清河

(一)邂逅

  朝に余が馬を江皐に馳せ 夕に西のきしわた

  佳人のわれを召すと聞き まさに騰駕してともに逝かんとす






(誰かが詠じている)


 崔氏さいしは足を止めてあたりを見やった。

 二月も終わりに近づこうとする野辺はやわらかい日差しに包まれ、桑林へとつづく小道は遠くまでよく見渡せる。


 とはいえ、養蚕ようさんの時期にはまだ早い。

 野に出た目的は桑の葉摘みではなく、桑林の付近に群生する茜の根の採取である。

 染料かつ薬材として用いるため、それなりの量が必要になる。


 つい昨日までは、これも二月恒例の行事として、冬着の洗浄と手入れの作業に従事していた。

 そのときともに働いた族妹たちも、本来であれば、今日の作業に連れ立ってくる予定だったのだ。

 だが、あいにく昨日は真冬が戻ってきたような寒さだった。

 凍えるような水仕事で手指を酷使したその翌日に、土を深く掘り起こす作業に動員されることを、当たり前だがみな嫌がった。


 しかし季節の行事というのは一族全体で進捗を決定しているので、予定より遅らせることはできない。

 自分よりだいぶ小さい族妹たちの手指が荒れているのを見ると、崔氏は彼女たちを無理に駆り立てるのに忍びず、結局ひとりで赴くこととした。


 彼女自身の手指も当然、水仕事のために荒れている。

 だが、この身は一族の同世代のなかで最年長である以上、労働においても学業においても族弟妹たちに模範を示すことが、自分の務めだと思っていた。

 少なくとも、上の世代からはそのように期待されている以上、務めは果たさねばならない。


「父母を早くに亡くしたのに、あの子は大人の言いつけをよく守って、族弟妹の面倒もよくみて、頼もしく育ったものだねえ」


季珪きけいの訓導がよかったのだろう。

 新婚早々、実子もいないうちに引き取ると言い出したときは、大丈夫かと思ったものだが」


 上の世代から聞こえてくるそういったことばは時に重荷でありつつ、しかし彼女の誇りでもあった。

 育て親である叔父の名を汚さず、叔父から教えられてきた礼教に背かないためにも―――そして、この戦乱の世で堅く寄り添って暮らす一族に貢献するためにも、自分を律して生きてゆかねばならない。






(まだ、声がつづいている)


 手に籠を抱えたまま、崔氏は四方を眺め渡したが、人影らしきものはなかった。

 そのまま歩き続けようとすると、徐々に声の主に近づきつつあることがわかった。


 どうやら道の左手に流れる小川の岸辺から聞こえてくるようだ。

 道と小川の間には枝垂れ柳の並木があり、崔氏のいるところから岸辺を見通すことはできない。


  九嶷 むらがりて並び迎え 霊の来ること雲の如し

  余がそでを江中にて 余がはだぎを醴浦に


(ああ、―――これは「湘夫人しょうふじん」だわ)


 歌の終盤になってようやく一字一句が聞き取れるようになり、崔氏はふたたび足を止めた。


 「湘夫人」は『楚辞そじ』に収められる詩のひとつである。

 併録される「湘君しょうくん」とともに、聖帝しゅんの妃にして死後水神となったふたりの佳人に寄せる人間の男の叶わぬ恋が主題となっている。


 今の世でもてはやされる楽府がふや、より平明で素朴な民歌ではなく、『詩経しきょう』や『楚辞』のような古典的詩歌を愛誦する人間といえばふつうは士人、より広くいえば士人を輩出するような豪族の成員である。


 崔氏の生家の耕地が広がるこの一帯で豪族といえば当然、同族の子弟に限られてくる。

 しかし、いま聞こえてくる若い男の声に崔氏は聞き覚えがなかった。


 本来なら、このような場面は足早に通り過ぎるべきだった。

 崔家は暮らしぶりからいえば豪族というより農家に近い部類だとはいえ、清河ではそれなりに古い家柄であり、そのうえ彼女の育て親である叔父はいまや官僚として天下の丞相府じょうしょうふに勤めている。


 仮にもその身内であるむすめが他家の男にみだりに顔をさらすなど、非難されてもしかたない振る舞いであった。


 だが、自分でも思いもよらぬことに、彼女の足は小川のほうへ動き出していた。密に重なった柳並木によって身が隠れるはずだ、という安心感が先に立ったともいえる。


 しかし何より、岸辺から響き伝わるその伸びやかで深みのある声に、我知らず引き寄せられずにはいられなかった。そして、その声のうちに潜む物悲しさのわけを知りたい気がした。


 柳の枝を少しずつ掻き分けて進むと、視界がふたたび開けてきた。


  君 きたらずして夷猶ためら

  ああ 誰をか中洲にてる

  美 要眇はなはだしく修むるに宜し


 先の歌辞につづいて新たに聞こえてきたのは「湘君」の冒頭だった。

 ようやく彼女の目に見えてきた声の主は低く平らな岩場の上に座り、水の流れを眺めていた。


 黄河以北を流れる大河のひとつであり当地の名の由来でもある清河せいがへもう少し先で合流することになるこの小川は、黄土に覆われた冀州きしゅう一帯の河川としては珍しいほどによく澄んでいる。


 崔氏は岸辺の手前でいちばん太い柳の幹に身を寄せながら、斜め後ろからその青年の姿を眺めた。


 身なりは決して華美ではないが、上下の絹服も後頭部でもとどりを留める象牙と思しきこうがいも、このひなびた土地にあってはおよそ場違いな瀟洒さを漂わせている。


 上衣は縹青うすみどり色、裳は碧緑あおみどり色と青々しい色でまとめられ、どうかすれば岸辺の萌えいずる若草のなかに溶け込んでしまいそうであるが、いずれも主人の大らかな声音によく似合うやわらかな色合いだった。


 腰を締める帯にはよくなめされた革の光沢があり、神獣や霊鳥をかたどった佩玉はいぎょくがとりどりのひもでいくつか結わえられている。冠をかぶっていないことを除けば、ほぼ貴人と言っていい装いである。


 ただし年の頃はせいぜい二十歳ほどなので、彼自身が高禄をんでいるとは考えられない。おそらくは中央の官僚か郡守ぐんしゅあたりの子弟であろう。


 斜め後ろからでは首から上の面立ち全体は分かりづらいが、横顔の輪郭はおおよそ判じられた。鼻梁も口元もすっきりと整い、眉目は名書家の精品のごとく涼やかに切れ長なのが印象に残る。


 とりわけ、ときおり飛び跳ねる魚の音にも動じないまなざしの揺るぎなさが、常人とは違っているようにみえた。


(やはり、悲しそうな目をしておられる)


 できるだけ木々の陰に隠れようと努めながらも、崔氏の足は我知らずまた一歩前に進んだ。

 柳の枝のすだれが徐々に薄くなってゆく。


 いまや詠唱と我が身とを隔てるものはなきに等しかった。

 崔氏の口は我知らず、その声に寄り添うかのように動き出していた。


 人から神へ切々と寄せられる、求めても得られない悲恋の歌は徐々に高まりを見せてゆき、ついに報われぬまま終局を迎える。


  余がかけだまを江中にて 余がおびだまを醴浦に

  芳洲の杜若やぶみょうがを採り まさに以て下女かじょおくらんとす

  ときは再び得べからず しばら逍遙しょうようして容与さまよわん


 ふと、青年が岩の上に立ち上がった。

 崔氏はささやくように和していたつもりだったが、自分の声がもしや届いたのかと懸念し、急いで近くの幹に全身を隠した。


 だが青年はこちらを振り返ることなく、「湘君」の末段をふたたび繰り返しながら岩場を降り、ゆっくりと川のなかに入っていった。

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