第110話 真珠星、胡蝶の夢


「僕も恋螢みたいに一生を潔く終えられたら……、どんなに楽だろう。どんなに大罪が赦されるだろう。どんなにこの心の重荷を易々と下ろせるだろう」


 曇天の空には世にも珍しい、雨夜の星が合図するように光っていた。


 


 暗雲の雲間からその初夏の星座の乙女座の一等星、その名の通りの真珠のようなスピカが果てしない曇り空から私たちを見ていた。



「真君には私がいる。私がいる」


 ここ、祓川は聖帝、狭野尊といわれた皇子さまがお生まれになった聖地だ、とお父さんは語り継いでくれた。 



 恋螢が飛ぶ小夜中の青葉月にこんな心も身体も浄化されるような、居場所である、この地に生まれついたのならば、私も汚濁が混在したような人間にはならずに済んだのだろうか。


 


 ふと、私は幼い頃に昏々と眠っている最中に夢見た、不可思議な胡蝶の夢を思い出した。


 


 独りの少年が小さかった三歳の私を暗い渦中のトンネルの中で背負ってくれた不思議な泡沫の夢を。


 


 あのトンネルは永遠に続きそうながらも、闇に逝かなきゃ、と私に告げた夢の中の少年はどこへ行ってしまったのだろう。


 


 小さい頃はきっと、遠い時空の果ての有史時代の昔話のように同じ節理で、皇子さまが夢の中で私を助けてくれたんだ、と勝手気ままに夢想していた。


 ちょうど、悪者に攫われたお姫さまを八岐大蛇から助け出すように。


 ただの言い伝えだよ、と私は苦笑する。


 勘違いだったんだ、と一心不乱に唱えながらもお父さんが炉端で諳んじる、子守唄みたいに話してくれた、皇子さまの話を幾度もなく反芻した。


 


 夜神楽は厳冬になったら夜を明かして神への祈りを捧げ、その余興もあえなく終わるし、師走の候となり、新年を迎え、梅見月からまた桜待月に白い桜の硬い蕾が綻び、初夏には螢が飛び交い、油照りの真夏が過ぎたら、白秋には紅蓮の火焔のような彼岸花が畦道や稲架に咲き誇る。


 そんな四季折々の唄が面々と続いていく。


 絶え間なく流れる水辺の唄もここでは変わらない。


「この螢が僕は憎いよ。すごく憎い」


 

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