第26話 知りたい少女


 母さん?


 蛇のお母さんのこと?


 あの女呼ばわりするなんてすごく不自然だ。


 病んでいるとういうか、余程憎んでいるのか、当てつけのあの女呼ばわりで喧嘩でもしたのか、私にはそれくらいしか予想出来なかった。


 それはない。


 蛇の淡々とした口調は明らかにその場しのぎの当てつけではなく、裏に隠された深い闇を暗示していたからだ。


 何か、厄介なことに出くわしたようなそんな不可解さに紛れ込む。


 莉紗が言った通りかもしれない。


 何か裏があるよ。


 とんでもないトラウマを、あの三年生は抱えているんだって。




「お母さんのこと? じゃあ、何でそんな変な呼び方をするの」


 質問しているうちになぜ、蛇が私の家にやって来たのかかすかだが見えてきた。


 蛇は実の母親と諍いがあって仕方なく居候しているのだ。


 親から虐待されていた?


 蛇は母親から何かしらの傷を負ったのだろうか。




「いいや……。あまり話したくないんだ。あの人のことを他人に話したのも君が初めてだよ。世の中には知らなくてもいいことがある。幸せな家庭で育った人は特に知らなくてもいいんだ。そうでなければ、自分が放した影によって自分を追い詰めてしまうから」


「何で隠すのよ。私の家に住んでいるんだから家族じゃない。お互いに知らなくちゃいけないよ」


 私は声を詰まらせた。


「私は真君のことをもっと知りたいよ」




 自分でもなぜそんな言葉が飛び出したのかわからない。


「君に話したら今までのように話せなくなる。知らなくてもいいことだってある」


 蛇は本を棚にしまい、振り返った。


「帰ろう。もう閉館時間だ。早く帰らないと暗くなるよ」


「話を切らないでよ」




 いつのまにか話を繋いでいた。


「おかしいよ。そんなに恥ずかしいことなの? お母さんからひどいことをされたの?」


「違うよ。そんな類のことじゃない。君には知らなくてもいい事実なんだ」


「だって、そもそも何でうちに来たのか腑に落ちないじゃない!」


 感情的になりすぎた。


 踏み込んではいけないところまで来てしまった。




 気があったから?


 どうして、そこまで問い詰めるまで知りたいのだろう。


 好きなわけじゃない。


 迷惑だから。


 勝手にのそのそと転がり込んでいい迷惑だから鬱憤晴らしに責めているんだ。




「やっぱりお前もあの女やあの男と同じだ。あいつらとも同じだ。僕は落胆してしまったよ。君とは同じ仲間だと思ったのに」


「だっておかしいじゃない!」


 天井から館内放送が流れる。話を丸めないと家に帰れなくなってしまう。


 余計にややこしくなる。




 ここでパニック状態に蛇が陥ったらこっちが迷惑する。


 迂闊に根掘り葉掘りよそ様の事情をずかずかと配慮もなく聞いたのがそもそもの間違いだった。


 冷や汗を背中に拭う。




「いいよ、ごめんね。問い詰めたのが間違っていた」


「いいさ、今さらになって謝罪しても僕は許しもしない」


 呼吸が荒くなり、彼の身体は小刻みに震えている。


 瞳は虚ろだった。


 まるで母犬を亡くした子犬が、遠くに連れされた母犬を林へ探し、野辺へと探し、路地裏へと探し回っても見つからずに困って泣き叫ぶしかない子犬のようだった。




 小学生の頃によく泣いていた子がいたでしょう?


 その子はいつも泣き虫と罵られて、校庭の隅のブランコで一人寂しく遊んでいたよね。


 その子が涙をぽろぽろと流すときあなたはどう対処しましたか。


 先生から問われているよう。




 涙の対処法は多くの涙を流した人にしか分からない。


 そこまで多くの涙を流したわけじゃない。


 昔は泣いてばかりだった。


 泣くのをある日やめた。




 そうしないとますますみんなから嫌われるから。


 どうして、そうしないの?


 嫌われちゃうんだよ?


 誰からも話しかけられなくなるんだよ。


 私が心の中で訴えかけても何も変わらない。


 自分でもその言葉の切れ端を伝えられないのか不思議だった。


 言葉がいつの間にか詰まって声が出なかった。




「母さん……。母さん、どうして……」


 深い事情があったのだ。


 それに迂闊に侵入してはならない。


 書棚に戻した『ゲド戦記』が微妙にまだ傾いたままだった。


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