第6話 セイレンの涙
あれは誰かな、と思う。
この地上の世界で人は誰と愛し合い、傷つき、すれ違うのだろう。
多くの通り過ぎる人々を前に、どれだけの本音とは違う言葉の数々を口にしただろう。
これから会う夢の人とはそんな煩わしいことがあるのだろうか。
白い腕が麗しく、彼自身が夢物語の主人公だった。
半裸に近い身体から垣間見える痛々しい腕にある生傷は、溶けた杏の汁のように輝き、夕影に照らされたセイレンの涙を象徴している。
真珠色の衣装を身に纏った少年は、まるで完璧に設計された塑像のように憂いに満ちていた。
手元にある善と悪を見定めた呪われたナイフで片方の手を弄んでいる。
スパークのように煌めきを放つ、ナイフはくるくると回り、少年は淡く満ちた赤い色の唇でその切っ先に静かに接吻した。
赤い唇は何も滴らなかった。
少年は真珠色の衣装をゆっくりと脱ぐと、ほぼ裸になって、その潤んだ瞳でこちらを見つめる。
視線は自然と繋がり、私たちは互いに失ったものを求め合っていた。
彼はすでに去った季節を恋しがり、涙で人の目を引く術しか彼には残されていない。
生涯で唯一の相手と決めかかった者を愛するあまり身を亡ぼす、ナルキッソスのように紅蓮の炎の如く、生さえも掌握していた。
少年はゆっくりと近づいた。金縛りにあったかのように私は全く動けなかった。
虚構の中で淡い時を刻んでいった。
「これは涙だよ」
美声とともに銀色のナイフは少年の中で踊った。
その光景も常であれば気味悪く見えるはずにも関わらず、それどころか、心の底まで酔いしれそうだった。
拒み続け嫌悪していた女の深い闇は、月の血の涙に操れられる。
真紅の血の涙は月の満ち欠けとともに訪れる女という性の血の涙と同じだった。
少年は手を、赤く染まったその手で掴んだ。
少年の闇から滲み出した血が落ち、溢れんばかりに手を覆う。
まるで秋の墓場に咲く彼岸花のように、また晩秋に散る真っ赤な紅葉のようにそれは手の奥まで溶け込んでいく。
哀しみをすべて無残に吸い寄せて。
視界を失い、我という存在がわからなくなる。血の赤さに目が眩めば、嘘のような明るい朝だった。
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