めいとの噛み合わない生活②

「今日はどうしたの?」

「休みの日はこんなもんだよ」

「嘘だ〜。お出かけのときはちゃんとしてるもん」

「家のときはそうでもないだろ?」

「まぁ、それはそうだけど……そういえば、お家どうなの?」


 雪菜の家と俺たち兄弟が元住んでいたアパートはご近所さんだった。お互いの家へ行ったこともある。両親のことも知っているから、今回のことも知っている。

 ……兄ちゃんが結婚する。その家でお世話になる。理彩さんに娘さんがいる。そこまでは。

 雪菜の知らない肝心要な内容を思い出して、俺は苦い顔になった。


「……大変?」

「いや」

「娘さんと上手くいってないの?」

「まぁ……」


 どうなのだろう。

 上手くいっていないというほど、決定的なすれ違いも仲違いも起こっていない。どちらかと言えば、そうなる前段階ですらもない、という感じだ。最初から線を引かれているものだから、上手くいっているもいないもなかった。

 曖昧になった俺に、雪菜が心配そうな顔になる。


「カフェ行こうか?」


 これは長話になる際の誘い文句だ。

 苦笑しながら頷くと、雪菜はさっくりと本を持って立ち上がった。俺も借りたかったシリーズものを手に取って、二人揃って貸し出し手続きを行う。

 カフェへの本の持ち込みは禁止されているし、カフェからの飲食物の持ち込みも禁止されている。きちんと手続きを終えて、館内を移動した。

 道中に咲かせる花はないが、気まずくもない。雪菜とであれば、沈黙でも余計なことを考える必要はなかった。

 時雨とはそうもいかない。何か癇に障ることをしてはいないか。不機嫌ではないか。そういうことを考えてしまう。もちろん、そうではないことは分かっているのだ。それでも、落ち着かないというのが本音だった。

 カフェオレとレモンティーを注文して席につく。雪菜はこくりとレモンティーを飲むと、確かめるような瞳でこちらを見た。


「それで? どんな感じ?」

「これといった問題があるわけじゃない」


 俺が危惧していたような脱衣所での鉢合わせも起きないし、あわやということもない。そりゃ、時雨も家であるから、ラフな格好をしているが、そこにラッキースケベは起こらなかった。


「じゃあ、何? 娘さんに嫌われてるの?」

「そういうのでもなさそう」

「なさそう?」

「本音は分かんねぇだろ」


 そんなことを言い出したら押し問答だ。

 だが、実際の問題はそこだった。時雨は俺に気にしなくていいと言ったが、はたして本心からそう思えるものだろうか。

 理性的な部分では、そういう話になるのは分かる。そうして納得しようとしてくれているのであれば、俺に否はない。……否はないのだ。けれど、その見えない本心の距離感が気まずかった。

 それをぶち破らなければともに過ごせない、などと言い出すつもりはない。

 実の親兄弟であっても、本音の本音まで曝け出し合っている家庭なんて、そうそうないだろう。それは分かっているし、俺と時雨もそういうものだと割り切ってしまえばいいのだとも分かっていた。

 ただ、それはどうしても分かっているつもりになっているだけな気がしてならない。そして、それは時雨も同じなのではないのかと、うがってしまう。

 つまり、結局何も割り切れていなくて、もやもやしているんじゃないのか、ということだ。


「貴ちゃんはどう思ってるの?」

「別に悪い子じゃないよ。話してくれるし、普通?」

「可愛いの?」

「おい」


 どういう探りだと苦々しくなると、雪菜は小さく笑った。


「可愛いんだ?」


 まるで俺が肯定しなかったことが肯定だとばかりに目が笑っている。

 男所帯……というか、兄と二人。俺が女性に免疫がないことを、雪菜はよく知っていた。


「まぁ……」

「良かったじゃん。可愛いって思える子で」

「それ、関係あるか? ひどくないか?」


 外見でよいも悪いもない。雪菜がそんなことを言い出すとは思わず、顔を顰めてしまった。当の雪菜はぱちくりと目を瞬いている。


「だって、性格があんまりに悪かったら可愛いって思えなくない? 妹みたいなものなんだし、可愛いって思えるのは大事だと思うけど」


 なるほど、総合的なことを言っていたようだ。

 ……確かに、俺は時雨を可愛くないとは思っていない。より正確に言えば、外見的な意味でも普通に可愛いが。とにかく、線を引かれたことに不服はあるが、それ以上の悪感情はなかった。


「貴ちゃん、叔父さんだもんね。向こうも叔父さんと住むって困っちゃってるのかもね」

「叔父さんはやめてくれ」


 時雨に言われるのもダメージがあるが、続柄ではその通りではある。

 だが、雪菜に言われると、あらゆる意味で落ち着かない。仲の良い同級生に、おじさんとは呼ばれたくはないものだ。


「娘さんにしてみれば、事実でしょ。姪っ子さんか」

「そこにこだわるとぎくしゃくするんだよ、感情が」

「そんなに気になるもの?」

「兄夫婦の家にお邪魔してる罪悪感? みたいな?」

「曖昧だなぁ。でも、裕貴さん、そんなの聞いたら悲しむんじゃないの?」

「分かってる。兄ちゃんには感謝してるよ。でも、姪だと思うと、なんとなく向こうに悪い気がするんだよな。叔父のほうが年上ってイメージだし。年長者のくせにその子の家庭に入っていってる感じ? 甲斐性なしみたいな?」

「意識し過ぎるのが問題ってことか」

「そういうこと」


 これといった決め手になることを伝えたわけじゃない。雲を掴むような心情だ。それを限りなく察してくれるのだから、得がたい友人を持ったものだと思う。


「妹って考えはどうなの?」


 この話が持ち上がったときも、雪菜と話した。相談というよりも、雑談としてではあったが、その距離感がありがたかったものだ。妹ができるという着眼点を与えてくれたのも、雪菜だった。


「どっちもどっちかな、結局」

「気遣い屋さんだもんねぇ、貴ちゃんは」

「そんなことねぇけど」


 雪菜はたびたび、俺のことをそう呼ぶ。

 いい人に見られている分には悪い気はしないが、自覚はまるでない。多少の怪訝を含むと、雪菜は微苦笑になった。


「自覚ないから疲れちゃうんだよ。だから、出てきたんでしょ?」

「……図書館は好きだ」

「知ってるけど、貴ちゃんは同じくらい家も好きじゃん」


 上限いっぱいを借りて、貸出期間中を使って家で楽しむ。それが俺のルーティーンだ。確かに、図書館は好きだが、ずっとこもって読んでいるかと言われると、そうではなかった。

 ただそれは、図書館の居心地が悪いわけではなくて、時間の概念が飛んでしまうから注意しているだけだ。閉館まで残ってしまうと、家事がつかえる。そうした危機回避能力を発揮しているだけに過ぎない。だから、余裕があれば図書館に出てくることだってある。

 心の中ではぐだぐだと反駁が出てきたが、言葉にはならなかった。


「でも、貴ちゃん」


 雪菜の声が、先ほどまでよりも凛と響く。


「女の子一人にして逃げてきちゃダメだよ?」


 雪菜は優しい。優しいがゆえに、容赦はない。まったくもって正論で、ぐうの音も出なかった。


「だいたい姪っ子ちゃんでしょ? 一人にして大丈夫?」


 そう聞かれて、俺はようやく姪……時雨の年齢を明かしていなかったことに気がついた。

 なるほど、確かに、年下の女の子をイメージしていれば、可愛く思えることが大事だという話にもなるだろう。通りで微妙に噛み合っていないはずだ。

 完全な同級生。誕生日で競えば僅かにお姉さんにあたる存在。

 今更言い出せなかったのは、どういう感情だっただろうか。同級生の女子に、同級生の女子と住んでいると伝える。その暴露は、どうにも簡単に行えないものだった。


「……大丈夫だよ」

「本当に? いい子かもしれないけど、それこそ、本当は分からないよ? 寂しいっていうか、家も変わったんだし、戸惑ってたりしない?」


 具体的に並べ立てられると、後ろめたさが増幅する。


「……分かった! 分かりました。帰ればいいんだろ?」

「私はそこまで言ってないけどね?」


 にやにやしながら言ったところで、何の説得力もなかった。雪菜にはそういうところがある。俺は肩を竦めて、荷物をまとめた。雪菜も同じように荷物をまとめている。


「雪菜はまだいればいいだろ」

「ううん。私もそろそろ時間だから」

「そうか」

「そうだよ」


 雪菜には、こういうところがあった。

 俺はそれ以上言葉を重ねず、雪菜の言葉に甘える。帰りづらい背を押してくれるのだから、いいことだろう。優しいことだ。厳しくもあるけれど。

 それを甘受して二人で並んで図書館を出る。けれど、今までとは違って、帰り道は一緒じゃない。お互い今更それに気がついて、苦笑いしながら道を別れる。


「じゃあ、ちゃんと帰るんだよ」

「分かってるよ」


 念押しには苦い気持ちで頷いた。

 雪菜は満足したように、ぱっと笑う。そんな顔をされてしまっては、遠回りのひとつもできやしない。いや、そんなことを考えていたわけでもないけれど。

 俺は素直に帰路へと着いた。雪菜の思い通りであるような気がして釈然としないけれど、正論であるのだから、言い訳もできない。

 時雨は俺がいないからって寂しさを覚えたりはしないだろう。小さな女の子じゃないのだから。しかし、やきもきはしているかもしれない。

 何も言わずに出てきたのだ。どこに行ったのか、くらいは考えるかもしれない。俺が残された側だったなら、きっと考えた。いつ帰ってくるかも分からないとなると、気が抜けない。

 そこまで思うと、やはり逃げたのは卑怯な気がした。雪菜に言われるまで、自分の居心地の悪さしか考えていなかったことが申し訳なくなる。

 そもそも、俺は時雨に対してアクションを取っていない。線を引かれはしたが、それも彼女からの歩み寄りである。俺はただそれを受け入れただけに過ぎなかった。何のアクションも取らずに、線を引かれてしまったと相手のせいにしている。八つ当たりとまでは言わずとも、ぐずぐずしているのに変わりはない。

 このままでいいだろうと決め打っていたが、多少は歩み寄ってもいいのかもしれない。自分からどうにかしてみよう。叔父だという自覚はあるのだから、姪に世話をかけているのは情けない。

 雪菜に煽られた形ではあるが、関係値に前のめりになりながら自宅へと戻った。

 しかし、その威勢は空振りする。

 出て行ったときには並んでいた時雨のスニーカーがない。靴底が厚くて丸っこい白のスニーカーは、汚れも少なく丁寧に使っているようだった。それがない。出かけてしまったようだ。

 どこに、と巡らせつつも、どこかでほっとしている自分がいた。

 心意気だけは立派だったが、いざとなると気概が追いついていない。その惰弱さに深い息を吐き出しながら、リビングへと進んだ。

 荷物を置いて、洗面所で手を洗って戻ると、借りてきた本を取り出す。まずは上限十冊を並べてどれから読むか考えるのが、図書館帰りの楽しみだ。

 時雨との関係に思いを馳せていても、やることは変わらない。何より、当人が不在なのだ。いないものは、どうしようもない。そんなふうに言い訳を組み立てながら、俺は一冊を選んで本を捲り始めた。

 最初は、どこかで物音に耳を立てていた。しかし、時雨が帰ってくる気配はない。それが五分も続くと、俺はすっかり本の世界に夢中になってしまっていた。

 我に返ったのは、リビングの扉が開いた瞬間だ。物音に顔を上げると、エコバッグをぶら下げて帰ってきた時雨がいた。

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