第2話 会いたい

 ——昭和十八年 五月

 朝風は父の書斎に呼び出されていた。

 「父上、今日はどのようなご用件でしょうか」

 会議机を挟み正面に座るように指示され腰を下ろすと父はどこか申し訳なさそうに話を始めた。

 「海原の一族としても親としてもお前を庇いきれなくなった」 

 開戦以降ずっと戦争や外国に関する話題を避け続けていた事に父は最初から気づいていた。

 大学の講義を終えるとすぐに帰宅し自室に篭る自分を良く思わない周囲から父が庇ってくれていた事を察した。

 申し訳ない気持ちでいっぱいで頭を下げることしか出来なかった。

 「申し訳ありません父上」

 「いいんだ。お前が塞ぎ込んでしまったのもキャロルちゃんとの別れがきっかけなのだろう?」

 遠い目をした父は咥えた煙草に火を付けて吸い、ふぅ……とゆっくりと息を吐くと重そうに口を開いた。

 「あの夏、一方的に契約を打ち切り帰国させたのは私だ。 軍部の米国との開戦計画を小耳に挟んだのでな」

 父の衝撃の告白に朝風は驚きを隠せなかった。

 もし父がキャロルたちを帰国させなければ敵国の人間として今頃は……

 それ以上考えるのをやめた。考えたくなかった。

 朝風のそんな心を知ってか知らずか父はこちらを向き直り言葉を続ける。

 「敵国人を庇った私に言う資格は無いのかも知れないが、朝風に愛国の心があることを証明しろとの声をもう抑えきれなくなったのだ」

 父は使い込まれた艶の良い鞄から書類束を取り出し机に置くと一枚の紙を朝風の前に差し出す。

 署名欄には大日本帝國海軍の文字と誰かのサイン。

 「軍部への伝手で欠員の出た戦艦の少尉枠を貰ってきたから行って来なさい」

 「はい、父上。 ありがとうございます」

 自分を、そしてキャロルを庇ってくれた父の頼みを断れるはずもなく震える手で書類を受け取る。

 「うちの会社も建造に携わった艦だがあれが沈む事などあり得ないから安心しなさい。 そして戦争を終らせて迎えに行ってあげなさい。 あの国に」

 「はい、父上。 必ず!」

 一刻も早くこの争いを終わらせて迎えに行ってやろう。

 国力差を考えれば壊滅的な敗北の未来しか見えなかったとしてもそう自分を鼓舞することでしか生きられないと思った。

 覚悟を決めた朝風は書類を手に自室へ戻るのだった。

 

 ——昭和十八年 八月

 先日二十一歳の誕生日を迎えた朝風は正式に海軍少尉としての任を拝命し、乗艦していた。

 「ここがトラック島か……」

 重たい鋼鉄の扉を開けて甲板に出ると一面に広がる透き通る海と青い空。

 遠くに見える小さな浜辺がキャロルと遊んだ思い出の浜辺と重なった……


 海で遊びたいと数日前から言われ続けてきた朝風はキャロルを連れて海原家が管理する浜辺に来ていた。

 荷物を置いてくると言い、小さな小屋へ走っていくキャロルを見送ってもう十五分は経つだろうか。

 「ア・サ・カ・ゼ」

 いつもよりも少し挑発的で、とても楽しそうな声をかけられると同時に背後から両手で目隠しをされる。

 「荷物置くだけで十五分も待たされたうえに今度は何のイタズラだよ……」

 「私が開けていいって言うまで目を閉じてなさい? 良いわね?」

 朝風の抗議は完全に無視して目を閉じさせると目隠しした手を下ろし朝風の正面に立つ。

 「もう目を開けても良いわよ」

 目を開けると赤い2枚の布を胸と腰に付け、お腹を大胆に見せたキャロルの姿があった。

 出会った頃とは違い女性らしさ溢れる体型になったキャロルの水着を纏った胸元に、腰元に、見せつけられたお腹に朝風は目を逸らせなかった。

 私の魅力に悩殺されなさい!

 キャロルは言葉に出さなかったが朝風はその視線に隠された意図に気づいていた。

 そんなドヤ顔でこっち見んなよ……とっくに悩殺済みだと知ってる癖に……

 朝風もまた視線で訴えかける。本当の気持ちは言葉にせずに。

 「そっちの国ではそういう水着が流行ってるのか?」

 「まだ最先端ってトコかしら。 アサカゼの為に持ってきたのよ?」

 キャロルは目を逸らし頭を掻く朝風を心底不満そうに頬を膨らませ睨む。

 「そうだったのかー。 嬉しいー。 とても素敵だー」

 朝風は棒読みで適当に言う。嘘偽りない本心を冗談のように。

 「あんた絶対馬鹿にしてるでしょ? してないとは言わせないわ!」

 キャロルもまた朝風の言葉の意図を理解したのか白い頬を赤く染めて照れ隠しするように朝風を引き寄せ夏の海に倒れ込んだ。

 密着すんな……色々当たってドキドキするだろ……


 朝風はそんなある夏の一コマを戦地の海を眺めて思い出していたのだった。

 もしもまた、キャロルと美しい浜辺で過ごすことが出来たのなら素直に言えなかった言葉を伝えてやろう。

 素敵だ…… 大好きだ……

 来るはずのない日を求めて夢に縋ることしか朝風には出来なかった。


 ——昭和二十年 四月

 この日、朝風を含む乗組員たちは甲板に集合していた。

 もう皆分かっていた。 これから伝えられる命令を。

 きっともう各々の場所へ帰ることはないのだと言うことを。

 命令が伝えられた後、乗組員たちは甲板から遠く離れた故郷に向かって帽子を振り別れを告げた。

 朝風は誰に別れを告げることもなく誰もいない執務室へ戻った。

 椅子にどかっと腰掛けると背もたれに背中を預け胸のポケットに手を入れる。

 開戦を知ったあの日から肌身離さなかった一枚の写真。

 もう戻らない時を、もう見れない姿を、もう聞けない声を思い出す。

 朝風は最愛の少女に心の中でも別れを告げることはなかった。

 ただ頬を伝う雫を気にすることもなくじっと写真を見つめていた。

 

 ——翌日 午後

 朝風は甲板でいくら消せども際限ない消火作業に追われていた。

 直上からの爆弾、海面を走る魚雷、飛び交う戦闘機の機銃掃射。

 炎に呑まれる洋上の城はもうそう長くはもたないと直感的に分かった。

 今日で全て終わるのだな……

 心の中でそう溢した刹那に眼前の空間が爆ぜ後方に吹き飛ばされる。

 目を開けると数秒前まで自分の居た場所には穴が開き、赤く炎が揺らめいていた。

 朝風はもう立ち上がることも出来なかった。震え痛む腕に力をこめて胸から写真を引き抜く。

 「さよなら」

 大切に愛おしそうに胸に抱え一言だけ溢すと目を閉じた。

 ふっと身体が軽くなり痛みが消え意識が消えた。


 ——昭和X年

 全身が痛い。辺りがなにやら騒がしい。

 誰かがないている……女の声……?

 艦に乗っているのは全員男のはず。何かがおかしい。

 不思議に思い重たい瞼を開く。 

 すると視界に飛び込むのは懐かしい異国の少女。

 何度会いたいと願ったかも分からない最愛の人。

 「キャロ!」

 朝風は痛む身体も気にせずバッと起き上がりキャロルを抱きしめた。

 なぜキャロルがいるのか。ここがどこなのか疑問に思うより早く。

 「アサカゼ……苦しい……」

 キャロルは別れの時と同じ泣き腫らした顔で、でも少し嬉しそうな苦笑いを浮かべて抱き返してくれた。

 しばらくキャロルを抱きしめていた朝風が我に返り視線をあげるとこの場所が生家の屋敷であると気づく。

 「朝風様、お身体の具合はいかがですか?」

 突然聞こえてきた声に朝風はキャロルから両腕を離し距離を取る。

 声の主に視線を向けると微笑ましそうにこちらをみているよく見慣れた使用人。

 「全身が痛みますが大きな怪我はないようです。 それよりもなぜ俺はここに?」

 意識が途絶える前は致命傷を負っていたはずの身体に大きな傷もなく、そもそもなぜ屋敷にいるのかも理解できない。

 「あんた覚えてないの……? 私の目の前で階段から落ちて二日も眠っていたのよ」

 使用人に声をかけられ突き飛ばすほどの勢いで体を離したことが不満なのかそっぽを向いていたキャロルが心配そうに振り返る。

 階段から落ちたことなんて十六の誕生日直前の一度しか無いぞ……?

 昔と変わらぬキャロルの姿。屋敷の階段での転落……まさか。

 「今年は昭和十三年……ですか……」

 「はい、本日は昭和十三年の七月五日でございます」

 そのまさかが起こったようだ。

 帰ってきたのだ。 終わりが始まるその前に。

 変えてやる。彼女から笑顔を奪った開戦の歴史を……

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