第12話 能面


 当の本人は知らんふりをしたままだ。


 まっすぐ前を向いたまま黙って歩いている。


 少し歩調が速くなってきた。


 空耳だったのだろうか。


 また昨日のように屁理屈をこねられても困るので、それ以上は介入しないことにした。


 セーラー服の皺を正しながらそのまま沈黙が過ぎるのを待つ。




「あの学校は変だ。我が物顔の鼠が大勢棲みついている。見ているだけでも鼻の奥から腐ってしまいそうだ。僕はあんな人間を一番軽蔑する。これじゃあ、福岡の学校と変わらない。数倍も疲れそうだ」


 人間を鼠に例える人も珍しいけれど、小難しい言葉を操って自分を誇示している人もまた珍しい。


「あれはすぐにたちの悪い攻撃を蒸し返すのが、常のようで。じわじわと僕の心にナイフを刺すんだ。刺されると獰悪な猛獣の餌食と化す。容赦なく喰いつき裂く。昨日も同じことを言ったけれど、弱肉強食という掟は本当に恐ろしいよ。福岡の学校もここも一段とそれが強いようだ」


「それって真君がいじめられていたっていうこと? それで転校してきたの?」


 素っ気なく答えたのも、今となっては分からない。呆れてつい本音が出てしまったのだ。




「そういう意味ではじゃあねえよ!」


 いかにも不愉快そうな答えが返ってきた。




 白蛇には珍しく若者言葉登場。


 こいつはどこか他の人と違う。


 何か違う。


 根底にあるものが違う。


 蛇の白い肌は高揚して赤くなっていた。


「いじめでくくられるほど僕は馬鹿じゃない。君と話して無駄だよ」


 次第にむかむかしてきた。


 彼の口達者で横暴な態度に次第にイライラしてきたのだ。


 難解めいた語彙を豊富に操り自分を出来るだけ誇示していたが、逆に明らかな上目遣いにしか感じられなかった。




「そんな言い方はないでしょう。小難しい言葉を操って自分を優位に立たせようとしているみたいだけれど、それは全部嘘よ。本当は自分の弱さを隠しているだけなのよ!」


 自分が吐き出した言葉を耳で聞いているうちにしまった、言いすぎた、と思ってももう遅い。


 その注意は脳裏を掠めただけだった。




「君のそういう態度が愚かだ」


 蛇は昨日見かけたあの能面のような顔になっている。


 この血の気がない能面の顔だ。


 生きているのかさえ判別不可能な症状が全くない顔。




 自分から溢れ出る生気や感情の諸々を拒絶し、生きることを躊躇っている。


 心に隠している闇を誰かに見せることを拒んでいるんだ。


 もっとややこしい裏がある。




「あんたって絶対おかしいよ。普通に話しかけただけなのに、勝手に一人でキレて赤ちゃんみたいに泣きじゃくって、それと偽善者って何よ。初対面の人に向かって普通は言わない。失礼に聞こえるかもしれないけれど、あんたってかなり普通の人と違うよ。変なのはあんたの方だ!」


「あの女もそう言っていた。今の君のように」


 そのひんやりとした口調に一瞬ひるんだ。


 あの女って誰?


 蛇が自分の身辺について話したのはこれが初めてだった。




 あの女って蛇の元カノのこと?


 まさかあんなやつに彼女なんているわけない。




 遠くで踏切のカンカンとなる音がする。


 ここから踏切は随分と遠いはずだったがかなり近くから聞こえているような気がした。


「あの女って誰よ……。ねえ、教えてよ」




「君には関係ない」


 蛇は一目散に駆けだしてしまった。


 小雨が徐々に強くなり勢いを増してくる。


 梅雨の長雨は気まぐれな少女の心のように強弱を繰り返しながら、降り注ぐ。


 次第に強まる雨の中、路地の彼方へと消えて行った。


 雨粒が次第に大きくなり、髪の毛に小さな雫ができるまでの霧雨が降ってきた。


 心の中で何かが大きく揺らめいたような気がした。


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