(四)鄭玄門下
二十三といえばすでに妻子を持つべき頃であり、実際、
こうなると三兄や崔林もさすがに心配したが、当の崔琰はほとんど意に介することもなく、むしろ煩わしさが減ったとばかりにさっぱりとした顔をして書物に向かっていた。
崔琰が経学の入り口として選んだ『論語』は、『孝経』と並んで、文字をおぼえたばかりの子どもが最初に学ぶ経書である。彼は昼間は校(県単位の中等教育期間)で十五六の少年たちに混ざってその講義を聴き、夜は崔林のところへ質問を持ってやってきた。崔林は拒みこそしないものの、
「俺のところへ来なさると、兄さんまで馬鹿にされますよ」
と無関心そうな顔で言いながら、質問された事項に対する自分なりの解釈を述べ、夜半に送り出すのが常だったが、崔琰は
「わたしの見込みに誤りはなかった。そなたのいうことのほうがよく分かる」
と真顔で謝意を述べるばかりだった。
いつまでつづくか、と族人たちから呆れと好奇の半ばする目を注がれるなか、崔琰はついに郷里の師から学びうる限りのことを学び終えた。すでに二十九歳になっていた。このころになると、崔家の上の世代の族人にも、「あれにはやりたいだけやらせてやろうではないか」と感嘆を込めつつ呟く者が少なからず現れるようになった。
とはいえ、彼の前途はここに至っても平坦ではなかった。鄭玄の門下に到着してから一年もしないうちに北海は
北海と清河はそれぞれ青・冀という他州に属すとはいえ、地理的にはそこまで隔絶していない。だが、黄巾軍の蜂起以来幾重にも引き起こされた動乱を経て、主要な街道は至るところで破壊され、旅人が宿を請うべき各地の村落は離散し、見る影もないありさまになっていた。まずはたどれる道のりをたどりつづけた結果、その足跡は江南にまで及んだ。
あるいは崔琰には、せっかくの遊学の機会を得たにもかかわらずわずか半年であきらめざるを得なかった無念さを、せめて異郷の見聞を広めることで補いたい、という思いもあったのかもしれない。清河東武城の地を踏んだのは実に四年後のことであった。
その前年、三兄夫婦は念願の赤子を授かり、そして相次いで世を去っていった。崔林の予期した通り、帰郷した崔琰は兄夫婦の死を知るやひとかたならぬ悲嘆に落ち込み、兄に対する一年の服喪を終えるとすぐに、忘れ形見の女児を崔林に請うて譲り受けた。赤子の
当初からの予定に添った流れとはいえ、いざこのときを迎えると、二年近くも赤子を手元に置いて十分愛情を抱くようになった崔林の妻はさすがに不満の色をあらわにしたが、崔林は珍しくことばを尽くしてなだめこんだものである。彼自身にも愛惜がなかったわけではないが、やはり長い目で見れば自分より血が濃く、自分よりはるかに近親への情が深い季珪兄のもとで育てられるほうが赤子自身にとって幸福であろうと結論付け、それ以上は考えないことにした。
その後、従兄夫婦のもとで健やかに育ちゆく女児のようすをしばしば見に行くにつけても、やはり自分のやりかたでよかったのだと崔林は思った。
崔琰は誰に対してもおよそ甘い顔というものを見せない男だが、どこへいくにも彼について歩きたがる女児の安堵しきった表情を見るだけで、たしかな愛情を注がれていることは誰の目にも明らかだった。
兄たちの死に先立ち父母をすでに亡くしている崔琰は、自分で
それから時が流れ、女児はすでに数えで九歳である。崔林に引き取られた当初、ともあれ呼称が必要だというのでつけられた
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