価値を叫ぶハラワタ

 価値が欲しい。

 そう、価値が!

 価値が、価値が、価値が、価値が! 

 価値が!

 欲しい!

 

 渇いていた。

 喉を潤す水を求めるように、ひりつく熱さが身体中を蝕んで、ハラワタを苦しめた。

 鼓動が痛い。どこもかしこも痛い。

 ハラワタは息を荒くし、目を堅く瞑る。

 思い起こすのは跪いて祈り、身も心も神に捧げる母の姿。

 母を罵る父親の振り上げて止まった拳。

 母を蔑む他人の目。

 それがハラワタにとっての原風景だ。

 母の生き方をせめてハラワタだけは肯定しようと思った。

 

ーーそれが間違いだと気づいたときにはもう遅かった。


 はっきりするまでは、正と誤の境界線は混濁としている。

 降り積もった綻びは底に沈殿していくのに。

 降りしきる雪の日に、母は公園のヒマラヤ杉の木に首を括り付けた姿で発見された。

 眼前に突きつけられた真実は、ハラワタの全てを否定した。

 罵詈雑言を浴びせていた父や世間の目がハラワタの心臓に突き刺さった。

 心臓から滴り落ちる痛みは、一生消えることはないのだと悟った。

 ハラワタは神を憎み、宗教を憎んだ。

 憎んだところで、無意味だった。

 気づけば、底辺である。家も家族も金も職もない。年も重ねすぎた。

 無能な自分。誰にも必要とされない自分だけが残った。

 ハラワタは自分が今まで見過ごしていたものを求めた。

 神以外の誰かに、自分の居場所を。

 必要ではないと思っていた自身の価値を求めたのだ。


 価値が欲しい。

 そう、価値が!

 価値が、価値が、価値が、価値が! 

 価値が!

 欲しい!


『死ね』

 人が行き交う雑踏の中で、ふと聞こえた。

『なにあれ恥ずかしい』

 郵便ポストの口から。

『あはは見ろよあいつ』

『ばーか』

 ポプラの木の根元から。

『消えろ』

 スマホにUSBアダプタを差し込んだ場所から。

 いたるところから、嘲笑が。

 暗号のようにぶつぶつとつぶやく声が。

 ふと衝動が、身体を支配した。

 叫び声をあげる。

 ショーウインドウのガラスを蹴りつけた。

 サインスタンドを手に取る。

 振り回そうとしたとき、後ろから誰かにおさえつけられた。

 振りほどこうとがむしゃらに抵抗する。

 見上げた人の輪郭が、肩越しに見えるスクランブル交差点の点滅する信号が、ぐにゃりと形を崩す。

 火花がハラワタの目の前で瞬く。

 音が吸い込まれるように消えて。

――目を覚ますとハラワタはベッドの上に括り付けられていた。

 糞便が溢れる感触とズボンの中から漂う悪臭がハラワタを惨めにさせた。


 何日もぼうっとしていると、やがて拘束はほどかれた。

 誰かと談話する気にはなれず、テレビの前に置かれた本を無造作に手に取る。

 最初はぱらぱらとめくっているだけだったが、気がつけば夢中で読んでいた。

 ハラワタを夢中にさせたのは『異世界転移』『異世界転生』というジャンルの本である。

 どこまでも主人公に都合が良い世界、荒唐無稽な世界が展開されていた。

 それはハラワタにとって、五臓六腑にしみるものだった。

 現実逃避だとわかってはいても、その物語の数々は、ハラワタに希望をもたらした。

 ハラワタはいつしか読むだけではなく、別の世界がもしもあったら、と妄想し文字に書いて具現化するようになった。

 祈りの代わりに得た、ハラワタの価値だった。

 ハラワタはただ没頭した。

 入院中はえんぴつで思うまま書きなぐり、退院したあとはバイトをする傍らネットで異世界転生小説を毎日書き連ねる。

 ハラワタは作業に没頭した。

 誰にも迷惑を掛けず、思うがまま、わがままに、自分という存在の価値を妄想できたから。

 小説を書いているときだけは、どんな声も聞こえてこなかった。

 自分より遥かに年下の子にあごで使われたとて、他の同僚とあからさまに差別した対応をされたとて。

 

 あるときハラワタが書いた小説のPV数が跳ね上がった。あるレビューが引き金になったらしい。

 瞬く間にブクマ数が増え、ランキングに名前が載った。

 出版社から声がかかり、世間からの賛美が聞こえるようになった。


 ハラワタが求めていた価値が、眼前にあった。

 妄想ではなく、現実に、世間が認める価値はあった。

 眼前にある価値を見て、ハラワタは、自分は嬉しいはずだと思った。

 おめでとうという感想に作者レスをしようとして開いていたパソコンの画面がぐにゃりと形を崩した。


 嘔吐していた。

 価値ができたのに。

 価値が生まれたのに。

 なぜだ。

『価値が欲しい!』

 と叫ぶ声が止まらない。

 これは誰の声だ。

 ハラワタにはもう価値はある。なのに、誰がまだ叫ぶ。なにを叫ぶ。なぜ叫ぶ。


 母を殴る父親の叫び。

 母を罵る世間の声。

 母を殺した宗教指導者の祈り。


 首を括り付けた母の姿が!


 ハラワタが求めるものは、

 ハラワタが求めていたものは、

 母を殺したものではないか!

 

 母を、ただあの愚かでどうしようもない母が、ただ幸せになれる世界はいったいどこにあるのか!


 価値が欲しい。

 そう、価値が!

 価値が、価値が、価値が、価値が! 

 価値が!

 欲しい!


 

「また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』」 (ヨハネの黙示録21:3、4)文語訳

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レインブーツを履いた猫とブーツで散歩する犬 金木犀(๑'ᴗ'๑) @amaotohanabira

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