第24話 影に追われる少年


 ちょっと大きなボリュームで声をかけても、迷惑に感じる人はない。


 こんな時代遅れの図書館には幽霊だって出てこない。


 青少年の本棚と書かれた日焼けしたプレートは今にも剥がれ落ちそうだった。


 ここ十年は張られたままだろう。


 さっきスマートフォンを無我夢中でいじっていたおばさんが気まぐれで作ったものかな。


 司書気取りでテレビを見ながら作ったものかな。


 フラワーが咲き誇り、目がやたら大きい一匹のクマさんと等身大であり得ない、かなりのデフォルメが入った蝶が何匹か遊んでいた。




 蛇は雑食系男子と名付けてもいい。


 本の好みに関してはかなりの乱読の分類に入る。


 昨日、お兄ちゃんの部屋に入って久しぶりに蛇の机を見たら、宇宙図鑑とおじさんが読むような難しい本が置いてあった。


 それに何冊かの文庫本と分厚い文芸誌が平積みされていた。


「何を読んでいるの?」


「ル=グウィンの影との戦い」


 また一言だけ。


 蛇はいかにも古そうなブルーの表紙がした単行本を持っていた。


 よく見るとご丁寧に箱まで付いている。


 表面の紙質は私が今まで読んだ本の中で一番悪そうだった。




「どんな本?」


「ファンタジー小説さ。真依ちゃんでも読めるよ」


「ハリー・ポッターみたいな?」


 蛇は小声で違うよ、と声を殺して笑った。


「確かに主人公のハイタカが魔法学院に行く下りは同じだけどね。ハリー・ポッターよりこの小説の方が前に書かれたんだよ」


 ハリー・ポッターよりも前に魔法学校を舞台にした小説があったとは知らなかった。




 いかにも年代物な本なのにハリー・ポッターのような斬新なスト―リーがこのオンボロ本にもあるのか。


 箱の表には主人公らしい人の絵が描かれている。


 小学生の子供でもちょっとひねれば描けそうな絵だが、意外と描いてみれば構図やデザインを間違えて思っていたイメージとは違うヘンテコな絵になりそうな絵だった。




「ハイタカは自分の影に追われてしまうんだ。自らが放った影からね」


 蛇が本の解説している。その内容は読んだ人でないと分からない。


 ハイタカというのが主人公であるのは間違いない。




「それってシリーズもの?」


「そうだよ。ほら、映画化された小説だよ。ゲド戦記って言うんだ」


「ハリー・ポッターみたいに魔法使いや箒が出てくるの?」


「いいや、違うよ」


 長々と話が進みそうだった。


「ゲド戦記の世界では魔法は無闇に扱うものではないと考えられているんだ。東で雨を降らそうと呪文を唱えたら西で旱魃が起こっているかもしれない。現実でもそうだと思う」


 蛇はいかにも嬉しそうに本の解説をした。ちょっと話が長そうになりそうだった。




「科学を誤って使えばとんでもない方向へと走ってしまうし、もう二度と足へ向けられなくなる大地もあるかもしれない。便利さと引き換えに何かを失っている。十四歳の僕にはこの小説の思想はかろうじて理解できる程度だね」


 ファンタジー小説なのに理科が何で話題になるんだろう。


 哲学みたいなものだろうか。ちょっと難しそうで真依には解説の意味がなかった。




「他の本で調べたらゲド戦記の世界観には老荘思想やケルト文化や作者のル=グウィン女史のご両親が文化人類学者だったからその関係でネイティブ・アメリカンの思想が織り込まれているみたいだって書いてあった。あと、ハイタカが話した影についてはユング心理学のシャドウという概念じゃないかって河合隼雄先生も述べられている。奥が深い小説だよ。僕にはまだ分からないけれどね」


「私にはその話は難しいよ。私は馬鹿だから。わからなし、飲み込めない」


「真依ちゃんは自分のことを馬鹿って思っているの?」


 蛇が端正な顔を向けて尋ねた。




「真依ちゃんだってコツを掴めばきっと今よりもうまくいくよ。真依ちゃんと話してもそんなに違和感はないよ。真依ちゃんは決して馬鹿ではないよ。僕はわかる。本当に馬鹿な人間はいないよ。本人が自分のことを馬鹿だと思い込んでいる限りはその人はそのときは馬鹿なんだろうけれど、ただの意識の違いさ」


 でも、と声を詰まらせた。


 それから怒濤のような罵詈が自分の中から溢れ出た。




「いいよね。何にも勉強しなくても成績がいい人は生まれつき脳味噌が新鮮なんだよ。お兄ちゃんが言っていたよ。真君って期末テストで順位が良かったんでしょう。すごく悔しがっていたんだよ。お兄ちゃんは中学受験に失敗していて、勉強のことになると人が変わったように堅くなるの。やっぱりあんたはうちの親戚じゃない。お兄ちゃんがぶつぶつと言ってうるさかった。私はどうせ馬鹿だもの。あんたには分からないよ」


「それは自分自身の周りにある幸せに気づいていないからそう簡単に言えるんだ」


 冷たい口調だった。


 先が鋭い針のような冷たい口調。




 蛇は目を潤ませている。


 唇が下に吸い寄せられていた。


 物憂げな少年は上から羽織っていた長袖を脱いで、二の腕を露わにした。


 二の腕に刃生々しい傷跡が残っている。それは彼自身が自らつけたもの……。




「幸福で満たされている人はこんな愚かなことはしないよ。この傷を初めて見たときは驚いただろう。この人何をやっているんだろうって。僕は自分でも分からない。調子がおかしいときはこんな傷をわざと見せて他の人を気味悪がられているし、自分を誇示している。誰かに見せないと気が済まないんだ。そうかと思うと誰かの意図によって秘密がばれると心苦しくなって過呼吸になる。きっと、この傷をいつの間にかつけているのは自分が弱いからだよ」


「頭がいい人は悪い人の気持ちなんてわからないんだ」


 口調が強くなった。


 自分にある劣等感がそうさせていた。




「僕だって不安なんだ。急に背後から影が飛び出すような不安感に襲われたときは、自分でもどうしようもないやるせなさを感じる。僕みたいな愚か者は罰せられなければいけない。誰かの暴力を受ける代わりに自分で自分を罰しなければならないと思うと切っても飽き足らないくらい切り刻んでしまうんだ。切らないと誰を自分が罰するのだろう、と考えて不安になる」


「どうして自分を傷つけることが罰を受けることだと思うの?」


「わからない。ただそう思うだけ」


「ねえ」


 蛇は話の展開が変わったのか驚いた表情をしている。


 母親を待っている幼子のようにただ驚いていた。




「私には顔がないと思う?」


 蛇は特段とその唐突な質問には驚いていないようだ。


 静かな笑みを浮かべて二の腕があらわになった腕の傷跡を静かになぞっている。


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