第13話 傷跡
家から帰ると制服が身体にぴったり喰いこんでいた。
傘を外で水をバタバタと落とし、傘入れに押し込んだ。
靴の底の隅々までびっしょりと濡れている。
この妙な感覚を何というべきか、ドロドロの溶けた大量の昆布を手で掬い取ったときに似ている。
給食の、わずかに残った牛乳で、腐ったミミズのような味がする、昆布蒔きと格闘しなければいけない昼下がりを思わせるんだ。
雨水で靴下が濡れると、そんな昆布蒔きを思い出してしまう。
早速、靴下を脱いで裸足になってみたら、少しは詰まるような不快感が消えた。
「ただいま! お母さんいる?」
誰も返事をする人はいなかった。
先に蛇が帰ってきたのだろう。
なぜなら、蛇が履いている靴が玄関の隅に置いてあったからだ。
中学生にしては珍しい革靴だった。
この靴はきっと蛇が前にいた中学校のものだろう。
しかも、革靴は名のあるブランド物だった。
もしかして、蛇が在籍していた学校って中高一貫校なのだろうか。
脱衣所で制服から私服へと着替えてから二階に上がった。
階段を上ってすぐに目があったのは、先に帰っていた蛇だった。
足早に着替え、青い長袖のシャツに短いジーンズのズボンを着ている。
確かそれは見覚えがあった。
それは紛れもない私の服だった。二日も会ってから立っていない男子が、のうのうと着ているかと思うと、顔が赤くなりそうになった。タンスの中にも絶対に仕舞えない。
当の蛇は文庫本を読んでいた。
視線に気づいたのか、顔を持ち上げたがすぐにそっぽを向いた。
「ねえ、真君! 何で私の服を勝手に着ているのよ!」
蛇は背を向けたまま本を読み続けており、明らかに無視をしている。
中学三年にもなれば、どんなに無愛想な人でもその場を取り繕うことも出来るし、一緒に空気を読んで他愛もなく相手に悪い印象を残さないようにと、ある程度の努力もできるはずだ。
それなのにこの親戚の子はそれが一切出来ていない。
「聞いているの! 無視をしないで話を聞いてよ?」
すると蛇は本を閉じた。
「勘違いしているようだけど、この服は僕のだよ」
「ええっ……」
蛇は立ちあがりまじまじと見て呆れ返った。
「間違いにしては大袈裟な。往生際が悪いってこれを言うのか。人が本を読んでいるのに邪魔しないでくれるかな」
どうしよう。勘違いしていた。
よくよく見れば、蛇が履いていたズボンは一見すると女性用のズボンのようだったけれど、よく見ればただの青くて短いジャージだった。
急に名前も知らなかった親戚の子が来たからって、私の方こそ意識しすぎだ。
たかが親戚の子じゃないか。
「君の兄貴は血捨木光生(ちしゃのきみつお)っていうだろう。今日の休み時間に君の兄貴が僕の悪口をべらべらと話していたから、腹が立ってね。君の兄貴が何を考えているのかは知ったことじゃないけれど、妹の方は何なのだろうね。確か真依って言っていたよな」
蛇ははにかんだようによく笑っている。
綺麗な顔立ちの、自然な笑い方。
長い髪を指でほぐしながら本を抽斗に入れ込んだ。
私はそもそも、文庫本を読むことがないから、抽斗に入れられるほど小さな本を持つことがない。
その光景に心が揺れものがあった。
何をやっているんだ、と思いながら我を抑制した。
己の闇を隠し、血を流すことでしか涙を寄せ付けぬ少年。
赤い唇に鴉の濡れ羽根色の長い髪に深窓の令嬢のような出で立ち。
お兄ちゃんでさえも、絶対に読まない小難しそうな小説を読んでいる少年。
敬語なのか、人を見下しているのか、傍目ではわからない独特の言葉遣い。
常に持ち歩いている透明なナイフの銀の煌めき。
正体不能の遠い親戚の子。
なぜ、蛇って綽名をつけたのかな、とちょっとだけ後悔した。
「まあ、自分の好きなことをすればいいだろう。僕は夕食までには戻るから」
「どこに行くのよ?」
どきまきしていると、蛇は見透かしたかのようにほのかな微笑を浮かべた。
「高原(たかはる)町内の図書館だよ。町役場の近くにあるだろう。福岡の図書館からすれば小さいだろうけれど暇だから行ってみたかったんだ。雨も小雨になっているしね」
蛇は長袖のシャツをめくりあげた。
そして、ポリポリと掻いた。
そこからは生々しい傷跡が見えた。
「良かったら一緒に行くかい。あのうるさい光生もそろそろ帰ってくるだろうし、あんなやつとは接したくもないから。幸い図書館は調べてみたら遅くまで開いているらしいから。確か6時半まで。田舎のわりには遅くまで開いているようだね。行きたくなかったら行かなくてもいいよ」
「あまり図書館に行ったことがないけれど、私も一緒に行ってもいい?」
「いいさ。勝手に行けば?」
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