めいとの噛み合わない生活⑤
反撃の気持ちはあった。
あったが、思ったよりも一気に真っ赤になられてしまって、焦った。首元まで赤くなっていて、そのことでその肌の透明度を意識する。本日はポニーテールがゆえに、うなじまで真っ赤なのがよく分かった。
生唾を飲み込んでいたのは、無意識だ。
「そ、そりゃ!? ちょっとは意識するよ! そんな、知らないっていうか、お嬢様? 箱入り娘? とかじゃないんだから、ちょっとくらい考えるわ……よ、い、いけない?!」
羞恥でパニクっている。わあわあ喚く目が泳ぎまくっていて、視線が合わない。気の毒なほどだった。
「いけないとは言ってないから、落ち着け」
「落ち着いてるもん」
「落ち着いてねぇだろうが」
「な、何よ! 自分だって、ムラムラしてるくせに涼しい顔しちゃって!」
「自爆に巻き込むんじゃねぇよ! フライ返しを振り回すな!」
少し前から気付いていたが、時雨は結構ボディランゲージがでかい。というよりも、手が出る。多大な暴力ではないので可愛いものだが、地味に痛くて危ない。
俺は時雨の手を取って、フライ返しを奪おうと指に触れた。瞬間、ぴくりと震えて、時雨が動きを止める。それをまじまじと見下ろして、こちらもフリーズしてしまった。
紅に染まった顔。パニックで瞳は潤んでいる。きゅっと縮こまった肩。手が触れ合うほどの至近距離で、絡み合う指先。小動物のような小柄な体躯。いかにも女子。
それに気がついた途端、心臓のポンプが血液を送り出す分量を間違えたようだった。身体中が燃えるように熱い。
お互いに膠着したまま、三十秒以上見つめ合っていただろうか。時雨が俺の手を払い除けて、ぎゅっとフライ返しを両手で握りしめるように胸元に寄せる。
身を縮こまらせるような仕草に、トレーナーの上からでも豊満な胸が寄ったのが分かった。咄嗟に逸らそうとした視線が、思いっきりぶつかる。
「も、もう、手伝いはいいから」
声がひっくり返っている。未だに真っ赤なものだから、照れ隠しなのはバレバレだった。
「時雨」
「な、なに」
どもりすぎだ。
可哀想なほどの意識の塊はきっとよくない。これは、時雨が俺を意識しているというより、男女の問題だろう。慣れない、といったその体現なのではあるまいか。
「意識し過ぎ」
「分かってるよ! 自意識過剰だって。でも、しょうがないでしょ」
「しょうがないよな」
そう語り合ってから、まだ一週間も経っていない。時雨も、俺がそれを引っ張ってきたことに気付いたのだろう。羞恥の色がぼやけた。
「慣れるわけないじゃん。女子がいたら、そりゃハラハラするわ、俺だって。自分よりちっちゃくて可愛い子が? 生脚出して、無防備に歩いてるわけ。髪もすっげぇいい匂いするし、落ち着かねぇわ」
ぶっちゃけるようにぶつけると、時雨は面食らっている。
そりゃ、そうだろう。ひとつ屋根の下。同じ家に住んでいる男にこんな暴露をされて、平然としていられるわけがない。
特に、時雨はそうだろう。かく言う俺だって、ダメージがないわけじゃない。こんな欲望じみた本音を女子にぶつけたことなどなかった。……あったら、問題だだろうが。そんな問題行動を起こして、無傷とはいかなかった。
「そんなのと、それなりってどれくらいだよって話」
そこまで言って、時雨はようやくフリーズから解ける。視線を逸らした。
「じゃあ、どうしろっていうの?」
時雨のそれなりには、俺に気を使わせない理由と別に、自分が動揺しないための方便でもあったのだろう。それを否定するつもりもない。俺はそれに乗っかって楽をしようとしたのだから、言えた義理もないだろう。
時雨は投げやりな表情で俺を見た。困るとこんな顔になるらしい。俺はそんなことすら知らないのだ。時雨について、俺は何も知らない。
「慣れよう」
時雨のフライ返しを握りしめる手に力がこもる。意図を図るかのように瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いてきた。
「お互い。異性が同じ家に住んでるなんて、慣れないだろ。ただでさえそんななのに、それなりになんて考えてたら、いつまで経ってもどうしたらいいのか分からねぇよ。慣れるしかないだろ? それなりに、なんて考えなくていいからさ。文句も冗談も言えばいいし、小突いても殴ってもいいから、変な遠慮はやめよう」
「……気遣いは必要でしょ」
「だから、変なって言ってんだろ。兄ちゃんたちみたいに自由奔放なのは困るよ」
「それは私も嫌」
「でも、仲良くしてて欲しいだろ?」
「……うん」
そうだ。
俺たちは確かに兄ちゃんたちのやり方に多少の不満を抱いている。不満というほど、厳密な形を持っているかも怪しい。だが、それは確かに心の底のほうに霧状に停滞している。形を成すかどうかは分からない。そんな不確かなものだ。
しかし、そこにあることは間違いない。そして、それはそう簡単に消えてなくなるものでもなかった。
この生活を続けていて、気まずい気持ちになるたびに、存在を見つめることになる。無視しては生きていけない。
けれど、俺たちは別に兄ちゃんたちに不満をぶつけたいわけではなかった。こんなことで、二人の生活に不協和音を奏でたくはない。それだって本心で、胸中はさまざまな感情でごった返している。
それを唯一共有できるはずの相手と、それなりなんて半端な距離でい続けようとすればするほど、きっと泥沼だ。
「俺たちだって、仲良くやろう。それなりなんて、考えなくていい」
「いいの? 私、結構我が儘言うよ? 行儀良くないもん」
「別にいいよ……てか、手が出るし、言うことは言うじゃん」
「……ちょっと、油断してただけ。二人がいないから」
「だったら、もう油断してろよ。いいから」
時雨は少しの間目を伏せて、黙考する。俺も黙ってそれを見下ろしていた。時間が必要なのならば、いくらだって待つ。そのくらいの気概がなければ、切り出してはいない。
……後付けではあるけれど。それくらいの感情にはなっていた。
「……貴大君も遠慮しないって言える?」
「俺?」
「だって、そうでしょ? 貴大君の言い分を叶えるなら、お互いに歩み寄らなきゃ意味ないじゃん。私ばっかりにそのままでいいなんて、都合が良い」
「普通、そのままでいいって言われたら気が楽になるもんじゃないか?」
それが時雨の不器用な性格を現しているようで、苦笑する。
だからこそ、最初に線引きをして、自分の立場を明確にしたかったのだろう。そのくせ俺にも気を遣ったから、あんな提案になってしまった。
俺の苦笑をどう受け止めたのか。時雨は緩く眉を顰めた。
「分かってる。俺も遠慮はしない」
「約束よ」
「ああ。指切りでもするか?」
茶化して小指を立てると、時雨はそれをじっと見る。そして、何を思ったのか。正直に小指を絡めてきて驚いた。
仰天した俺を見て、時雨も本気でなかったと気付いたようだ。猫が飛び上がるかのようにびくっと我に返り、指を外された。勢いが良すぎたのだろう。がしゃんとコンロの端に手を打ちつけられてしまった。
「っ」
「ご、ごめん! 大丈夫?」
慌てた時雨が、たった今投げ出した手を掴まえてくる。触れられた指先は白くて細い。体格が違うと、指の細さひとつとっても、こんなに違うものなのか。折れそうで怖い。人の心配をしている場合なのだろうか。
「平気」
「ホント?」
そこまで信用ないのか。失笑が零れる。俺は触れられている指を掴まえ返して、指切りの形を作った。
「こんなことで気は遣わない。約束な」
「……針千本飲ます」
「そこだけ言うなよ! 指切った」
恨み言に聞こえる抽出に声を上げながら、指を離す。
時雨はふふっとおかしそうに笑った。
なんだか異様に満たされて、これでよかったのだと思う。やはり、変な壁は取っ払ってしまったほうがいい。少なくとも、俺と時雨はそっちのほうが性に合っている気がした。
……まだ、結果は出ていないけれど。けれど、それなりにと交わしあったときよりも、ずっと心は軽やかだった。俺たちはその軽やかな心地のまま、くだらない応酬。主に、ラブラブ夫婦への愚痴紛いの会話を繰り広げながら、カレーを作り終えた。
そうして、二人で食卓を囲む。そのころには、今までは感じていた気まずさは、かなり薄れていた。
「いただきます」
理彩さんの教育なのだろう。行儀にうるさい、とついさっき唇を尖らせていたが、その成果は出ているらしい。
夕食時に兄ちゃんがいないことも多かった。一人の食卓に慣れていた俺には不慣れな挨拶だ。それをしてから、スプーンでカレーを掬う。
ぱくりと口に含んで、硬直した。
「しぐれ」
「何?」
きょとんとした顔で首を傾げる時雨の手は、さくさく動いている。頬が引きつった。
「何入れた?」
「隠し味にコーヒー!」
「……入れ過ぎだろ」
「はぁ?! 美味しいじゃん」
「美味しい?」
「美味しいでしょ?」
「じゃりじゃりするんだが?」
「よくない?」
「よくねぇよ!」
「怒んないでよ! コーヒーはダメなのね、分かったから」
「コーヒーはダメじゃない。分量の問題だろ。味見しろよ」
「したもん」
そういえば、ちゃんとしていた。時雨はこれが美味いと言うのだから、本人的には味は合っているのだろう。
……理彩さんが時雨に料理させていなかったのは、もしや味音痴だからなのでは? 浮かんだ理由に、ごくんと生唾を飲み込む。
「次からは俺が作る」
「何それ。感じ悪い」
「いいだろ。次は俺の味付けの番だ」
「まぁ、いいけど。そんなムキになんなくてもいいじゃん」
「味覚の一致は大事だろ」
「普段はお母さんが作るじゃん」
「いいから、次は俺だ。時雨は休んでろ、いいな。絶対だからな」
「やっぱ、感じわるーい」
「それでもいいから」
必死な俺と不機嫌な時雨の緩い言い争いは、後片付けが終わるまでとめどなく続いた。味音痴の件を理彩さんに確認をしておこう、と心に決める。
その日。二人だけで迎えた初めての食卓は、賑やかなまま終わった。
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