第97話 春風の名前


「どうして? 誰が言ったの? そんな酷いことを」


 彼は申し訳なさそうに土壇場で叱責された学童のように言った。


「専門書にそう、書いてあったから。僕の障害は生まれつき、感性がないんだって」


 その専門書を私は破り捨ててしまいたかった。


 人の感性の有無に何を他人事の分際で糾弾するのだろう、と遺憾に思った。



「その本がおかしいんだよ。私が保証する。そんな尺度なんて勝手に決められるものではないって」


 私が急かされるように言い切る。


 彼は無表情にも小さく笑みを浮かべながら本を閉じた。



「僕らはこの世にある全ての言葉の筵を把握できない。黒い感情も清らかな目覚めも一滴まで呑み込めない。こんなに世界には多くの言葉の葉陰がたくさんあるから」


 それこそ君が言ったような桜時、私たちはベンチの上で透き通るような弥生尽の青空、うたた寝するように二人で掛け合った。


 彼の会話は主に最近、知った古語についてだった。



「風だけでもこんなに異名がある。春の風は特に、花信風、花風、協風、黒北風、軽風、光風、穀風、東風、清風、吹花擘柳、涅槃西風、梅風、花の下風、花の風巻、花嵐、風炎、雪解風、陽風……。みんな覚えきらないね。この言葉を操るだけでも数年はかかりそうだ。まだまだ知らない言葉がこの世にはたくさんある」


 


 見せてもらった本もほとんど辞書といっても、不適切ではない立派な装丁の本だった。



「ほとんどの人は知らないよ。真君だから敏感なんだよ、きっと」


 君の長い揚羽蝶の触覚のような滑らかで、センシティブな睫毛が桜色を成した木漏れ日に乱反射し、私は思わず、春爛漫な木陰で見惚れる程だった。


 


 病気がちの君には憂いのシルバーグレイの傘が似合う。


 灰色とサーモンピンクって何か、しっくりきて対比するような反原色な筈なのに妙に似合うんだ。


 


 いや、桜鼠色っていうんだ。痛む悶える心臓を撫でるような桜の白い花びらが花吹雪となって落ちていく。


 地面は薄桃色の絨毯のように疎らな焦げ茶色を表示している。



「感性が本当に豊かな人は自信がないものだよ」


 隔絶されたような病棟で、悲哀のドレスを纏った桜の木は悠久の歴史を忘れ、その刹那を刻んでいた。


「烙印を押されたら簡単には己自身が通常とは実感できない。常に他者との鬩ぎ合いを自覚しないといけない」



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