(八)王臣に非ざる莫し

徳儒とくじゅ


「はい」


「天命は漢より遷りうると、そなたはそう考えるか」


「漢より、というよりは、地上に出現するすべての王朝より、という意味です。

 兄さんのてい師父も、つまるところそうお考えだったんじゃありませんか」


「―――たとえわが師でも、過誤を残されることはある」


 彼にしては珍しいことをつぶやきながら、崔琰さいえんは従弟に、というより自らに言い聞かせるようにつづけた。


王莽おうもう僭位せんいを経てさえ劉氏の帝統は絶えなかった。その恩沢のもとで国土は保たれ、四夷はいよいよ華夏を慕い、民は生業を楽しんできたのだ。

 天命が漢に宿りつづけることを信じ、朝野ちょうやが心を一つにして勤皇を尽くせば必ず、中原は平穏をとりもどせる」


 崔琰の語気はその足取りと同じように緩やかだったが、声の芯に揺らぎはなかった。


 崔林さいりんはゆっくりとうなずきながら、純粋なひとだ、と思う。

 昔から保たれてきた美質だからこそ、昔よりさらに純度を増したようにさえ思える。


 崔林を軽んじる族人たちに正面から説得を試み、自分まで嘲笑を浴びるはめになろうとやめなかったのも、ある日こころざしを立てるや周囲の好奇の目を意に介することなく晩学に励み、ついに貫徹しえたのも、人と天の善意をどこまでも信じる従兄のこの純粋さゆえだったろう。


 だからこそ崔林は、一種の危惧を昔から抱きつづけずにはいられなかった。


 もういちど目を閉じ、塵芥が入ったかのように少しだけ瞬きをした。

 官界の世知辛い部分は、できるだけ俺が受け持てりゃいいんだが、と思った。


「そうですね。俺も、願うところは兄さんと同じですよ。

 天下に秩序が打ち立てられ、俺たちのような郷村で暮らす民の末端に至るまで、理不尽な襲撃や劫略に怯えることのない暮らしを取り戻せさえすりゃ、言うことは何もない」


 そこまでことばを交わしたきり、姿かたちのまったく相似しない従兄弟たちは呼吸を合わせたように黙り込み、ゆっくりと歩みを進めた。

 冬枯れの色に染まり始めた中庭に降り注ぐ陽光はいつのまにか傾斜を始め、樹木や岩石の影を少しずつ長引かせようとしていた。


―――或いは湛楽して酒を飲み 或いは慘慘としてとがおそ

或いは出入風議し 或いは事の為さざる


「お、一巡しましたね」


 崔林はふと頭を上げて前方を見遣った。彼らはとうに中庭の端を折り返し、元の室のすぐ手前まで戻ってきていたが、彼が一巡と言ったのは、室の窓越しに響いてくる童女の声のほうだった。「北山ほくざん」の詩がちょうど締めくくられたところである。


 庭から上がった彼らが室の戸を開ける前に、童女は冒頭からまた暗誦を始めた。

 大人でも子どもでも経書の学習は諳んじることから始まる以上、意味が分かろうと分かるまいととにかく口を馴らすしかない。

 が、童女は叔父から受けた講釈を幼いなりに咀嚼しようとしながら読み上げているらしく、日常語からかけ離れた字句のあたりは明らかにたどたどしい。


  王事、王事、―――王事、もろきこと靡し、我が父母を憂えしむ


 戸の前に立ち止まったまま、壮年の男ふたりは声に出さずに笑った。ほんの少しだけ、初冬の空気が潤いを取り戻したようでもあった。


「―――あれはどうしても、『盬きこと靡し』でつまずくのだ」


「兄さんの鄭師父が箋(注釈)を添えたくらいですからね、そりゃ難しいですよ。俺だって素で唱えられるかあやしいもんだ」


 そう言いながら崔林は従兄のために戸を開け、彼につづいて室内に入った。

 童女は先ほどと同じきまじめな姿勢、きまじめな顔で几に向かっていた。けれど両目はしっかりと閉じられている。

 叔父たちが近づいてもまぶたを上げることはなく、次の句を思い出すことで頭がいっぱいのようだった。


「大いなる空のもと、だ」


 ついに季珪が頭上から易しいことばで手引きを添えた。

 童女は声のしたほうに向かって叔父によく似た大きな黒目がちの双眸を見開き、けれど思い直したようにまた閉じた。

 そしてしばしの逡巡を経たあとに、探しつづけたことばをようやく見出したようだった。


  ―――溥天ふてんもと


「そう、そいつだ」


 のんびりした声で、崔林からも合いの手が入る。いよいよ勇気づけられたかのように、童女は少しずつ声に力をこめて、けれどゆっくりと先をつづけた。

 櫺子れんじの窓を透かして小さな横顔に降り注ぐ陽光は、すでに黄昏の色を帯びていた。


  溥天の下 王土に非ざる

  率土そつどひん 王臣に非ざる莫し

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