(三)従兄弟たち

 徳儒とくじゅ季珪きけいを兄と呼ぶが、ふたりの関係は従兄弟である。季珪と徳儒はあざなであり、それそれ姓名を崔琰さいえん崔林さいりんという。


 父方の血でつながる、すなわち姓を同じくする従兄弟同士の絆はもとより実の兄弟に準じるものであるが、このふたりの睦まじさと互いへの信頼の深さは実の兄弟以上のものがあった。


 ふたりともにすでに妻子がおり、世帯はもちろん別であるものの、冀州きしゅう清河せいが東武城とうぶじょう県の地を本貫ほんがんとする崔氏一族の一員として、同じ外壁に護られたこの集落に隣り合って居住し、一族と命運をともにする間柄である。


 なお清河という国名は今から五十年ほど前の桓帝かんていの治世に甘陵かんりょうと改められたため、公式には甘陵国と称するのが正しいが、父祖代々この地に暮らす民びとの意識としては、いまだ清河のまま通っている。


 出仕先が中央たるか地方たるかを問わず、漢朝治下において官人らしい官人を出していない清河崔氏一門は、中原諸州のなかでも古来より開発の進んだ冀州に籍を置く豪族としては、相当貧しい部類に属する。


 早くに父母を失った徳儒こと崔林はその族内にあってもきわめて困窮した童年時代を送り、同族の扶助によりかろうじて衣食と学問にありついてきた身であるが、崔氏一門のなかで最も親身に、また真摯に面倒を見てきたのが季珪こと崔琰であった。


 人の姿かたちには内面の徳や人格の高さが表出する、というのがこのころの通念である。天然の美貌と長身に恵まれた崔琰は、学業を身につける以前のごく若いころより、ただそこに立ち居するだけで周囲から一目置かれてきたことはたしかだった。だがそれだけに、彼と崔林との交遊については、


(季珪はたしかに生来弱い者をかばうたちではあるが、あれでは玉樹が地を這う蔓に影を投げかけてやっているようなもので、あまり親しくしてやってはかえって気の毒だ)


と皮肉に眺める者が少なからずいた。


 実際、崔林に比較的近しい肉親たちの多くも、孤児という不運な境遇を差し引いてもどうにもみすぼらしさを否めない彼の外見と、物心ついてからも己を外へ向かって表現することにほとんど執着を見せない彼の態度ゆえに、


(気の毒だが、あれはいくらか痴愚ではないか)


と、半ば見切りをつけつつ援助の手を差し出してきたようなものであった。その一方で、崔琰ひとりだけは周囲の空気を全く意に介することなく、ほとんど童年のころから「そなたは大成する」と従弟に向かって語りつづけ、ときには従弟に向けられた嘲笑をともにかぶってきた。


 当の崔林はといえば、さしたる関心も感激もないような顔で従兄の言明をだまって聞いてきたが、族内と族外とを問わずおよそ他者との交遊全般に関心の薄い彼が、壮年に至る現在までほぼ唯一変わらぬ親密さを保ってきたのもまた、崔琰そのひとであった。


 崔琰が手元で育てるようになった伯女はくじょという女児は、彼らふたりの血族であると同時に、長年にわたる彼らの情誼に新しく加えられたもうひとつの紐帯のようなものであった。


 季珪という字が示すとおり崔琰は四人兄弟の末弟であるが、長兄と次兄は成人せぬうちに亡くなり、すぐ上の三兄夫婦もまた、女の赤子ひとりを残し相次いで病死した。今からおよそ八年前のことである。崔林がそうであったように、同族の集落のなかで孤児や寡婦が出れば、族人同士で扶助するのが崔氏一門に限らず世の慣いである。


 だが、この女児の場合は父母に継ぐ近親者―――祖父母や叔父叔母にあたるひとびとがある者は死亡し、ある者は他家に嫁ぎ、ある者は遊学先で消息が途絶えていたため、やや血の遠い人々の間でたらいまわしされる運命をたどろうとしていた。


 そこへ自ら養育を名乗り出たのが崔林であり、まだ子のない身ながら妻とふたりで出来る限りの面倒を見ようとした。血縁からいえば従兄の遺児という、遠くはないが近いとも言い切れない赤子の扶養を彼がわざわざ率先したのは、己の境遇と重ね合わせたからということもあるが、赤子の父親の弟―――崔琰への親愛の情からだったというべきであろう。


 遊学に出て帰らない者というのが他ならぬ崔琰であり、近親者に対する従兄の愛情深さをよくよく知っている崔林は、少なくとも彼の帰還まではこのむすめを手元で大切に育てなければならない、と彼にしては珍しい決意を擁し実行したのだった。


 従弟である崔林がすでに妻帯している以上、崔琰も本来ならば学業をとうに終えて一家を成し、郡県で仕官するなり郷里で農事に専念するなりしているべき齢であった。ところが、彼が遊学の途に就いたのは二十九歳のときだった。兄の女児が生まれてさらに兄夫婦が没する三年前のことである。


 どこへ出かけるにも経書を手放さない今の彼からは想像も出来ないことだが、若き日の崔琰はひとえに撃剣に打ち込み、寝食を忘れるほどの没頭ぶりであった。堂々たる体躯に恵まれたことも、武術を己の天稟と思いなす傾向に拍車をかけたことであろう。


 当時と今と変わらないのは、そのすぐれた容姿と、容姿に圧倒されて見落とされがちな、人格の芯にある朴訥さだけではないかと崔林などは思っている。当然、少年時代を通じて崔琰は学業に親しむことなく、成年に達してもそれは変わらなかった。


 転機が訪れたのは二十三歳のときである。まがりなりにも豪族の子弟として、家業の農地経営に携わりつつも好きなだけ撃剣に打ち込んでいた彼は、ある日地元の郷(里の上、県の下の行政単位)の役所から、正規兵に任ずるとの令状を受け取った。


 郷土防衛のための軍務に就ける、といえば聞こえはよいが、軍人は一般に文官よりはるかに下に見られる存在である。別の見方をすれば、この時点での清河東武城の崔氏は、宗族そうぞくや家産の規模からいえば一般の農家を多少は上回るとはいえ、その族人を兵士として用いてもよかろうと見なされる程度には、権威から遠い家柄であった。


 だが、ここに至って崔琰は発奮し、初めて『論語』を、つづいて『詩経』を学んだ。子弟に学問や武芸を嗜ませるぐらいの余裕はあるものの、名族と呼ばれるにはほど遠い弱小豪族に生まれた青年が、ここにきて一体どんな矜持に突き動かされたのか、血のつながる族人たちにも分からなかったに違いない。


 だが彼の生来の純朴さに鑑みるならば、武芸に秀でるだけでは郷や県より広い江湖に出て男児の本懐を遂げることはできない、と徴兵の令によって気づかされ、気づいた時点で何の逡巡もなく「正しい道」に踏み出したまでのことかもしれなかった。

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