第二章

めいとの噛み合わない生活①

 あれから更に三日。分かったことは、時雨は両親の前ではそれなりに俺と仲良くしているように見せる気があるということと、俺たちは揃ってインドアだと言うことだった。

 仲良く、の進展具合は連絡先を交換したことだろう。

 夕飯の席で、理彩さんが切り出したのだ。何かあったら連絡してね、と。

 そうか、とふと思ったものだ。俺の緊急連絡先はいつも兄ちゃんの携帯番号だけだった。これからは、もしものときは理彩さんの連絡先も候補に入る。それはなんだかひどく胸を暖かくした。

 その流れで、時雨とも連絡先を交換している。兄ちゃんたちに微笑ましく見守られたのは渋かったが、歩み寄っている様子を見せられるのはやぶさかではない。

 それなり、がどのくらいかはさっぱり掴めなかったが、一応よい成果だろう。

 表面上であるのは共通認識のようで、それっきりメッセのやり取りなんて一文字もしてない。理彩さんからは、よろしくねと確認するかのようにメッセとスタンプが届いていたので、時雨との仲良しの上っ面っぷりはなかなかだった。

 夕飯の席では顔を合わせて雑談をするが、日中は不干渉を貫いている。一般家庭でもそんなものなのかもしれないが、如何せん慣れていない。本調子にはなれそうになかった。

 だが、兄ちゃんたちが楽しそうであるからいいのだ。

 これもまた、時雨との共通認識であるようだった。ここがぶれていたら、こんな図ったようなことはできなかっただろうから、俺は結構安堵している。心持ちの面ではそうして安堵していたが、実生活の面では些か微妙なことは否めない。

 インドアで馴れ合わないもの同士が二人。家にこもっているのだから、曇りなく晴れやかとはいかない。時雨は部屋から出てくることもそうないが、だからと言って気楽ではなかった。自由な時間がある分、不意に鉢合わせるとぎくしゃくしそうになる。

 時雨が部屋を出てくるのは、昼時とトイレくらいなものだ。ステンレスボトルにお茶を作って持ち込んでいるようで、水分補給に出てくることも少ない。

 とはいえ、お茶だけでは飽きることもあるだろうし、なくなることもある。そんなときはキッチンにやって来るので、俺はそのたびに読書の手を止めてしまう。

 向こうにしてみれば、俺のほうこそ部屋で読めよという感じだろうが。

 だが、俺の部屋は家の中で一番奥まったところにある。リビングからも風呂場からもトイレからも遠い。と言っても、豪邸ではないからしれているけれど。

 それでも、物音の届き方は変わってくる。リビングのほうが聞き取りやすいのだ。

 洗面所で鉢合わせなんてしたくもない。脱衣所も兼ねているので、もし時雨が昼間からシャワーを浴びるようなことがあれば、鉢合わせなんて洒落にならなかった。

 そりゃ、ラノベのそんなシチュエーションにテンションが上がることはあるが、現実に落とし込まれると、単純に怖い。時雨が怒るだろうということは無論、娘の無防備の姿を目撃したなんて知った日には、理彩さんがなんと思うことか。

 元々年下を可愛がるものであったからか、すっかり娘として時雨に甘い兄ちゃんも恐ろしかった。鉄拳制裁というほどではないにしろ、チョップを本気で叩き下ろしてくることはあるかもしれない。

 ブラコンなことを知っているがゆえに、娘への愛を想像して震えた。とにかく、そんな悲劇的な事件は起こしたくはない。

 よって、俺はリビングのソファに陣取っている。

 気を遣っていると言うのか。自分を守るための我が儘というのかは、考えないようにしていた。

 何にせよ、室内にこもるという点では変わりない。そして、どこか隙間風が吹いているのも変わらなかった。

 それに我慢しきれなくなったのは、俺が先だ。

 三日目にして、外に出ることにした。理由ができれば出かけるものだな、と遠い目になる。

 トートバッグに借りていた本をすべて詰め込んで、図書館に向かった。

 四人暮らしのためにマンションは引っ越したが、住んでいる市が変わったわけじゃない。通い慣れた、というには道筋は変わったが、図書館の場所に変わりはなかった。

 俺はそんな地上の楽園に向けて、桜並木を進む。卒業式や入学式に桜のイメージは付きまとうが、実際のところ卒業式には間に合わず、入学式には散り始めるのが実態だ。そろそろ満開。一番見頃ではないかという桃色のアーチを潜る。

 ゆっくりと息を吐き出すと、気持ちが楽になった。開放感とはこういうものか、と空を仰いでみたりする。空色のキャンバスとピンク色の花びらが彩る春の陽気が心地良かった。両手を広げてみたくなるような快晴だ。

 出てきてよかった。

 時雨から逃げるための消極的手段であったけれど、一歩踏み出せば、存外前向きな気持ちになるものらしい。

 図書館に着くと、まずは返却手続きをしてから、新着の棚を見る。待ちわびていた続編が入荷されているはずだったが、と目を凝らしたが見つけられなかった。

 別に、それならそれで構わない。読みたい本のリストは脳内に所狭しと書き込まれているけれど、それだけにこだわるつもりもない。

 図書館だ。フィーリングで本を選んでも、財布は痛まない。学生にとって、本の出費はあまりも痛かった。

 なので、俺はよほど気に入ったシリーズしか部屋の本棚に並べていない。将来的に揃えたいものはたくさんあるが、今は仕方がなかった。

 兄ちゃんは、本なら知識にもなるからと比較的寛容で、買おうとしてくれる。けれど、兄ちゃんは分かっていないのだ。活字中毒が、思いのままに本を求めたらどうなるか。破産確定だ。

 だから、俺はもっぱら図書館を利用している。作家さんへの還元もいつかきっと行う、と胸に掲げながらの所業だった。

 慣れた館内をうろつく。昨今の図書館には、ラノベもあるし、ネット小説の書籍化もある。ライト文芸の量も増えてきただろう。とにかく、文芸だけってことはない。貸し出し禁止で漫画を置いてあるとろこもある。

 子どもたちが気軽に足を向けられる工夫なのだろうか。それとも、家庭に問題を抱えている子どもが日中を過ごせる受け皿なのだろうか。

 併設のカフェから流れてくるパンとコーヒーの香りを感じながら、館内を散策する。シリーズ途中になっていた続きものを借りるかと足を向けると、その本棚の前に配置された席に見慣れた姿を見つけた。

 グレーアッシュのゆるふわボブの後ろ姿。俺はそこに静かに近付いた。隣の椅子を引くと、その子はすぐに顔を上げる。


「貴ちゃん」

「おう」


 佐久間雪菜は、小学生のころからの幼馴染みみたいなものだ。運動神経抜群で、中学時代はバスケ部のエースをしていたほどのスポーツ少女。高校もスポーツ推薦で決まったほどだが、だからと言って身体を動かしていないと気が済まないというわけでもない。

 過去、図書委員を一緒にやったこともある。雪菜が図書館にいるのは珍しいことではなかった。


「今日は何読んでんの?」

「えっとね、部活もの。バッテリーの物語だよ」


 読書もするが、生粋のスポーツ好きであることも間違いない。


「ああ……」

「あ、読んだことあるんでしょ? ダメだからね、しー」

「言わないよ」


 ネタバレするような野暮はしないが、その分読んだことのある本の反応は鈍くなる。

 読み終わっているなら話は別だが、雪菜は読んでいる途中だ。余計なことは言えないと思うと、気の抜けた相槌になる。だから、雪菜は俺が読んだことがあるものをすぐに察するようになった。


「貴ちゃんは? 何読むの?」

「シリーズもの。後は、ミステリーと……」


 道中、いくつか手に取った本を積み重ねて見せた。


「また表紙買いだ」


 正式には買ってないので違うが、他に呼び方もない。雪菜はいつも、俺が表紙で選ぶのをそう呼んだ。持っている本の内容をろくすっぽ答えられないものだから、状態は筒抜けらしい。


「面白そうだろ?」

「そうだけど……貴ちゃんって本当に冒険するよね」


 黒い表紙に銀の箔押しのようなタイトルが飾られている。星屑がちりばめられたような装丁は、でこぼこと文字が浮かび上がっていて触り心地がいい。


「いいだろ? 楽しいんだから」

「ハマったらそればっかり食べてたり飲んでたりするし、服装はいっつもシャツにデニムの定番。シャツがトレーナーとかパーカーとかに変わったり、後はアウターで調節したりするだけで、本以外は全然冒険しないのに」

「いいだろ、それは」


 それに洋服をあまり持っていないのは、単に節約だ。決して、オシャレが面倒くさくて、失敗のなさそうなラインを着回しているわけではない。決して。

 というか、服装のことを雪菜にとやかく言われたくはない。

 雪菜だってだいたい同じようなものだし、違いがあるとすればジャージが加わるくらいのものだ。それは部屋着的意味合いのジャージでもオシャレジャージでもなく、スポーツ用品としてのジャージだが。


「いいけど、髪の毛跳ねてるのは気を抜き過ぎだと思う」

「うわ、マジ?」


 逃亡するかのように家を出てきた。思いつきだ。それでも整えたつもりでいたが、不十分だったらしい。

 襟首の髪に触れて撫でつけていると、雪菜の指が伸びてきた。つむじの辺りを撫でてくる。


「アホ毛」


 ふふっと笑いながら、ゆるりと梳いてくる手つきが擽ったい。


「アホ毛は寝癖じゃないだろ」

「でも、いつも跳ねてるわけじゃないし、セットが甘いから目立つんでしょ?」


 返す言葉もない。

 アホ毛が立ちやすいらしく、放っておくとそうなる。面倒だが、学校ではちゃんとセットするようにしていた。毎日立つわけでもないアホ毛は、寝癖をそのままにしているようにも見えるのだ。休日に気にするほどのことでもないけれど、学校となると話は別だった。

 下手に雑な格好で行くと、親がいなくて大変なんだねなんて同情を買う。そんなものはごめんだ。それを回避するためならば、朝の貴重な時間をセットに当てるくらい安いものだった。

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