信念の源
突然、殴られた。
熱くなった頬を押さえて、馬鹿みたいに口を開けてしまう。
目の前がチカチカした。
なぜ殴られたのかわからない。
殴ってきた相手は幼馴染だった。
顔を赤くし、身体を震わせていた。
「今、おれの妹を仲間外れにしようとしただろ」
違う、と返そうとしたはずが、思いに逆らって縫いつけられたように口は動かなかった。
そのまま唇を固く引き結び、目を逸らした。
巻きあがった砂煙に靴が汚れていた。
★
「うぅ、うぅ、どうしたの?」
うぅ、と絶えず唸りながら、きょとんとした顔の柳沢さんに声を掛けられて、我に返る。
手が止まっていたようだ。
「ごめんごめん。なんでもないよ。はい顔拭くね」
「そう? うぅ、うぅ」
朝の洗面の時間。
各患者さんの部屋を回っておしぼりで顔を拭いているところだった。
袋から取り出し、寝ながら両手を高く突き出して唸っている柳沢さんの顔を拭きながら、昔のことを思い出していた。
たしか、いつものように通っていた小学校に遊びに行くと結構な人数がいたので、校庭でサッカーをすることになったのだ。
そんな中、彼の妹は一所懸命走り回っていた。
果敢にパスを出してはミスを繰り返し、怒涛の勢いで迫ってきてドリブルをしていた味方のボールを奪い敵に献上するという、見事なまでに味方の足を引っ張る存在として場を支配していた。
雰囲気が悪くなったことを察したおれは、彼の妹が活躍できるようサポートしてあげないか、そっとチームメイトに耳打ちをしようとしたとき、殴られたのだった。
――なぜあの時おれは、違うと言えなかったのだろう。
「はい、終わり」
「うぅ、うぅ、ありがとう」
目元を緩ませた柳沢さんにつられ、おれの表情も柔らかくなる。
柳沢さんの笑顔は、実は珍しい。
普段は厳しい顔で奇声を発し、唸っている。
柳沢さんは、身体に力が入る病気だった。
今も歯を食いしばり、上体を起こしながら、高齢の、女性にしては血管の浮き出た二の腕を天井に向けている。
「ごめん。また来るからさ」
上体をベットに寝かせ、その腕を撫でるように触り、ゆっくりと下ろす。
「うぅ、お兄さんって、うぅ、優しい人だね」
さっさと次の患者さんのもとへ向かおうとすると、ぽつりと、後ろ髪を引かれるようなことを言ってくれる。
仕事だから当然だ。
それでお金を貰っている。
治療行為をする看護師とは違い看護補助など接客業務のようなものだ。その感覚で言えば、むしろ、こちらが感謝すべきことなのかもしれない。
「……別に、優しくないけど。ありがと」
「……そっか。うぅ、うぅ、優しく、うぅ、ないんだね。優しい人って、うぅ、自分のこと優しいって、うぅ、言わないね」
虚をつかれた。
★
不意に昔のことが脳裏によみがえったり、なぜ虚をつかれたりしたのか。それはこの前、同僚の女の子に言われた事が原因かもしれない。
『さっきの、最低ですよね』
一緒に包布交換をしているときだった。
向かい側で布団を整えながら突然言われて、なじられたのだ。
『優しい人かと思ったら、自分より下だと思う人には強気な態度になる人だったんですね。なんか、そういうの気持ち悪い。ちゃんと見てましたよ』
まだ十代で、小顔の、十人男がいれば八人は振り返るような整った顔立ちの女の子だ。
その顔で、幻滅したという表情をされると、結構な破壊力があった。
どうやら、先輩の同僚に口答えをしていたところを見られたらしい。
迂闊だった。
いつもなら、その先輩と、二人きりのときにしかしないことなのだ。
先輩は、正看護師の資格がありながら同じ看護補助として働いている。
理由は、仕事ができないからだ。
単純作業でさえ、ミスが目立つので、こちらが常にフォローをしなければならない。それが原因になり、いつも誰かに陰口を叩かれているような人だった。
同僚の女の子も、看護学校を退学している。指導を受けていた看護師からのいじめを受けたらしい。今はその将来を諦めこうして働いている。だからこそ、許せなかったところがあるのかもしれない。
「うっ」
オムツ交換のため患者さんを連れて部屋に入ろうとしたとき、後ろから声が上がった。
振り向くと、同僚の女の子だった。
眉をしかめていた。
感じたことがすぐに顔に出るのは、若者らしくていいな、とおれは思う。
「あ、この人はいいよ。それより、奥の人浣腸したみたい。もう良いと思うんで、看護師さんと一緒に入ってください」
と言いつつ、今おれが連れてきた患者さんも、病衣からつなぎに着せる作業がある。
うまくやらないと抵抗されて厄介なことにもなるので、できるなら二人で入ったほうがいいだろう。
一緒に作業してからでも遅くはなかったが、嫌そうな顔をされてまで一緒にやる必要もない。
「は、はい」
同僚の女の子はあからさまにほっとした顔を浮かべていた。
病衣を脱がしていると、看護師を連れて戻ってくる。
楽しそうにおしゃべりをしながら、四人部屋の左奥ベッドのカーテンを閉めた。
すると入れ替わりに、先輩が入ってきた。無言で患者さんの背中を支えてくれる。
「ありがとうございます」
「……おう」
不愛想な顔が唇を突き出してそっぽを向く。
先輩が戸惑ったり、照れたときにする仕草だ。
一緒に患者さんを仰向けに寝かせると、向こう側の看護師が「あれ?」と何かに気付いたようだ。
「あらやだ、なにこの顎髭。縞模様になっていて中途半端。さすがに酷いわ」
「あ、これムネさんですね」
「やっぱそうなの。もう困ったわね。この前も、あの人が当てたオムツが漏れていて……」
ムネさんとは先輩のことである。
先輩が入ってきたことに気付かなかったのだろう。二人は悪意なく先輩のことを話の種にしていた。
「もう四十過ぎでしょ。こんなんじゃだめね。本当に困った人」
「……あの人って、奥さんいるんですか? 想像できないですけど」
「独身よ、独身。確かお母さんと実家暮らしだったわ。お金はあるんだろうけど、やっぱねぇ。そうだ。あなたまだ結婚してないわよね。あの人どう? お金はあるのよ。看護師と同じ給料もらってるんだから」
「……え、えぇ。それは、ちょっと、無理ですね。性格とかもそうですけどあの人の匂い加齢臭が――」
「おっほんおっほん! そういえばムネさんこの前おれが白衣出し忘れたとき気付いてくれてありがとうございました!」
おれが、わざとらしく大声を出すと、二人はピタリと会話をやめた。
「……」
先輩はコクリと頷いて、尿取りパットをクローゼットから取り出す。
気まずい雰囲気だ。
黙って尿取りで陰部を包み、ガードを当て、ズボンを履かせる。
そのまま、部屋を出て、オムツカートに回収したオムツを放り捨てた。
「……この前、悪かったな」
「はい?」
ポリポリと頭を搔きながら、やはり視線は逸らしたまま先輩は続けた。
「ほら、あなたが、注意してくれただろ。俺が、乱暴な手つきで患者さんをベッドに戻したこと。その患者さんを怒らせたこと。……気付かなかったんだ。それなのに、俺、カッとなって……」
「……はぁ。いいんすよ、そんなの。お互い様じゃないっすか。いつもなんだかんだいって髭剃りムネさんに任せっきりですし。本当に、いつもありがとうございます」
「……悪い。じゃ、俺、髭剃り続きやってくるから。あなたは、ステーションのゴミとか集めてくれるか」
「わかりました」
足早に去っていく先輩とまたもや入れ替わりに、部屋の扉がスライドする。
「……うっ」
「いやぁ、居たのね彼。気付かなかったわ」
あっけらかんと笑う看護師に、気まずそうに肩をすぼめる同僚の女の子。
おれは肩を竦める。
誤解は誤解のままでいい。
無理して解く必要もない。
ただ、自分が何を考え、どう思っているかは、おれはわかっている。
だから、焦らない。焦らず、他人が感じたことを受け止めることができる。
否定もしない。
それはおれの数少ない長所なのかもしれない。
★
――柳沢さんが、喉を詰まらせたみたい。暴れてるから、早く来て。
ピッチを受け取り、全速力で部屋に向かう。
すると、おれの顔を見た柳沢さんはピタリと抵抗をやめた。吸引が終わると、
「うぅ、うぅ。お兄さんの、姿が見えたら、うぅ。なんか、安心した」
無邪気な笑顔だった。そのまま目を閉じ、すぅと寝息を立てた。
「……いや不思議ね。さっきまで手が付けられないくらいだったのに」
「相性、かしらね」
看護師の呟きに、そうですね、と頷く。
「しかし、ミキサーでも……。もう長くないのかもしれない」
それから数日後のことだ。
肺炎になった柳沢さんはそのまま意識を失い、脳死を経て、静かに息を引き取った。
エンゼルケアをするために、看護師と一緒に処置に入る。
まだ体温の残る柳沢さんの身体を、固く絞ったタオルで、丁寧に拭いた。
化粧をし、着付けを整える。
こういうとき、看護補助で良かったと思う。
人生という戦いを終え、魂を失った身体に、精一杯の敬意を示すことができるからだ。
「ありがとうございました」
葬儀社の車に遺体を乗せ終えると、柳沢さんの兄が深く頭を下げた。
「こちらこそありがとうございました」
他の職員と一緒に頭を下げる。
泣き出す職員もいた。
柳沢さんは手のかかる患者さんだったが、それだけに職員全員の印象に残る人だった。
見送ることは慣れているとはいえ、もう会えないと思うと、誰しも辛いものだろう。
見送りを終え、霊安室の掃除に入ると、写真立てがポツンと取り残されていた。
忘れ物だ。
若いころの柳沢さんと、そのご主人との写真だ。
「いい写真だね」
ベッドの上にいつも置かれていたので、いつかおれはそれを手に取り、柳沢さんに見せたことがある。
すると、柳沢さんはスッと表情を無くし、言葉もなくじっと見つめていた。
――そうか。
今なら、なんとなく、柳沢さんの気持ちがわかる気がした。
それはきっと、その写真に象徴される思い出が、本当に大事なものだったからなのだろう。
思うとかそういうものではなく、身体の奥底、魂から湧き出た感情が表情を支配したのだろう。
いつか、おれは、幼馴染に違う、とは言えなかった。
それは、違うと否定をするのが馬鹿らしいくらい、幼馴染を、幼馴染の妹を大切に思っていたからだ。
そして、そのときに傷つけられた思いを抱えて、大事にしまって、今もおれはこうして生きている。そして今やその中の一人に、柳沢さんがいる。もうこの世にはいない、柳沢さんの言葉が、おれの魂に刻まれているのだ。
――優しい人って、うぅ、自分のこと優しいって、うぅ、言わないね。
おれは優しくなんかない。
優しさは行為であって、人格ではない。人それぞれ違う優しさの形があり、優しいと思う形があるだけだ。
しかし、少なくとも、柳沢さんはおれを見て優しいと思ってくれた。
本心から、思ってくれたのだ。
掃除を終えたおれは、写真立てを忘れず持ち、霊安室の扉を閉めた。
まだ、柳沢さんの魂が残っているような気がして、おれは一礼した。
さようなら。本当に、本当に、お疲れさまでした。
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