清河
(一)邂逅
朝に余が馬を江皐に馳せ 夕に西の
佳人の
(誰かが詠じている)
とはいえ、
本来は族妹たちと連れ立ってくる予定だったが、彼女たちはより喫緊の、冬着の洗浄と手入れの作業に駆り出されたため、さしあたり崔氏がひとりで赴くことになった。
崔氏は手に籠を抱えたまま四方を眺め渡したが、人影らしきものはなかった。そのまま歩き続けようとすると、徐々に声の主に近づきつつあることがわかった。
どうやら道の左手に流れる小川の岸辺から聞こえてくるようだ。道と小川の間には枝垂れ柳の並木があり、崔氏のいるところから岸辺を見通すことはできない。
九嶷
余が
(ああ、―――これは「
歌の終盤になってようやく一字一句が聞き取れるようになり、崔氏はふたたび足を止めた。
「湘夫人」は『
今の世でもてはやされる
崔氏の生家の耕地が広がるこの一帯で豪族といえば当然、同族の子弟に限られてくる。しかしいま聞こえてくる若い男の声に崔氏は聞き覚えがなかった。
本来なら、このような場面は足早に通り過ぎるべきだった。崔家は暮らしぶりからいえば豪族というより農家に近い部類だとはいえ、清河ではそれなりに古い家柄であり、そのうえ彼女の育て親である叔父はいまや官僚として天下の
だが、自分でも思いもよらぬことに、彼女の足は小川のほうへ動き出していた。密に重なった柳並木によって身が隠れるはずだ、という安心感が先に立ったともいえる。
しかし何より、岸辺から響き伝わるその伸びやかで深みのある声に、我知らず引き寄せられずにはいられなかった。そして、その声のうちに潜む物悲しさのわけを知りたい気がした。
柳の枝を少しずつ掻き分けて進むと、視界がふたたび開けてきた。
君
美
先の歌辞につづいて新たに聞こえてきたのは「湘君」の冒頭だった。ようやく彼女の目に見えてきた声の主は低く平らな岩場の上に座り、水の流れを眺めていた。
黄河以北を流れる大河のひとつであり当地の名の由来でもある
崔氏は岸辺の手前でいちばん太い柳の幹に身を寄せながら、斜め後ろからその青年の姿を眺めた。
身なりは決して華美ではないが、上下の絹服も後頭部で
上衣は
腰を締める帯にはよくなめされた革の光沢があり、神獣や霊鳥をかたどった
ただし年の頃はせいぜい二十歳ほどなので、彼自身が高禄を
斜め後ろからでは首から上の面立ち全体は分かりづらいが、横顔の輪郭はおおよそ判じられた。鼻梁も口元もすっきりと整い、眉目は名書家の精品のごとく涼やかに切れ長なのが印象に残る。
とりわけ、ときおり飛び跳ねる魚の音にも動じないまなざしの揺るぎなさが、常人とは違っているようにみえた。
(やはり、悲しそうな目をしておられる)
できるだけ木々の陰に隠れようと努めながらも、崔氏の足は我知らずまた一歩前に進んだ。柳の枝の
いまや詠唱と我が身とを隔てるものはなきに等しかった。崔氏の口は我知らず、その声に寄り添うかのように動き出していた。
人から神へ切々と寄せられる、求めても得られない悲恋の歌は徐々に高まりを見せてゆき、ついに報われぬまま終局を迎える。
余が
芳洲の
ふと、青年が岩の上に立ち上がった。崔氏はささやくように和していたつもりだったが、自分の声がもしや届いたのかと懸念し、急いで近くの幹に全身を隠した。
だが青年はこちらを振り返ることなく、「湘君」の末段をふたたび繰り返しながら岩場を降り、ゆっくりと川のなかに入っていった。
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