第99話 ロビンス・エッグ・ブルー、太宰治


 高校生になったらもっと未読の小説を読んでみたいのに四六時中、忙殺されてなかなか主だった時間が作れない。


「口を噤むような怪奇な小説だよ。とても残酷な小夜中の死神が好みそうな」


 彼の林檎飴のような深紅の唇が好奇心に駆られて動いた。



「どんな死神?」


 私が相打ちを駆けるように大きく言うと、彼はなだらかな肩をほぐしながら答えた。


「殺戮と失望と吝嗇を肯定した、死刑執行人のような」


「吝嗇なんてまるで、太宰治の小説みたいだね」


 覚えたての語句に私が感心しながら例えると彼は静かに頷いた。


「坂口安吾は太宰治と同じ無頼派だったからね。似た者同士かも」


 太宰治の小説はまだ、代表作の『人間失格』しか読んでいないよ、と私が投げかける。



「僕は最近、『正義と微笑・パンドラの匣』を読んだよ。病棟では有り余るほどの時間があるから何冊も近代文学を読んだよ。パンドラの匣は結核病棟の話なんだ。長期的に入院する患者同士のやり取りが克明で、リアリティーを感じたよ。この病棟と結核病棟の実情は違うかもしれないけれども、親和性は感じられた」


 


 古本の話をしているときの彼の和やかな表情を私は一途に愛したい。



「正義と微笑のほうは少年期から青年期へと変貌する青春の一コマが鮮明に想像できた。太宰はどうして、こんなに青春期がありがちな葛藤や甘いや酔いを的確に描けるか、感嘆しかなかった。こんなに無為な時間を持て余しているのだから、燃え尽き症候群になってもいいから日記でも記せばいいのだけれども」


 日記か。私も小学生以来、書いていない。



「真君ならば、続きそうだよ。私は三日坊主で済ませてしまいそう」


「僕も三日坊主で終わりそうな自信だけはある。長い文章もうまくは書けないな。昨日、三島由紀夫の『午後の曳航』を読んだんだけれども、少年期特有の清明な残酷さを体現していて不肖な僕の心には冷たい硝子細工のように癒された。この小説は人に勧めたらちょっと良心を疑ってしまいそうな内容だけれどね」


 


 彼はSNSで知り合った見知らぬ男性の身元へ寄せ、一晩を過ごした、と私には教えてくれた。


 失礼だとは感じつつも、透明な少年が純潔を弄ばれ、奪われ、淫靡な振る舞いにその弱竹のような体躯を生贄として捧げ、悪魔の大男の膝元で囚われの身となり、人知れず、澄み切った涙を流しているのが目に浮かぶ。


 


 混じりけのない、混濁しているのに傷だらけの玻璃模型のように、少年の姿見は息を呑むほど麗しい。


 散々、そのうなじに荒息をかけられたのに真澄鏡のようにある一面からはとても清らかなのだ。


 


 こんな印象派の絵画のような、春昼の午後に気さくに話す彼も私が知らない、夜這い星をこっそりと抱いているのに、俗世間にまみれていない幼子のように笑うのはなぜだろう。


 


 希死念慮に常に惑わされ、戯曲のページを甲高く舞台裏で参照するように仮面をかぶっている君は、私には微糖の紅茶のように煩わしく思う。


 それなのに共依存のように私たちは、ぴったりと折り合う鶴の折り紙のように離れられないのだ。



「今日はわざわざ、ありがとう。長旅だっただろう」


 冠婚葬祭で会うくらいの親戚の少年だったはずなのに私は君に対して、過剰なくらいの思慕を求めている。


「きつくはなかった。会えて嬉しかったし」


 桜の花びらがはらはら、と軽やかにアラベスクのように舞い、星型の紅梅色の萼が流れ落ちる箒星のように地面に雪崩れた。



「ロビンズ・エッグ・ブルーって知っている?」


 彼が急に質問したので私は思わず、首を横に振った。



「そうか。僕も最近知った。青い卵のことだよ。欧羅巴駒鳥の卵の色は土耳古石のような青い色なんだ。成鳥の駒鳥の胸毛は何故かしら、赤くて欧米諸国では磔刑に課されたキリストの、茨の棘を被せた頭部から滲み出した赤い血が染まったからだと謂れがあるんだって……」


 物知り博士な少年は話し出したら止まらない。


 彼は持ち歩いている本のページを指差し、唸るような向上心に身を委ねた。


「青い卵なんて本当にあるんだね」


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