第98話 烙印、春草


 春草が揺れた裏庭には天使の梯子のような清浄な光の衣が降り注ぐ。


「烙印って?」


 私が素直に疑問を投げかけると彼は意味深長な眼差しで答えを紡いだ。


「僕自身が異端者だという紛れもない、事実」


 白昼に照らされた天人唐草や仏の座、薺、繁縷、阿蘭陀水菜草、撫子などが雑草でありながら果敢に生えている。


 雑草という草はない、と告げた人は誰だっただろう。


 ふと、そんなささやかな春の午後の暇を想う。



「名も無き草花もこんなに綺麗なのにね。……僕だけが汚穢に満ちている」


 人里寂しい白亜の病棟では時間軸が普通とはずれているかもしれない。


 神隠しに遭ったようにこの中庭では煩悩から離れた完璧な憂愁の湖畔で日向ぼっこできるから。


 多数派の手厳し目線もここではいとも簡単に遮断できるから。



「何で、他の人たちは己自身の感性を容易く信じられるのだろう。己自身の良心や労わり、心の過程を瞬時に記号化し、選民意識を持って他の選別から漏れた人たちを切り捨てられるのだろう」


 彼の口ずさむような生きづらさは私が日頃、抱いていた哀愁と同じだった。


 


 忘れ霜をあっという間に満ち欠けする朧月が、初夜の菜の花畑に霞んで照らすような、アンニュイ。


 朧月夜という童謡が今宵は諳んじたくなるだろう。


 


 とある名前を喰われた少年が、百鬼夜行が闊歩する花街で支配され、花盗人から憐憫を装われ、怪しい猩々緋の褥で口づけを交わしあっている夜景が瞼に色濃く浮かぶ。


 薄紙のように白い皮膚を空中に露わにさせ、上半身が素っ裸の少年は、唐紅の袿で腰を隠しながら切ない眼で、強者にねじ伏せさられ、されるがまま、欲しいがまま、その高潔を殉じようとしている。


 


 不吉なグリム童話、いや、ダンデの神曲の一節のような煉獄で少年は悪魔に魂を売っている。


 銀糸をその頼りない背中に託しながら、強者の懐に身を捧げている、隠滅した春ひさぎ、名前を喰われた少年は小夜すがら、見果てぬ黎明を案じている。



「本当に僕は愚鈍だった。ケチが付かないほどに。仄かに暗い眦のまま、周囲に愚痴ってばかりで目つきさえも厭われた」


 彼は地味な入院服を着たまま、さめざめと言う。


「絶望は突然襲来してくるものじゃないよ。日常の中にじわじわと蟻地獄のように一瞬の隙もなく沸々とニタニタと笑いながらやって来るものなんだ」


 澱みなく話す彼の冷淡な口調もその壮絶な運命に抗う故だった。



「桜は潔く散る運命なのにね。僕だけがこの朽ち果てた身体で惑わされている」


 彼の語り継がれた伝説のように諳んじる小言も春の形見では移ろうままだった。


 どんなに膨大な古典を耽溺し、小節を諳んじようとも言い併せない心の汚濁がある。



「桜の木の下には屍がある、と言ったのは誰だと思う?」


 彼は不敵な微笑を浮かべたまま、嬉々として言う。分かんない、と私が承諾すると彼は誇らしげに滑らかな口先で説明した。


「梶井基次郎の掌編から。美しい桜の木の根元には無数の屍が埋まっているなんて、僕も成れの果ての死者となりたいよ」


 彼は続けざまに得意げに高尚な蘊蓄を述べた。



「坂口安吾はこの梶井基次郎の掌編に触発されて、あの妖美な短編、『桜の森の満開の下』


を執筆したんだ。最近、この短編を読んで背筋が凍ったような、それとも、淫靡な遭遇に出くわしたような快感を覚えたよ。人差し指で禁じたいような恐怖で染められた血潮のような小説だった」


 私はまだ、その『桜の森の満開の下』を読破していない。


 それほど恐怖の丹青で染め上げられた掌編なのか。


「どんな粗筋なの? 綺麗なタイトルだけれども」



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