第20話 夢の中の夢
「もうすぐ夏休みだから一学期の復習をちゃんとしておくように。一年生のうちから対策をしておけば難関校も夢ではないからね。宿題だけでなく自分から予習を続けておけば苦手科目の克服にも繋がる」
数学の先生の子守唄が聞こえる。
必死になって昼寝をしまいと手のひらにシャーペンを突き刺したが、あまり効果がない。
眼を閉じ、まどろんで幼子のように寝ている男子もいる。
目の前に座っている近藤君だ。
近藤君は体育の時間は張り切っているようだけれど、それ以外の授業はまともに受けている姿を見たことない。
午前中にプールの授業があり、楽しい昼休みも終わった鬱陶しい熱気が蔓延する昼下がり、白昼夢に耽るだけが相当に感じる。
視界が溶けた絵の具のように不透明になりゆくのをわずかながら包み込んだ。
溶けた絵の具は真依を哄笑する。
鮮血のような真紅色と、焼け爛れた青い硝子のような群青色のコントラストや、陰鬱なパープルと、二度と戻れない峻厳の森ごときの、深緑のシンメトリーに変わりながら覆われていく。
溶けた色の傘がクルクルと回る。
怠惰に回る時の流れに身を任せながら溶けた絵の具は、クルクルと久遠の知らせを消し去る。
古いアルバム、冷酷な思い出、失われた記憶の残像を消し去りながら、同時に回るほかなかった。
絵の具が均一に水の中で溶け合うと、視界はまっすぐ平らになり淡い光が反射される。
反射された光は目映い鏡となり丸い銀色の奥の円盤は次々と面影を映し出していった。
宙に浮く。
クルリクルリと意思とは無関係に弧を描いて回り続ける。
心が引かれるように回り続ける。
何か得体の知れないものに身を任せることはない。
確信は出来ない、何か。
それが多分この世の中には多く存在していている。
宙に回り続ける。
狂い踊り回り踊る。
静止した。
視界はやがて暗闇一筋になった。
鏡に逆行する光もなくなっていた。
あるのは闇だけだった。
あとは深い沈黙だけ。
私の身体は右往左往しながら、下や上に手や足をつこうとしたが、どれもつくことは出来ない。
ここは奈落の底に等しい。
バタバタされるのをやめると急に丸く縮まった。
胎児のようにそっと。
ここはたぶん母なる海の底なのだろう。
甘美な思い、峻烈な叱責。
蹲りながらパラパラと巡らすと無意識の海に溺れてゆく。
「真依ちゃん」
遠くから声がする。
声まで細く消えてしまいそうな容貌が朧気ながら浮かんでくる。
拗ねた態度。
横暴な口癖。
白蛇みたいななよなよしい細い腕。
フッとこちらを見ては浮かぶ不気味な微笑み。わざとちらつかせたリストカットの生々しい傷痕。
どんな少女よりも長く黒い髪の毛。
それらの残像が波濤のごとく押し寄せてくる。
クルクルと無意識の波に漂っていると宙にはあの蛇が浮かんでいた。
よく目を細めると蛇は白い腕から白い足まで何にも身につけておらず、それが天命の性かのように彼の身体をじっと見つめていた。
何も身に纏っていないのに別段と不思議には思わなかった。白い大理石の彫刻のようだ。
整然と蛇は宙に浮かんでいたが生気に欠け、十四歳特有の若々しさの代わりに、老衰した人間にしか与えられない疎外感がそこにはあった。
白い裸体は希臘悲劇の遠い日の英雄らの面影を宿し、風采には相応しかねない赤い色の唇は少女の淡い砕かれた夢を語っていた。
全てが虚ろな陽炎の果ての妄執だった。
少年らしくない風貌をした裸体にすっかり酔いしれると手を伸ばした。
彼は気づいていた。
少女もまた闇を見つめていることを。
満面の笑みをこぼすと歩み寄った。
ゆっくりと髪の毛を触りながら残酷さと優しさを交互に混ぜるように彼は手を握る。
「……君には顔がない」
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