信念の源(リライト版)


「さっきの、最低ですよね」


 一緒に包布交換をしているときだった。

 黒岩は向かい側で布団を整えながら、突然、吉田をなじりはじめたのだ。


「優しい人だと思ってたんです。でも、自分より下だと思う人には強気な態度になる人だったんですね。なんか、そういうの気持ち悪い。ちゃんと見てましたよ」


 まだ二十歳になったばかりで、小顔の、十人男がいれば八人は振り返るような整った顔立ちの女の子だ。


 その顔で、幻滅したという表情をされると、結構な破壊力があった。


 どうやら、先輩の同僚に口答えをしていたところを見られたらしい。

 迂闊だったな、と吉田は思う。

 いつもなら、その先輩と、二人きりのときにしかしないことなのだ。


 先輩は、正看護師の資格がありながら吉田と同じ看護補助として働いている。


 理由は、仕事ができないからだ。

 単純作業でさえ、ミスが目立つので、こちらが常にフォローをしなければならない。それが原因になり、いつも誰かに陰口を叩かれているような人だった。


 後輩の黒岩も、看護学校を退学している。指導を受けていた看護師からのいじめを受けたらしい。今はその将来を諦めこうして働いている。だからこそ、許せなかったところがあるのかもしれない。 


「そうか。気をつけるよ」

「そうか、って……それだけですか」


 黒岩は肩を怒らせて立ち上がり、吉田に背を向けた。


「もういいです」



 昔から、誤解を解くのは苦手だった。特に親しい相手となれば尚更だ。


 そのことに関連した思い出が不意に蘇ってきたのは、黒岩に問い詰められたことが原因かもしれない。


 もう、二十年も前のことになる。


 休日。

 当時6年生だった吉田は、いつものように、親しくしていた幼馴染の少年と彼の妹を引き連れて、近所の子どもたちが集まる小学校へと向かった。


 校庭にあったサッカーボールを誰かが蹴り始めたのがきっかけだっただろうか。


 いつのまにか試合が始まり、紅一点となった彼の妹は果敢にパスを出してはミスを繰り返し、怒涛の勢いで走り迫ってきたかと思えばドリブルをしていた味方のボールを奪って敵に献上していた。


 雰囲気が悪くなったことを察した吉田は、活躍できるようサポートしてあげないか、そっとチームメイトに耳打ちをしようとして――殴られたのだった。

 殴られた頬を押さえて、顔を上げると対面に立っていた幼馴染は身体を震わせ怒っていた。


「今、おまえ、そいつに、なにを言ったんだよ」


 返事しようと、ピクリと唇は震えたが、そのまま吉田は口を固く引き結んだ。


――あのとき、なぜ違うと言えなかったんだろう。




「うぅ、うぅ、どうしたの?」


 きょとんとした顔の老婆に声を掛けられて、吉田は焦点の合っていなかった目を見開いた。

 首を傾げる。

なぜ今あんなことを思い出したのだろう。


 朝の洗面の時間。

 各患者の病室を回って顔を拭いているところだった。


「ごめんごめん。なんでもないよ。柳沢さん、おはよう。はい顔拭くね」

「そう? うぅ、うぅ」


 袋からおしぼりを取り出し、仰向けになって両手を高く突き出して唸っている老婆、柳沢さんの顔を拭いた。


「はい、終わり」

「うぅ、うぅ、ありがとう」


 柳沢さんは目元を緩ませ、歯を見せて笑った。

 柳沢さんが笑うのは、実は珍しい。

 普段は厳しい顔で奇声を発し、唸っている。

 今も歯を食いしばり、上体を起こしながら、高齢の、女性にしては血管の浮き出た二の腕を天井に向けている。

 

「じゃ、また来るね」


 ベッドに寝かせ、伸びた腕をゆっくりと撫でてから、そっと下ろす。


「うぅ、お兄さんって、うぅ、優しい人だね」


 さっさと次の患者のもとへ向かおうとする吉田を引き留めるように、ぽつりと、柳沢さんは言った。


「……別に、優しくないけど。ありがと」


 仕事だから当然だ。お金を貰っている。吉田はそう思い苦笑しつつ答えた。


「……そっか。うぅ、うぅ、優しく、うぅ、ないんだね。優しい人って、うぅ、自分のこと優しいって、うぅ、言わないね」


 なんの打算もない返答に、吉田は虚をつかれたような気持ちになった。



「うっ」


 オムツ交換のため、吉田が患者を連れて部屋に入ろうとしたとき、後ろから声が上がった。

 振り向くと、黒岩だった。

 眉をしかめていた。


「あ、この人はいいよ。それより、奥の人浣腸したみたい。もう良いと思うんで、看護師さんと一緒に入ってください」


 と言いつつ、吉田が今連れてきた患者も、病衣からつなぎに着せる作業があった。


 うまくやらないと抵抗されて厄介なことにもなるので、できるなら二人で入ったほうがいいだろう。


 一緒に作業をしてからでも遅くはなかった。が、相手を気まずくさせてまで一緒にやる必要もないと吉田は判断したのだ。


「は、はい」


 黒岩はしわが寄っていた形の良い眉を緩め、あからさまにほっとした顔を浮かべていた。


 入社時から付き添い指導し、ちょっとした縁もあって、それなりに打ち解けていると思っていた相手だ。今度飲みに行きませんか、などと言われたりもしていたのだが、時間が合わず保留にしたりもしていた。


 それが今や険悪な関係になってしまったのは吉田だって思うところはある。


 気を取り直し、患者をベッドに移乗し病衣を脱がしていると、看護師を連れて黒岩が戻ってきくる。

 楽しそうにおしゃべりをしながら、四人部屋の左奥ベッドのカーテンを閉めた。


「おう」


 すると入れ替わりに、くだんの先輩が入ってきた。無言で患者の背中を支えてくれる。


「ありがとうございます」

「……おう」


 不愛想な顔が唇を突き出してそっぽを向く。

 先輩が戸惑ったり、照れたときにする仕草だ。

 一緒に患者を仰向けに寝かせると、向こう側の看護師が「あれ?」と何かに気付いたようだ。


「あらやだ、なにこの顎髭。縞模様になっていて中途半端。さすがに酷いわ」

「あ、これムネさんですね」

「やっぱそうなの。もう困ったわね。この前も、あの人が当てたオムツが漏れていて……」


 ムネさんとは先輩のことである。

 先輩が入ってきたことに気付かなかったのだろう。二人は悪意なく先輩のことを話の種にしていた。


「もう四十過ぎでしょ。こんなんじゃだめね。本当に困った人」

「……あの人って、奥さんいるんですか? 想像できないですけど」

「独身よ、独身。確かお母さんと実家暮らしだったわ。お金はあるんだろうけど、やっぱねぇ。そうだ。あなたまだ結婚してないわよね。あの人どう? お金はあるのよ。看護師と同じ給料もらってるんだから」

「……え、えぇ。それは、ちょっと、無理ですね。性格とかもそうですけどあの人の匂い加齢臭が――」

「そういえばムネさんこの前おれが白衣出し忘れたとき気付いてくれてありがとうございました」


 吉田が先輩に話しかけると、二人はピタリと会話をやめた。


「……」


 先輩はなおも黙ったまま、尿取りパットをクローゼットから取り出す。

 気まずい雰囲気だ。

 吉田も先輩に倣い、受け取った尿取りで陰部を包み、ガードを当て、ズボンを履かせる。

 そのまま部屋を出て、吉田はオムツカートに回収したオムツを放り捨てた。


「……この前、悪かったな」

「はい?」


 ポリポリと頭を搔きながら、やはり吉田からは視線は逸らしたまま先輩は続けた。


「……なんでもねぇ。じゃ、俺、髭剃り続きやってくるから。あなたは、ステーションのゴミとか集めてくれるか」

「わかりました」


 足早に去っていく先輩とまたもや入れ替わりに、部屋の扉がスライドする。


「……うっ」

「いやぁ、居たのね彼。気付かなかったわ」


 あっけらかんと笑う看護師に、気まずそうに肩をすぼめる黒岩。


 吉田は、黒岩に向けひらひらと手を振った。気にするな、という意味のつもりだった。

 すると、ムッとした顔を黒岩は浮かべた。

 ジト目で吉田を睨んでくる。

 不思議に思って見つめ返すと、なぜか、黒岩の首から上がボンと茹だつように赤くなった。

 慌てた様子で華奢な背中が遠ざかっていく。


 何かを言いたげに爛々と吉田を捉えた彼女の瞳。

 口を噤んだ姿。

 

 やけに瞼の裏に焼き付いて離れず、吉田は髪をくしゃくしゃと掻いた。




「柳沢さんが、喉を詰まらせたみたい。暴れてるから、早く来て!」


 ピッチを受け取り、全速力で部屋に向かう。

 すると、吉田の顔を見た柳沢さんはピタリと抵抗をやめた。吸引が終わると、


「うぅ、うぅ。お兄さんの、姿が見えたら、うぅ。なんか、安心した」


 無邪気な笑顔だった。そのまま目を閉じ、すぅと寝てしまった。


「……いや不思議ね。さっきまで手が付けられないくらいだったのに」

「相性、かしらね」


 看護師の呟きに、そうですね、と頷く。


「しかし、ミキサー食でも……。もう長くないのかもしれないわねえ」


 それから数日後のことだ。


 肺炎になった柳沢さんはそのまま意識を失い、脳死を経て、静かに息を引き取った。


 エンゼルケアをするために、看護師と一緒に処置に入る。

 まだ体温の残る柳沢さんの身体を、固く絞ったタオルで、丁寧に拭いた。

 化粧をし、着付けを整える。

 こういうとき、看護補助で良かったと思う。

 人生という戦いを終え、魂を失った身体に、精一杯の敬意を示すことができるからだ。


「ありがとうございました」


 葬儀社の車に遺体を載せ終えると、柳沢さんの兄が深く頭を下げた。


「こちらこそありがとうございました」


 他の職員と一緒にお辞儀を返す。

 泣き出す職員もいた。

 柳沢さんは手のかかる患者さんだったが、それだけに職員全員の印象に残る人だった。

 見送ることは慣れているとはいえ、もう会えないと思うと、誰しも辛いものだろう。


 見送りを終え、霊安室の掃除に入ると、写真立てがポツンと取り残されていた。

 忘れ物だ。

 若いころの柳沢さんと、そのご主人との写真だ。


「いい写真だね」


 ベッドの上にいつも置かれていたので、いつか吉田はそれを手に取り、柳沢さんに見せたことがある。

 すると、柳沢さんはスッと表情を無くし、言葉もなくじっと見つめていた。


――なぜあんな表情になったんだろうか。


 こちらの胸が痛くなるような表情だったことを思い出しながら、掃除を終えた。

 写真立てを忘れず持ち、霊安室から出る。

 まだ、柳沢さんの魂が残っているような気がして、吉田は振り返って、扉の前で一礼した。


 その日の夜。


「ん?」


 前夜の仕事を終え、病院の裏口の扉を閉めたとき、スマホに着信があった。

 たすき掛けした鞄から取り出してみると、「葉月 葵」からだった。


「あ、とおるにぃ? 今仕事終わったかな? 暇だったらちょっと飲まない?」


 電話に出ると、聞き馴染んだ明るい声が耳に当たる。


「わかった……葵の店に行けばいいのか?」

「違う違う。ガールズバーで今飲んでるの。場所送るからさ、ちょっと来てよ」

「ガールズバー? なんでまた、あ。……もしかして」

「ふふっ、察してくれた。言っとくけど、私の名前は翼だからね。知り合いの前で本名とかNGだから。そこんところよろしく」

「……そういやそんな名前だったな」



 駅前の、居酒屋やバーなどが軒を連ねる通りの一角。

 雑居ビルの四階にある店が目的の場所だ。

 吉田はエレベーターを使わず、階段を一段一段上がっていくことにした。

 シューティングバー、キャバクラや、ホストクラブ、スナックなどの店内の様子を、入口から一瞥する。

 スナックの常連客だろう。音程は外れていても気持ちよさそうに歌う声が廊下まで響いていた。

 その声を聞いているだけで、吉田は自分まで既に酒を飲んでいるような気分になる。

 目的の場所にたどり着き、入口のドアを開けた。


「あはは~よしらさんらああ!」


 すると、ショットグラス片手に、カウンターへ突っ伏してくだを巻いていた黒岩が顔を上げた。


「なんれここにぃ?」


 吉田に気が付いて椅子から立ち上がるやいなや、膝から崩れ落ちる。隣で飲んでいた女性が慌てて黒岩の脇の下に腕を差し込んでいた。相当酔っぱらっているようだ。


「とおるにぃ、手伝って……」

「お、おう」


 支えている女性に促され、吉田は駆け寄って黒岩を椅子に戻すのを手伝う。


「おっかしいぃな、ぜんぜ~ん酔っれ、ないんれすけろへえ」

「完全に酔っ払いの発言だっつうの」


 幾分体が密着しているのを恥ずかしがり、離れようとする吉田のショルダーベルトを黒岩はぐいっと引き寄せ、頭を吉田の肩にグリグリと押し付けてくる。


「えぇ~、もう、ぜんぜん、こんくらいの、お猪口みらいなコップれすよ。こんなのいくら飲んらっれ……酔っらりなんか、すかー」

「……寝やがった」


 吉田の肩を枕代わりにして、黒岩は心地よさそうな顔をしていた。

 仕方なく椅子に腰を下ろす。

 やっていることは酔っ払いの親父と大差変わらないのだが、黒岩は顔が整いすぎている。

 カウンター越しに立つ店員も同じ格好をしているので、ユニフォームなのだろう。

 彼氏シャツを連想させる白いダブダブのワイシャツ姿だった。見える胸の谷間、ホットパンツの露出、女性のにおいに吉田は生唾を飲まずにはいられなかった。

 どこを見ても、どこに触れていても、精神衛生上よろしくなかった。


「なんだこれは。どういう状況だよ」

「見てのとおりだよとおるにぃ」

 

 呼びつけた張本人。

 葉月葵は吉田の後ろに立って、ふぅ、とため息をついた。


「愚痴を聞いてたら、来たお客のお金でテキーラを何杯も何杯も、飲むわ飲むわ。で、その愚痴の原因たるとおるにぃに責任を取ってもらおうかと思って呼び出したの」

「いやおれの責任って。どういうことだよあお――」

「とおるにぃ?」

「……翼さん……」


 縮こまる吉田の反応を見て、葵はマスカラの付いた睫毛を伏せ、手で口元を押さえて笑った。

 ブルーグレーのワンピースが薄暗い照明にあたり、落ち着いた大人の色気を漂わせる。


「なに? じろじろ見て」


 レースとプリーツを混ぜたロングスカートのシルエットがまた絶妙だ。吉田の右隣に腰を掛けるときに揺れ、透けて垣間見える脚がゾクリとするくらい妖艶だった。


「いや、美人になったな葵」

「は? なに、今さら、馬鹿じゃないの、あと翼だから」


 肩を強めに叩かれて、吉田は顔をしかめる。


「痛いんだけど」文句を言いながら自分の赤くなった手をふうふうと冷ます葵の姿は、あの頃と変わらない幼さである。


「それこっちのセリフだからな」


 彼女こそ、吉田をかつて殴った幼馴染の少年の妹だった。 


 あれから年月は過ぎ、葵はキャバ嬢としてこの近辺では女王のような地位を築いていた。今やいくつもの店のオーナー兼バーの店長として働いている。

 黒岩とのちょっとした縁というのも、昼休憩の時、駅前にある彼女の店に行ったことを話題にしたことがきっかけだ。

 彼女と吉田が幼馴染だということを話すと、黒岩は目を見開いて驚いていた。

 のちに理由を聞くと、現在黒岩は彼女の経営しているガールズバーに働いていることが判明したのだ。


「とりあえず、なんか飲んでいきなよ。コロナ下で不況だから、じゃんじゃん有り金落としてほしいぶっちゃけ」

「……身も蓋もないことを言わないでくれるかぶっちゃけ」

「あ、でも、とおるにぃお金無いもんね……ごめん」

「……あん? いいだろ、有り金はたこうじゃないの。五千円くらい」

「それ、うちらの感覚だと全然だからね」

「う」

「というか社会人としてその金銭感覚恥じたほうが良いと思うよとおるにぃ」



「そんなこともあったねぇ」


 注がれたワイングラスを傾け、葵は目を細めた。


「あのとき、たしか、とおるにぃ、なにも言わず帰っちゃったんだよね」

「あれ、覚えてたのか」

「ふふ、まあね。あんなとおるにぃなかなか見たことなかったから、印象的だったのかも」

「ふーん」

「いつも穏やかなとおるにぃの顔が険しくなっててさ、とても追いかけられるような雰囲気じゃなかったんだよね。そのあと、勘違いだったとわかった兄貴の狼狽えっぷりといったら」


 目じりに涙を浮かべるほど葵は笑った。


「……なんであのとき、おれ、否定できなかったんだろうな。否定しなきゃって頭では思ってたんだよあのとき。なのに、口から出てこなくて。どうしても、否定できなくてさ」


 ポロリ、と腹の底にあった悩みの種をなんとなしに吉田はこぼした。


「誤解されてたら、解かなきゃいけないよな。じゃなきゃ、一生そのままだったりすることだってある。それが嫌なら、ちゃんと説明しようと努力すべきだった。……なのに、そう思っているのに、口にできなかった。なんでか、今でもそれがわからん」

「そりゃあ、否定したくなかったからじゃないの」


 ワインを口に含んで、コクリと喉を鳴らしたあと、葵は続けた。


「そういうの、あるじゃん。あまりにも思いが強いと、言葉って出てこないもん。あのとき、きっととおるにぃは信じてもらえなかったことが悲しかったんじゃないかな。殴られたことよりも、疑われたことがショックだったんだよ。信じてほしいという気持ちが強すぎて、何も言えなかったんじゃない。殴られた痛みなんて一瞬だけど、そういう心の痛みのほうが、下手したら一生尾を引くものだもんね」


『あまりにも思いが強いと、言葉は出てこない』――吉田の脳裏に、写真を見せたときの柳沢さんの、なんとも言えない表情が浮かんだ。

 あのとき、柳沢さんはどんな気持ちだったのだろうか。

 言葉だけでなく、表情さえも無くすほどの強い気持ち。どれほどの想いがそこにあったのだろうか。

 吉田もカルーアミルクを口に流し込む。

 牛乳の濃厚な味わいのあとに、コーヒーリキュールの香りが鼻を抜けていく。


「飲みやすいなこれ」

「言っとくけど飲みやすいからって舐めてるとめちゃくちゃ回る系の飲み物だからね、ミルクカクテルって」

「ふーん……おかわり」


 カウンターの店員さんに向けグラスを掲げる。カランと氷が音を立てた。


「わらしはねぇ、よしらさんきいへくらはい、わらしはねえ!」


 氷の音に反応したかのように、吉田の肩で大人しくしていた黒岩が突如立ち上がった。あまりの勢いに、椅子が後ろへと転がり派手な音を出す。


「わらしはね、なんれと思っへ、らから、理由をね、聞こうろ思っへ、ひっく、聞いらんれすよぉ。それはね、きつい言い方になっちゃっらかもしれないれすし、わらしらっれ悪いとは思いますけろへぇ、それれも、言い返し、ひっく、くれらっへいいひゃないれすかぁ」


 酒臭い息を撒き散らかし、吉田を見降ろし、語気を強めるとともに顔を近づけて――。


「うっ」


 口元を手で押さえた。


「おいおい、まさかまさか」

「きぼちわる……う”う”おええええええ」



 早退を言い渡された黒岩を背負って下へと降りた。

 路肩に寄せ待っていたタクシーの後部座席へ黒岩を乗せる。


「よっこいしょ」

「……くへぇ、ちょっろよしらさん、襲わないれくらさいよぉ」

「この酔っ払いが……!」


 奥に押し込むとき、寝込みを襲うような体勢になってしまった。赤面する吉田の訴えに「らから、よっぱらっへ……すかー」と黒岩はまたもや寝息を立てて応じてきた。

 やれやれと思いながら、吉田は一緒に後部座席へと乗り込む。


「じゃ、よろしく。襲うなら、覚悟するんだよとおるにぃ。その子の彼氏、プロのキックボクサーだからね」

 

 見送りにきていた葵が手をひらひらと振ってきた。


「げ、おれ帰っていい? 万が一勘違いされたらたまったもんじゃない」

「何言ってんの。この状態の若い子を放って帰るような男じゃないでしょ、とおるにぃは」

「……はあ」

「そういえば小説、今でも書いてんでしょ? 新作できたら読ませてよ」


 葵は口の端を緩めて聞いてきた。


「書いてるよ」

「そう。また本出たら買うから」

「おう」


 吉田が手を上げると、ドアが閉まった。ゆっくりと車が走り出す。

 またもや肩に黒岩の頭が寄りかかってきた。

 わざわざ、反対のドアにもたれかけたというのに。わざとなのだろう、と吉田は思った。なぜそんなことをするのか。あまり深くは考えなかった。


「吉田さん、小説書いてるんれすか。本らしてるって、さっき」


 寝言を呟くように、黒岩が聞いてきた。長い睫毛が伏せられている。


「ん? 聞いてたのか……。あぁまぁぼちぼちやってるよ」

「プロなんれすか」

「一応」

「なんれ、言わないんれすか?」

「え?」

「言え、言えば、みんなから、馬鹿に、されたりしないのに」

「へ」

「もう三十も、すぎてるのに、派遣れきれ……。派遣で、きて。今は正社員れも……れも! ……資格とか、ないし、終わっれるっれ。……みんなから、言われるんれすよ、くやしくないんれすか?」


 そうなのかよ……知らんかった。と吉田は少なからぬ戸惑いを覚えた。恐らくは、吉田がいないときに、話題の種になったのだろう。


「わら、わたしはね、なんかくやしくて……、わたしも、みんなからそういうふうに言われれ、言われてるのかと思うと、悲しくて……それなのに、よしら、ら。よし、ら! さんもムネさんに対してあんなふうになるんらって思ったら、なんか……つい、あんなこと……」

「そうか……」


 なんと返したら良いものかと思案する。

 しかしすぐにまた寝息が聞こえてきたので、そのままやり過ごすことにした。


 マンション前にタクシーが止まり、黒岩を起こす。

 まだ足元がふらついていて危ないので、吉田は肩を貸すことにした。

 一人で帰るなら、そう遠くない場所に吉田の家もあった。タクシー代ももったいない。歩いて帰ることを決めた吉田は、運転手に金を払う。

 黒岩をせっつき、受け取った鍵でオートロックのエントランスを抜け、二階の黒岩の部屋にたどり着いた。


「お、お邪魔します……」


 ドアを開け、近くにあったスイッチを押すと、埋め込み式の照明が灯った。白い壁紙と、ベージュのフローリングが目に飛び込んでくる。


「じゃ、おれ行くわ。あとは、何とか自分で頑張れよ」


 玄関の段差に黒岩を下ろし、退散を決め込んだ吉田だったが、またもや鞄のベルトを黒岩に掴まれてしまう。


「……彼氏から、大阪に行かないかって誘われてるんです」


 酔いはいつのまにか醒めていたのだろう。

 呂律の回っていなかった口から、目が覚めるような真剣な声が発せられた。

 射貫くような、爛々とした瞳が、吉田に向けられていた。


「仕事の関係上、何年か暮らすことになるとかで。同棲しないかって言われてるんです。私、どうしようか悩んでて。このまま、流されたままで、いいのかなって。ねえ、吉田さん、どうしたらいいと思いますか……?」

「黒岩は、どうしたいんだ」

「私は……何回も、それを考えてるんです。でも、何回も考えてるのに、答えが出なくて。逃げ癖ついちゃったからですかね。将来のこと、今、なにも、考えられなくて。なにも、わからなくて」


 くしゃり、歪んだ顔を隠すように俯く。嗚咽を漏らした。涙が頬を伝っている。


「ちゃんと悩んで。偉いな、黒岩は」


 ショートヘアの頭頂部に手をポンと置く。

 黒岩が見上げてくる。

 上目遣いの破壊力。

 思わず、吉田はうめきそうになる。

 赤く腫れあがった目元からなおも涙が流れ……鼻水さえ出ていた。

 馬鹿野郎、嫁入り前の娘がそんな無防備な顔を彼氏以外の男に向けちゃいけません……。


「ほら、これ」


 鞄から取り出したティッシュで鼻水を拭いてやる。そのまま渡すと、黒岩は勢いよく鼻をかんだ。おうおう、いい子だ。


「逃げ癖というけどさ、黒岩。お前、今言ったじゃないか。流されたくないんだろ。それが黒岩の本音だよ。なら、そう思う気持ちに素直になればいい。意地を張ればいいんだ」

「え?」

「おれが、本を出していることを人に言わないのはさ、意地だからだよ。ムネさんと、ああやって口論するのも、おれの意地だからだ」

「意地、ですか」

「本が発売されたとき、お世話になっていた職場の人たちに報告したことがあったんだ。おめでとうとみんなに言われたよ。同時に、本音も漏らしてくれた。ずっと心配していたんだ、とか、いつまでもアルバイトじゃみじめだろうと思っていただとか」


 話すことに集中しようと、ショルダーバックを下ろした。よいしょ、と吉田は黒岩の隣に座り込む。


「おじさんくさいですよ」


 クスッと笑う黒岩の突っ込みに、「うるせえ、おじさんくさいんじゃなくて、もうおじさんなんだよ。子供のころなんか30過ぎたらもうおじさんだったろ」と吉田は返した。足を伸ばし、ぶらぶらとなんとなしに揺らしたあと、口を開こうとした。

 すると、黒岩の膝が、太ももに当たってしまう。慌てて離したのだが、再び黒岩はピタリと膝を当ててきた。


「……」


 え、なにこの雰囲気。どういうこと。

 ピンと背筋を伸ばし、体育座りになる吉田であった。


「それでそれで」


 肩にまたもやもたれ掛かってきた。

 耳元に吐息が当たるくらいの距離だった。まだ酒臭さもあるが、女性特有の甘い香りに吉田の意識がもってかれそうになる。腕のあたりとか、密着度が心なしか上がっている気がした。

 乱れたワイシャツの向こうにある素肌が眩しすぎて、見ていられない。

 いかんいかん。負けるなおれ。

 吉田はATフィールドを展開するイメージで対抗した。

 すると『か、体は近くても! 心の距離は遠いんだからね!』と、ツンデレ乙女口調になった心の吉田エヴァ初号機が頬を染めていた。暴走寸前である。誰か止めてくれ。


「そ、それが普通なんだろうけどな。ファミリーレストランの朝掃除の仕事だったんだよ。キッチンとか、フロアとかに入らず、朝の二時間だけの仕事だった。新聞配達をしたあと、他の仕事にいく合間にしていた仕事だったんだが、そんなことは言わなかったからな。そりゃ、傍目から見れば、さぞ心配されるような感じだったと思う。うん」


 蒸気機関車の車輪のようにどんどん早口になるところが、吉田の暴走状態を物語っていた。


「人ってさ、本当に可哀そうだと思う人には、思ったことを言わないんだよ。対等な相手だと思う存在とじゃなければ、喧嘩もしないし、批判したりもしない。悪口もな。片足を失っている人がいたりしたら、それだけで口を閉ざすように、おれもそういうふうに周りから見られていたんだな、そう思ったんだ」

「……でも、足のことにわざわざ触れて、可哀そう、だなんて不躾なことを言う人がいれば、その人こそ軽蔑しますよ、わたしは」

「普通は、そうだとされるよな。だけど、無難だから、と選ばれたテンプレートな言葉を当事者は喜ぶわけじゃないだろ。むしろ心の中で馬鹿にしている奴より、口にした奴のほうが話すと関心を持ってくれてる。結構対等にこちらを見ていることのほうが多いんだよ。ムネさんも、さ。周りからさんざん言われてるだろ。でも、それをムネさんには言わないよな。話の種にするだけでさ。『ムネさんだから仕方ない』。そんな感じじゃないか。違うだろ、って思う。それは違うだろう、と。相手を対等とみなすなら、直接言えよ、っておれは思う。おれがムネさんなら、絶対嫌だと思う。そして心の中で馬鹿にしたやつは、一生そのままでいろ、って思っちゃうんだよなおれの場合。見返すな、そうやって一生誤解してろよ、と」

「それって意地っていうか、意地が悪いだけなんじゃあ……」

「……おまえ、言葉のナイフ鋭いな」

「だって、それ一歩間違えば、相手をむやみに傷つけるだけじゃないですか」

「……小説を読むのが好きで、いつかおれもこんな小説を書きたいと思って今まで頑張ってきた。頑張ってきた結果馬鹿にされてきたし、むしろプロになってからのほうが、量も質も段違いさ。馬鹿にされることは増えたよ。それがおれの中の世間だからな。だけど、おれはそんな世間の中にいる相手に向けて書いていたんだ。偽らざる本音を言ってくれる誰かに向けて、おれの小説を読んでもらいたいから、面白いと思ってもらいたいから頑張ってきたんだ。それは見返すためじゃない、誰かの本音を否定するためなんかじゃないんだ」

「……なんですか、それ」


 黒岩は呆気にとられたように、口をパクパクと開閉させる。


「小説なんて誰でも書けるし、小説が無くたって人は生きていける。けど、そのときに必要な人に届けばいいな、と思って書いてた。それは、面白いか、つまらないか、なんかよりも、遥かに大事なことだと思う。子供のころのおれみたいに。なにが面白いか、なんてわかるはずもないときに読んだ作品の記憶が今も残ってる。だから、小説ってすごいんだよ。看護補助だって同じだ。誰でもできる仕事かもしれないけど、その向こうには患者さんがいる。世界に一人しかない、かけがえのない人がいる。みんながみんな看護師だったら、回らなくなる部分を、今の自分が補っているんだ。大事な歯車の一つとして、頑張ることを恥じたって仕方ないじゃないか。それは、掃除だって、なんだって一緒だと思う」

「……」

「という、意地なわけだ。意地ってさ、こういう思いが集約されてできるもんだろ。ときにその意地が自分を苦しめ、悩ませてくるもんさ。じゃ、黒岩は? なんで、黒岩は逃げたくない、って思ったんだろうな。なんで今、迷ってるんだ? そこにある意地を、黒岩、お前は考えるべきなんだよ。その意地は、お前の宝物に通じている……かもしれない、知らんけど」


『きっととおるは、小説家になるね。きっとそうなる。そうなると、いいな。吉田の優しい視点が、みんなの心に届く、そんな作品を、みんなに読んでほしいって思うよ』


 吉田の脳裏に、かつての友の言葉が浮かんだ。今は、この世にはいない大事な友達だ。吉田が今も小説を書いているのは、その友との交換小説を今も続けているような感覚だからなのかもしれない。その交換小説で得た幸せを、そのときの小さな花びらのような出会いを、今も大事にしまって、胸にしまって。

 吉田は兼業になった今も、小説を書き続けている。


 ふっと、吉田は我に返り、やけに静かなことに気付く。おそるおそる隣を見ると――

 何を思い出しているのだろうか。ふっと、黒岩も表情を無くし、なにかに思いを馳せていた。柳沢さんの、あの顔に似ている。大事な写真を見せたときの、あの顔に。


「……なんです。そんなに見て」

「いや、なんとも言えない顔だったもんで。すまんな、ちょっと、見とれた」

「……はあ? ば、ばかじゃないですか! それにね、先に吉田さんが、なんか大事なものを思い出したような、すごい、表情してたから。それで私もつられて――」


 黒岩は俯き、丈が長くて手が出ていない袖で自分の表情を隠した。耳まで真っ赤なので照れているのは丸わかりなのだが、吉田は不覚にも見とれてしまった。

 すると、ツイッと、黒岩は上目遣いで吉田を見てくる。

 ――ゾクリ、とするような妖艶な目である。


 潤んだ瞳が、吉田を誘うように揺れる。


「吉田さん。私、今、決めました。自分のやりたいこと、これからやろうと思うこと。はっきりわかっちゃいました。だから、もう一度、挑戦してみようと思います。ところで吉田さん。それは、彼と大阪に行ってもできることでもあるんです。でも――」


 耳元で、熱い吐息のような声で、黒岩は囁いた。


「吉田さん、どうしたら、いいと思いますか」


 クンクンと、吉田の首元で黒岩は鼻を鳴らした。


「私、吉田さんのにおい、好きなんですよね。なんか、とっても、落ち着くー―」


 ピシリと、硬直していた吉田だったが、そんな黒岩の誘いを受けてはもう限界であった。


「黒岩――……!!」


 首につないだ鎖がほどかれたように、吉田は黒岩に覆いかぶさりそのまま――。





「先輩……。その、先輩ってED、だったんですね……私疲れました」

「……ちきしょう……だから嫌だったんだ……!」


 悪戦苦闘した結果乱れたベッドの上で、吉田は屍をさらしたのだった。



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