(二)離騒

(あのかたは、入水じゅすいなさるおつもりだろうか)


 胸の鼓動が刻々と早まるのを感じながら崔氏さいしは思った。小川とはいえ流れの幅は数丈はあり、とくに中央の一丈ほどの川底は大人の男の背丈より優に深い。


 あるいはただの勘違いかもしれない。だが勘違いでなかったとしても、生まれてこのかた親族や使用人以外の男性に自ら話しかけたこともない彼女には、たったひとりで見知らぬ男を呼び止めるなど、想像もつかない行為だった。


 今のうちに、この付近の農地にいるはずの男性使用人か族父たちを呼んできて、代わりに声をかけてもらうべきだろうか。だが、見知らぬ青年に自ら接近してしまったことを彼らにどう説明すればよいのか。そもそも彼らを呼びに行きここまで戻ってきたとして、入水を阻止するのに間に合うのか。


 そうこう迷っているうちに、青年はごくゆっくりとだが歩みをつづけていた。水深はすでに膝上ほどに達し、絹の裳は川の水に洗われるがまま色を濃くしている。


 彼はどういうわけか「湘君しょうくん」の末段だけを何度も口ずさんでいたが、しばらく間を置いたあと、何気ない様子で吟詠を再開した。それまでとは異なる歌辞だった。


  朝に吾れまさに白水をわたり 閬風に登りて馬をつながんとす

  忽ち反顧して以て流涕し 高丘の女無きを哀しむ


(これは、―――これは「離騒りそう」の後半だろうか)


 もう躊躇してはならない、と崔氏は思った。かつて楚国の未来を憂えて汨羅べきらに身を投じた屈原くつげんのように、この青年は間違いなく、何か代えがたく尊いものに殉じる場としてこの水辺を選んだのだ。


 彼女は茜摘み用の編み籠を足元に放ると岸辺に駆け寄り、ほんの一瞬ためらった末に、裾を膝まで持ち上げ脚を露わにして、青年がたたずむ川の中ほどへと駆け足で向かった。水中で布が下肢にまとわりついたら追いつけなくなるのではないかと危惧したのだった。


「あ、あの、なりません!」


「あ?」


 悲鳴にも似た呼びかけに、というより背後で唐突に生じた水音に気圧されたかのように青年はほぼ間をおかずに振り向いたが、虚を突かれたあまり足場の均衡を崩したのか、その場で前のめりに倒れかかった。


 崔氏はいっそう慌てて彼に駆け寄ったものの、自分から最も近い位置に突き出された左手をつかもうとして間に合わず、青年は勢いよく音を立てて川底に沈むほかなかった。


 が、救助の手を待つでもなく、ひとつ間を置いた次の瞬間には立ち上がり、手で顔を拭って幾度か瞬きをすると、正面に立つ見知らぬむすめに改めて目を向けた。


 その表情は明らかな困惑を浮かべていたが、水を含んだまつげの下から向けられた双眸そうぼうは、決して冷たいものではなかった。


「そなた、何用だ」


「驚かせてしまい、申し訳ございません。お考え直しいただこうと思って」


「考え直す?何をだ」


「あの、―――あの、てっきり、入水なさろうとしておいでかと」


 歯切れ悪く返答しながら、崔氏は早くも自分の考えが早計だったことを感じていた。間近で見るこの青年の表情には、死地に臨む人間の尋常ならざる悲壮さはなく、むしろどう見ても生を謳歌せんとする活力に満ちている。


「入水、―――ああ、そうか。「離騒」など歌いながら水に浸かっていたせいか」


 青年は腑に落ちたように笑い出した。その笑顔も笑声もまた、先ほどの詠唱と同じように大らかで飾り気なく、ひとを安心させるものだった。


 崔氏は少しずつ緊張が解けてゆくのを感じつつ、他家の見知らぬ男の前に姿を見せてしまったというかつてない恥ずかしさに襲われてもいた。そしてそれ以上に、膝より下とはいえ自分の脚が水中で青年の視界に入ってしまったのではないかと恐れた。


 五、六歳の童女ならともかく、こうがいの年(十五歳)を二つも過ぎた身で他家の男に見せてよい部位ではない。


(一瞬のことだから、沈んだときの水泡にまぎれて見えなかったはず)


 崔氏は自分に対して必死に言い聞かせた。もし見られていたら死んでしまいたい、という思いで胸中は溢れそうになり、顔は桜桃の実のごとく紅潮していった。火照りのあまり、口の中まで乾き始める。


 しかし、このような振る舞いの理由を問われた以上は、答えなければならなかった。

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