(六)司空曹操

「どう思われます」


「どうとは」


「袁冀州きしゅう袁尚えんしょう)は鄴に軍を返すでしょうか」


「―――そうだろうな。黎陽れいようぎょうは指呼の間だ。遠征中に本拠を落とされては元も子もない。やはり平原へいげんの包囲は解くだろう」


「また、荒らされますか」


 今度は問いかけというよりも、ほとんど独白のような調子で崔林さいりんはつぶやいた。崔琰さいえんもあえて返答はしなかった。荒らされるとは、平原から鄴への通過点としてこの清河せいがの地がほぼ確実に袁尚軍の馬蹄と収奪にさらされるということであり、あるいはまた、長らくの包囲を解かれてようやく平原の城外に出られた袁譚えんたん軍が、ひさかたぶりの自由を謳歌せんと付近の集落を荒らしまわりかねないということでもあった。


 袁紹の存命時から袁家の軍隊は往々にして規律が弛緩しており、崔琰も袁紹本人にたびたび諫言かんげんを呈していたが、とりわけ袁譚軍に属する士卒の質の低さはかねてから悪名高いものがあった。


 天然の要害、あるいは山林叢沢の密なる地に設けられ、自衛用の防壁を四方にめぐらした民間の集落をという。後漢もこのころになると、相次ぐ戦乱と略奪の嵐から免れるため、中原各地の豪族が本来の根拠地で、あるいは一族を挙げて寄寓した先の土地で塢を築き集住する、という例がもはや特殊ではなくなりつつあった。


 崔家の所在する清河東武城とうぶじょう一帯は、水系には比較的恵まれているとはいえ、峻厳な山谷とはおよそ縁遠い地形である。だが血の団結の固い彼らは、黄巾賊こうきんぞく蜂起以来の相次ぐ戦乱を経てなお父祖伝来のこの土地に留まりつづけ、一応は塢と呼べるような、防御性の高い集落をつくりあげてきた。


 資力には乏しいながらも塢壁の増強には金と労力を惜しまず、また少数ながらも精悍な部曲ぶきょく(私兵)を手厚く養い鍛錬しぬいてきた甲斐あって、これまでのところこの地を通過する軍隊や流賊から甚大な被害を受けることは免れている。だが、すぐ近隣の他氏集落で食糧庫が押し破られたり女という女を略奪されたりといった話を伝え聞いたのは、一度や二度のことではない。


 袁家と曹家の抗争、そして袁家の内紛に巻き込まれた近年の冀州の疲弊と無秩序は形容を超えたものであり、だがさらなる戦場に組み込まれるとなれば、悲嘆に暮れている暇などなかった。最新の情報を得たならば、あたうるかぎりの措置を速やかに講じなければならない。


「早めに伝えてくれてよかった。感謝する。

 門楼に配する人員を増やして、外壁周辺の哨戒しょうかいの頻度も上げるよう、宗主そうしゅ(宗族の長)に談判申し上げよう」


「ええ、よわいのせいか、あのかたもここ数年はやや腰が重くなられたようだが、兄さんの進言なら速やかに応じてくれるでしょう。

 時間はかかりますが、塢壁自体ももう少し高く積み上げて補強せにゃならんでしょうな。

 雨の乏しい季節なのが、救いといえば救いですが」


「ああ」


「兄さん」


「どうした」


「曹司空に辟召へきしょうされたら、どうされます」


「袁兄弟が滅んだあとに、ということか」


「むろん」


 返事はなかった。崔林も敢えて従兄を促すことなく、問わず語りにつづけた。


「大将軍が亡くなる前から、袁家の勢力はすでに斜陽でした。一切の力を合わせて外敵に立ち向かねばならんときに骨肉同士で食みあう者たちが長くないことは、もはや歴然でしょう。

 大将軍への―――旧君へのご哀悼は、これまでの蟄居ちっきょで十分尽くされたと俺は思いますがね」


 崔琰はやはり答えなかった。しばらく歩を進めてから、ふっと思い定めたように口をひらいた。


「―――司空は、屯田とんでんの制なるものを敷いて以来民からの収奪を断ち切り、そのうえ賞罰は公正で軍紀は殊に徹底されるかただと聞く。

 それだけでもまことに、得がたいことだが」


「ええ、得がたいことです。民と官とを問わず、結局のところ、人心の収攬しゅうらんはそこに尽きるようなもんだ」


「そうだな。大将軍府に仕えていたときから、それはわたしも感じていた。

 実際、かつての幕僚で司空の陣営に投じた者も多い。

 彼らは必ずしも、時の利を見て鞍替えを決めるような輩ではなかった。

 自らの志を託すに値する主君として、司空を選んだのだろうと思う。

 ―――それはおそらく、士の生き方としてまちがいではあるまい」


「ならば、兄さんもすでに、司空に期待をかけておられるということですな。

 出仕を決意しておいでか」


「そうだな、―――もし辟召の状が至るのであれば。そなたはどうする」


「俺は呼ばれますまい」


「そんなことはない。そなたの名は近年清河でよく通るようになっている」


「兄さんと一緒にいる人間は、どうしても人目につかざるを得んのですよ。

 仮に仰せどおりだとしても、他州の連中からみたら清河なんぞ冀州のくるぶしのようなとこじゃありませんか」


「己の郷土を悪くいうものではない。

 袁兄弟が倒れれば、司空は冀州に青州、幽州―――少なくとも冀州刺史を兼ねるようになるだろう。統治の安定のためとあらば、地元の名士を集めることに余念はないはずだ。

 まして、こと有為の人材を集めることにかけて、司空の熱意は嘘偽りのないものだと聞く。能力のある者に対し礼遇を重ねこそすれ、内心で嫉妬をいだくようなことは決してないと。

 そなたにもしお声がかりがなければ、わたしが推挙しよう。

 ―――袁大将軍のもとでは、あるいはそなたが衆人の前で軽んじられるかもしれぬことがためらわれて、ついにできなかったが」


「お心遣いはありがたいが、出仕して真っ先に身内を挙げたりすれば、兄さんの名に傷がつきゃしませんか」


「身内であろうと他人であろうと、主君に貢献をなしうる者を挙げることに何の躊躇が要るものか。己ひとりの名を惜しむほうが恥ずべきことだ」


「―――まあ、そんなに仰せなら、ありがたいことです。機会があれば辞退はしますまい。女房に長いこと尻を叩かれてるんで」


「そなたの妻はそんなに気の強い女なのか。ついぞ気がつかなかったが」


「うちの女房に限らず、下男のかみさんたちでもそのへんの女童でも、兄さんの目が及ぶところでは大抵の女は自分のいちばんいいところを見せようとするんですよ。

 大体兄さんは、世の中の女の大半は柔和で善良で働き者で、およそ男の前では顔も上げられぬほど恥じらい深いとお思いでしょうが」


「ちがうというのか」


 崔林はさすがに答えず、いやはや、と首を振って見せるだけだった。

 そして本来の筋道を思い出したようにつづけた。

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