕には前例をみとめちゃってるし、そもそも自分自身が好きな女性を正室に据え直したりしているので、ついに許しを与えざるを得ませんでした。
ここにとうとう、臣下とは基本的に通婚しないという曹家の掟は破られたのであった……!という妄想です。
ついでですがその妄想に始まったのが連載中の拙作です。
何一つまとまっていませんが、強引にまとめへと入ります。
・曹家と夏侯家は昔からなかよし
・曹家と丁家も昔からなかよし
・他軍閥との政略結婚を除けば、曹家の婚姻は基本的に、夏侯・丁両家を含む「すでに姻戚になっている共同体」のなかで完結している
・臣下との通婚はあくまで例外
最初に参考文献として申し上げた『中国の歴史04 三国志の世界』のなかで、金文京先生は、
「ちなみに劉禅の前後二人の皇后がともに張飛の娘であり、孫権の歩夫人が宰相の歩騭の一族の娘であったように、蜀と呉の皇后は有力な臣下の家から出たが、魏ではそういうことはまったくなかった。また諸葛亮の子の諸葛瞻が劉禅の婿となり、また周瑜の子の周循が孫権の婿、周瑜の娘は太子妃になったように、蜀と呉では臣下との通婚がしきりに行われたが、魏では曹操の娘と荀彧の子が結婚したのを除いて、そういう例はほとんどみられない。これは魏が外戚の跋扈を嫌ったせいもあるが、魏の皇室と臣下との疎遠な関係を示すものであろう」
と一節をしめくくっておられます。
ここで言われる“外戚の跋扈を嫌った”と“臣下との疎遠な関係”は曹家婚姻の二大傾向かもしれません。とくに後者は、「以前からの姻族とのみ婚姻を繰り返す閉鎖性」とも言い換えられ、中国の歴代皇室のなかでも曹魏に際立った特徴だと思われるのです。
そういう現象がつづいた理由はよく分かりませんが、「結局のところ信頼できるのは、すでに同族化した姻戚一同しかいない」という諦観が、宦官を祖とすることを常に意識せざるを得ないこの家系には久しく共有されていたのかもしれない……そんなふうにもみえます。
ちなみに上の引用文で崔琰の姪は言及されていませんが、彼女および外戚としての清河崔氏の存在は曹魏宗室のその後の展開にほとんど影響を与えていないので、しかたがないかもしれません。
ただ、後日「漢魏晋期の清河崔氏」のページで詳しく書きたいと思いますが、曹魏宗室出身者としては晋代に最も名を馳せた曹植の嫡子曹志(生母はおそらく崔氏ではない)は、ほぼ同時代人である陸機の文章によれば、むすめを清河崔氏の男性に嫁がせた可能性が高いようです。そう考えると、曹植と崔氏との婚姻は、後代の沛国曹氏と清河崔氏との関係に一定の影響を及ぼしたといえそうです。
曹家の婚姻関係・了
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